第三の扉◇翼の生えた少女
沸騰直前で火を止めた味噌汁の匂いが食卓を満たしていた。
「孝子、遅刻するわよ」
母親はあたしを急かせた。衿に黒い線が一本入った白のセーラー服を頭から被り着て、赤いリボンを胸の前で止める。そして絣のモンペを穿いた。
「分かってるわよ、今日は工場動員だから遅刻したら怒られちゃう」
あたしは焦っていた。あの教官はあたしを目の敵にしているから、特に遅刻には注意しないと。あたしは卓袱台に座って芋粥を掻き込み、具材が無い熱々の味噌汁をすすった。あたしが食事をしている最中に、母親があたしの髪をお下げの三つ編みにしてくれた。
「ごめんよ。育ち盛りで、しかもお国のために働くおまえにこんな朝御飯しか出せなくて」
三つ編みをしながら母親は、申し訳無さそうにあたしに言った。
「今は戦争してるんだもん、仕方がないわ。あたしは元気だから大丈夫よ」
あたしはそう言って味噌汁を飲み干した。
「ご馳走様。それじゃ、行ってきます」
あたしは玄関へと直行した。
「気を付けてお行きよ」
母親の見送りに手を振って応えたあたしは自転車に飛び乗った。
家を出たのは朝八時。工場までは二十分の道程だ。集合時間の八時半までには充分に間に合う。あたしは余裕でいつもの風景を見ながら工場へと向かっていた。見上げると真っ青な空が広がっていて、気持ちのいい天気だった。
「今日も蒸し暑くなるのかな?」
あたしはそんなことを考えながら自転車を走らせていた。そして、もうすぐ工場に着くという時にそれは起こった。
ピカッ!
もの凄く大きな光の玉がほぼ頭上で光った瞬間に、あたしは身体全体にもの凄い熱さと皮膚に差し込むような痛みを感じた。その熱さと痛みがあたしの身体をズンズンと侵食していく。それでもあたしはまだ自転車を漕いでいた。
ドーン!
熱さと痛みがあたしの身体のほとんどを覆い尽くしてしまい、あたしの視界が白くなった。その直後の凄い音があたしの鼓膜を破り、その後は静寂そのものだった。そして、あたしは自転車を漕いだまま、あたし自身の身も心も陽炎のように消えていくのを感じていた。
気が付くと、あたしは素敵な部屋の中に立っていた。
毛足の長い真っ赤な絨毯が敷き詰められ、アンティークでデコラティブなチークで装飾された内装、室内に一つしかない小さな窓にはアイリスのステンドクラスが嵌め込まれていて、そこから差し込むオレンジ色の夕陽が、強烈に部屋の中を紅く染めていた。
「綺麗なお部屋。ここは何処なの?」
あたしは誰に問うでも無く、ふとそんな言葉を口にした。
「ここは『アインシュタイン・エレベータ』っていう部屋よ」
少し低めの音程でヒラヒラと喋る女の人の声があたしの質問に答えてくれた。
「ようこそ、天使のお嬢さん」
頭のてっぺんから出ているような甲高い声の男の人の声があたしに挨拶しているようだった。
「あたしは天使なんかじゃないわ」
あたしはそう言って、女の人と男の人の声がした方向へと向きを変えた。
そこには二人、いや、一人と一匹が佇んでいた。
赤いベルベットの生地で張られたキャブリオレのカウチソファに、黒の喪服を着てベールの付いた黒の帽子を被った比較的若そうなご婦人が座っていた。その傍らに、縞模様が世にも珍しい水色の猫が、器用に二本足で立っていた。ただし、その右前足にはチタンブレードの長剣が握られていて、それを杖代わりにしていた。
「あなたたちは誰?」
あたしは喪服の女の人と水色の猫をジッと見て尋ねた。
「私は『マーサ』って言うの」
喪服を着たちょっと低い声のご婦人が自己紹介をした。
「こちらの水色の猫ちゃんは『ドド』さん」
「『ドド』です。よろしく」
マーサに紹介された水色の縞模様で甲高い声の猫ちゃんが会釈をした。
「それで、貴女の名前は?」
マーサが優しく微笑んであたしの名前を尋ねた。
「あたしの名前は『孝子』って言います」
上目遣いでマーサを見ながら、あたしは答えた。
「孝子ちゃんね。うん、いい名前だわ」
マーサはニッコリと笑った。あたしは少しだけ、一人と一匹の態度に和んだ。
「ドドさん、どうしてあたしが『天使』なんですか?」
あたしは素直な疑問をぶつけた。
「どうしてって? 見れば分かるじゃないですか。貴女には白い翼が生えてますよ」
ドドさんがあたしをジッと見てからキョトンとして答えた。あたしは慌てて首を後に回してみた。白いセーラー服の四角い衿の向こう側に、純白で美しい羽根が見えた。そしてあたしが心の中で念じると、真っ白な羽根が生えた翼がバサバサと動いたのだ。
「うわーっ! ホントだー!」
あたしは驚いた。
「どうして翼が生えてるのだろう?」
あたしの疑問に今度はマーサが答えた。
「だって、貴女は本物の天使なんですもの」
あたしは更にビックリして叫んだ。
「あたしが天使? どうして? なぜ天使なの?」
