第五の扉◇エヴェレットの薔薇
「はぁ、はぁ、はぁ。……ぅぐっ、だっはぁ、はぁ、はぁ……」
僕は今、一生懸命に走っていた。今朝一番に通販で届いた二十一本の真っ赤な薔薇を抱えて。彼女の誕生日プレゼントの薔薇だ。今日は僕の彼女『真優子』の二十一歳の誕生日なのだ。僕が走る度に抱えた薔薇が揺れて、心地良い芳香が漂う。
でも、今の僕にとってはそれどころではない。朝一番に届いたと言っても通販業者が配達する時間だ。遅いブランチを摂るような、そんな時間だ。僕が真優子のマンションに辿り着こうと思った時間もそんな時間だったのに。
とにかく僕は走っている。幸いなことに今日は日曜日の朝だ。真優子はまだ寝ているか、起きていたとしてもユッタリとした時間を過ごしている筈だ。
とにかく僕は、真優子をビックリさせたいのだ。そして、僕の気持ちを届けたいのだ。出来得ることならば真優子にプロポーズを……。
そんなことを考えながら、僕は走っていた。電車の扉が開くのがもどかしくて、改札にカードをかざすことさえ煩わしくて、真優子のマンションへとひたすら走った。朝一番で届いた二十一本の薔薇の芳香を振り撒きながら。
真優子のマンションの前に辿り着いてから、僕は息を整えた。駅から全速力で走ってきたなんて真優子に悟られたくない。大きく深呼吸をしてから、マンションのセキュリティパネルに真優子の部屋番号と彼女に教えてもらっている暗証番号を押して『CALL』のボタンを押した。
しばらくの間があって、スピーカーから真優子の声が聞こえてきた。
「おはよう、悟さん。今日は早いのね。どうしたの?」
僕は口元が緩んだ。
「うん、君を驚かせたくてね」
そう言って、モニタカメラに二十一本の薔薇の花束をかざした。
「憶えててくれたの? 嬉しいわ」
真優子の弾む声に僕は安堵した。
「誕生日、おめでとう」
僕は心を込めてそう言った。
「今、鍵を開けるわね」
真優子がそう言うと、セキュリティランプがグリーンになった。
「どうぞ。部屋に上がって来て」
真優子は屈託のない声で僕にそう告げた。
「うん、分かった」
返事をした後、僕はマンションのセキュリティスペースから静かに開いた自動ドアから入った。僕がドアを通り過ぎると、自動的にドアが閉まった上に「カチャ」という音と共にロックされた。そして、マンションのロビーを通ってエレベータの前に辿り着いた。
エレベータの扉は既に開いていて、まるで僕を待っているかのようだった。慌てることなくエレベータの中に入ると静かに扉は閉まった。振り返ってエレベータのパネルを見る。そこには一から二十までの数字が書かれたボタンが整然と並んでいた。このマンションは二十階建てで、真優子が住んでいる部屋は十九階にある。僕は何の迷いもなく「19」のボタンを押した。ボタンを押した途端に、微妙な振動と共に床に押し付けられる感覚を感じた。それはごく普通のエレベータに乗った時の感覚だ。僕はエレベータが上昇し、真優子の住む十九階へと近づくのを感じていた。
エレベータの扉の上にあるLED表示が「17」に変わった瞬間に、それは起こった。頭上の、エレベータボックスの天井の、その遥か上の方で音がした。解け切れるような低くて鈍い音が響いた。その瞬間、エレベータボックスの中は停電になり、操作盤の表示も階を表示するLEDも消えた。そして、一番顕著な変化はエレベータボックスに上昇する感覚が無くなり、明らかに下がり始めたことだ。そして身体がフワッと浮き始めたのだ。
その時点で僕は気が付いた、エレベータボックスを吊るワイヤーが切れたのだと。僕の身体はフワリと浮き始め、遂に僕の脚が床から離れた。二十一本の薔薇の花も宙に浮き、重力で下向き加減だった花弁が本来あるべき位置へと移動して、最高の薔薇の花を形作った。
しかし、空中に浮きながら薔薇の花を見ていられたのは何秒も無かっただろう。あっという間にエレベータボックスは地下の基礎部分にまで達し、もの凄い音を立ててコンクリート基礎に激突、大きさは縦方向に三分の二にまでへしゃげて潰れたようだ。それ以前に僕は、頭から激しくエレベータボックスの床に叩きつけられ、頭蓋骨が割れたようだった。そして持っていた二十一本の薔薇の花は、僕が床に叩きつけられると同時に手を離したらしい。激しく床に飛び散った後、反作用で花弁が舞い上がり、動かなくなった僕の上にパラパラと降り注いだ。そして、僕の意識は瞬時に消え去っていた。
「また来ちゃったんだ」
「そのようですねぇ」
僕はアルトボイスでヒラヒラした喋り方の女の人と、頭のてっぺんから出ているような甲高い男の人の声が聞こえて、僕は目覚めた。どうやら僕はまだ生きているらしい、それも傷一つない状態で。僕は自分の身体を確かめつつ、毛足の長い絨毯に手を付いて起き上がろうとした。
「気が付いたようですよ」
「見れば分かるわ」
ヒラヒラ喋りの女の人と甲高い声の男の人がジッと僕の様子を見ているようだ。
僕は立ち上がって、周りの様子を見た。
毛足の長い真っ赤な絨毯が敷き詰められ、アンティークでデコラティブなチークで装飾された内装、室内に一つしかない小さな窓にはアイリスのステンドクラスが嵌め込まれていて、そこから差し込むオレンジ色の夕陽が、強烈に部屋の中を紅く染めていた。
そして、そこには二人、いや、一人と一匹が佇んでいた。
赤いベルベットの生地で張られたキャブリオレのカウチソファに、黒の喪服を着てベールの付いた黒の帽子を被った比較的若そうなご婦人が座っていた。その傍らに、縞模様が世にも珍しい水色の猫が、器用に二本足で立っていた。ただし、その右前足にはチタンブレードの長剣が握られていて、それを杖代わりにしていた。
「ここは?」
僕は、縞模様が水色の猫ではなく、喪服のご婦人に尋ねた。しかし、返答は水色の猫から甲高い声で返ってきた。
「通称で『アインシュタイン・エレベータ』という場所ですが」
一人と一匹はジーッと僕を見詰めていた。
「アインシュタイン・エレベータ? 何です、それは?」
僕は再び尋ねた。今度は水色の猫に。
「それを説明しろとおっしゃる? 説明するのは構わないのですが、あなたが理解するにはちと酷のような気もしますが」
眉間を八の字にして困っている水色の猫をよそに、喪服のご婦人がカウチソファに座ったままで口を開いた。
「私は『マーサ』で、こちらの猫ちゃんは『ドド』さん。ここはね、簡単にいうと『時空の狭間に浮かぶ箱』ね。それ以上の説明は無意味だと思うから言わないけれど」
そう言って「マーサ」と呼ばれているご婦人はうふっと笑った。
「僕は悟。恋人の真優子に二十一本の薔薇を届けようと……」
気が付くと僕は二十一本の薔薇の花束を持っていた。しかもエレベータボックスが落下衝突してクシャクシャに飛び散る前の花束だった。
「ねぇ、その薔薇の花を私に一本、くれないかしら?」
マーサは僕に尋ねた。
「えっ、これは駄目です! 真優子の誕生日プレゼントですから二十一本でないと意味が無いんです」
僕はキッとなってマーサにそう言った。
「そう、そうなの。それは残念ね」
不敵な笑いをしながら僕から視線を外したマーサ。僕はちょっと言い過ぎたかなと思ったけれど、今の僕にとっては無理な話だった。
「残念どころの騒ぎじゃないですってば、マーサ!」
甲高い声でドドさんと呼ばれた猫が、マーサに進言していた。
「いいのよ、そのうちに解るわ」
マーサが宥めるようにドドさんに告げた。僕には、何が何だかサッパリ話が解らなかった。
「とにかく元の場所に戻してください。お願いします」
僕は二人に頭を下げた。
「解ったわ」とマーサ。
「いいでしょう」とドドさん。
その瞬間に僕の視界には白い光が溢れて何も見えなくなった。
白い光が徐々に消えていくと、僕は扉の開いたエレベータの前にいた。すぐさま乗り込んで「19」のボタンを押した。扉が閉まってエレベータは上昇し始めた。
僕は夢を見ていたのだろうか?
そんなことを考えていたら、今度は「18」の数字で異変が起った。エレベータボックスを吊り上げているワイヤーが切れて、僕は再び地下階のコンクリート基礎に激突した。意識が消え去ったと同時に、またしてもマーサとドドさんの声が聞こえてきた。
「お帰りなさい」
「また戻ってきましたね」
僕は薔薇の花束を持ったまま、既に立ち上がっていた。
「どういうことなんです?」
問い掛ける僕に、マーサは不敵に笑って僕に尋ねた。
「だから言ってるでしょ、私にその薔薇を一本、渡しなさいって」
僕は頑として拒否した。
「駄目ったら駄目です!」
僕の言葉を聞いてドドさんは深く溜息をついてから訊いた。
「やっぱり戻して欲しいんですよね?」
僕は大きくうなずいた。すると、先ほどと同じく白い光に包まれた。
白い光が消えると、先ほどと全く同じく、僕は扉の開いたエレベータの前にいた。今度はゆっくりと乗り込んで、十分な時間を掛けて「19」のボタンを押した。静かに上昇していくエレベータボックス。ところがやはり異変は起きた。今度は「15」の数字だった。
「早いじゃないかぁー!」
僕はそう叫びながら、エレベータボックスと共にコンクリート基礎に激突した。そして三度、マーサとドドさんが佇む『アインシュタイン・エレベータ』に舞い戻った。
僕は薔薇の花を抱えたまま、うな垂れていた。そして力無く叫んだ。
「どうなってんだよぉ~!」
しばらくの沈黙の後、ドドさんが甲高い声で喋り始めた。
「パラレルワールドって知ってますよね? 多層世界とか平行世界とか呼ばれてますけど。微妙に条件が違う世界がたくさんあるという考え方。でも、そんな世界はこの宇宙には何処にも存在しないんですよ。代わりに『多世界解釈』が存在するんです。一つに収斂するその前そしてその後には『観測者を含めた、たくさんの世界が存在する』という解釈ですね」
一気に喋ったドドさんは息を整えた。キンキンと頭に響く声で捲くし立てるドドさんの言葉を何とか理解しようと、僕は必死だった。
「しかしながら、悟さんには『収斂した後のたくさんの世界』は存在しないんです、残念ながら」
ドドさんは寂しそうな顔をして僕を覗き込んだ。僕はハッとした。
「それは僕が必ず死ぬってこと? しかもエレベータの墜落で?」
大きな声で叫んだ僕に、カウチソファで座っていたマーサが静かに答えた。
「そう、死ぬのよ。エレベータの落下で」
マーサの答えに、僕は雄叫びを上げた。
「何てことだっ!」
それでも静かにマーサは答えた。
「だから、私が『条件変更』を提示してるじゃない」
僕はアッと思った。
「そうか。僕は二十一本の薔薇に固執していた。それなんだね?」
僕の言葉にマーサとドドさんはうなずいた。
「でも、どうしよう。真優子は二十一歳になるんだ。二十一本でなければ意味が無いよ」
僕の言葉に、マーサがケラケラと笑った。
「そんなモノが何だって言うのよ!」
僕はマーサの言葉が何となく理解出来た。
「そうか、そうだよね。……うん、そうなんだ。解ったよ」
僕はそう言って、二十一本の薔薇の花束から一本、特に大きくて綺麗な薔薇の花を抜いてマーサに差し出した。
「どうぞ、マーサ。薔薇を受け取ってください」
マーサは嬉しそうにその薔薇を受け取った。
「ありがと、悟」
すると、またしても白い光が視界に溢れて、僕を包み込んだ。
白い光が消えると、やはり僕は扉が開いたエレベータの前にいた。僕はゆっくりと乗り込み、確実に「19」のボタンを押した。静かに扉が閉まり、床に軽い重力加速を感じて、扉の上に表示している数字を見上げた。「15」「16」「17」と順調に数字が重なっていく。「19」を表示したところで『フォーン』という音が鳴って、扉が開いた。
僕は焦ることなく、真優子の部屋まで落ち着いて歩いた。
「ピンポーン」
呼び鈴を押すとまるで待ち構えていたように扉が開いて、中から真優子が出てきた。僕は真優子が言葉を発する前に薔薇の花束を差し出し、こう言った。
「誕生日、おめでとう!」
真優子は薔薇の花束を受け取って僕の顔を見て言った。
「悟、ありがとう。嬉しいわ!」
真優子は薔薇の芳香を味わい、薔薇を見詰めた。
「うーん、いい香り」
その後、不思議そうな顔をした。
「……ん? あれ? 薔薇の本数が二十本しかないんだけど?」
僕はニコリと笑って答えた。
「うん、そうなんだ。女神様が僕にこう言ったんだ。『私に一本渡しなさい。そうすれば素敵な未来を約束しましょう』って」
真優子は半信半疑だった。
「まぁ、悟ったら! そんな嘘を吐かなくてもいいわよ。間違えたなら間違えたって正直に言ってよ」
僕は顔を崩した。
「実はそうなんだ、ごめんよ。本当にごめん」
真優子は最高の笑顔を僕にくれた。
「そんな正直な悟さんが、あたしは大好きよ」
そう言って僕を抱き締めてくれた。
「さぁ、中に入って。あたしを祝ってくれるんでしょ?」
「あぁ、盛大にね」
僕は真優子の部屋の中に入った。
「たった一本の薔薇の質量が、この男の人生を左右したってことですかね?」
ドドさんは独り呟いた。
「たった数十グラムがワイヤーの『切れ』を防いだと」
ドドさんの呟きに、マーサは反論した。
「ううん、違うわ」
ドドさんはビックリしてマーサを見た。
「では、どう解釈されるのですか?」
マーサは淡々と語った。
「薔薇の本数に彼の執着が無くなった時点で収斂し、違う未来が選択されたのよ。だから、エレベータのワイヤーはもう切れないわ」
ドドさんはその言葉に納得していた。
「なるほど。そういうことですか」
「そういうことよ」
マーサとドドさんは顔を見合わせて笑った。