あたしの言葉にマーサとドドさんは苦笑して顔を見合わせていた。少しの沈黙の後にうなずき合い、マーサがあたしの方を向いて口を開いた。
「貴女はもう死んでいるのよ」
その答えにあたしの顔は歪んだ。そして頭の中が酷く混乱し始めた。
「どういうことなの? 何で死んだの? いつ死んだの? どうして死んだの? 分からない! 何も分からない……」
あたしは頭を抱え込みしゃがみ込んだ。そして泣き崩れた。
「お母さん、あたし、あたし……」
あたしの目から止め処なく涙があふれた。
嗚咽が収まり掛けた時、マーサがあたしに声を掛けた。
「仕方がないわ、あんな状況だったんだもの」
あたしは少しずつ冷静になり、マーサの言う『あんな状況』を思い出し始めた。
「爆心地の最も近い場所に居たから、一瞬で炭化しちゃいましたからね」
ドドさんは『あんな状況』をスラスラと説明したみたいだけど、あたしには全然理解出来なかった。
「あたしが炭化? それも一瞬で?」
首を傾げたあたしにマーサが答えてくれた。
「特殊な爆弾が貴女の頭上で炸裂したの。それが『原子爆弾』なのよ」
「げんしばくだん?」
あたしは更に首を傾げたが、マーサはあたしに懇々と説明してくれた。
「ウランという原子核が起こす核分裂反応を使用した凄い威力の爆弾のことよ」
「うらん? かくぶんれつはんのう?」
あたしは更に更に首を傾げた。
「困りましたな。核兵器をどう説明しましょうかねぇ?」
ドドさんは肩をすくめたが、マーサは諦めなかった。
「物質の『原子』は分かるわよね?」
あたしはコクリとうなずいた。
「その原子を強引に分解すると分解が連続して凄いエネルギーが出る訳。エネルギーは分かる?」
あたしはまた、コクリとうなずいた。
「そのエネルギーを利用した爆弾なの」
あたしはうなずいた。詳しくは理解出来なかったけど、輪郭だけはおぼろ気に掴めた。
「原子が連続で壊れて、原子が壊れた時に出る『力』は凄くて爆弾になる、という感じ?」
あたしの解釈にマーサは納得した。
「そんな感じよ。その爆弾に貴女はやられたのよ」
マーサにそう言われても、あたしには全く実感がない。
「そう言えば、貴女が持っているその箱は?」
ドドさんがあたしに訊いた。
「箱って? ……あ、ホントだ」
あたしはドドさんに言われるまで箱を抱き締めていることに気付かなかった。箱は一国斎高盛絵の漆器で何処までも深い黒の鏡面が光り輝いて綺麗だった。その箱の上蓋に「堆彩漆」の技法で数式が描かれていた。
「E、イコール、M、Cの二乗。何ですか、これは?」
「相対論の有名な関係式ですね」
ドドさんがあたしに笑い掛けながら教えてくれた。
「『C』は光速で定数だから、この式は『質量とエネルギーが等価であること』を意味しているの」
マーサもあたしに微笑みながら説明してくれた。
あたしはふーんというしたり顔をしたけれど、実際は何のことだかサッパリと分からなかった。
「開けて御覧なさい」
マーサがそう言ったので、あたしは上蓋をそっと開けた。箱の中は金箔が貼られて眩しく輝いていた。でも、ただ眩しいだけだった。
「何も無いわよ」
あたしがそう言うと、ドドさんはニヤリと笑って箱の中を指差した。
「よぉーく、中を御覧なさいませ」
キラキラと輝く箱の中をよく見ると、真ん中に汚れのような黒い点があった。
「小さな黒い点があるわ」
あたしはそう言うと、マーサがニコリと笑って言った。
「その黒い点があなたを殺したのよ」
マーサの言葉にあたしは驚愕した。
「こんなに小さな消炭が、あたしを?」
ドドさんはドヤ顔であたしを諭した。
「マーサが言ったように『質量とエネルギーが等価』なんですよ。この〇・六八グラムのウラン二三五があの爆発を起こした全エネルギーなんです」
あたしは放心状態だった。とても信じられない。信じられる訳が無かった。もっともそれを信じられるだけの知識も知恵もあたしには無かった。
「信じられないと思うわ。でも、それが真実。それが科学。そして、それが戦争よ」とマーサ。
「特に核兵器という桁外れの大量殺人兵器はね」とドドさん。
あたしは沈黙してしばらく考え込んでいた。二人の言葉からあたしが読み取れたモノは『悲惨さ』だけだったけれど、それで十分だと思った。そして、あたしを見守るマーサとドドさんの方に向き直った。
「全部を知った訳じゃないけど、あたしの置かれていた状況や状態がどんな風だったのか、何となく理解したわ。ありがとう、マーサとドドさん」
あたしはマーサとドドさんに頭を下げた。それと同時に、あたしは自分の意識がスーッと遠くへ飛んでいくのを感じていた。
孝子が姿を消したアインシュタイン・エレベータには静寂が制していた。
「成仏したんでしょうか?」
ドドさんは不安げにマーサに訊いた。
「天使だから天国に行ったのよ」
ドドさんはマーサの突っ込みに額に手を当てて言った。
「これは一本取られました」
マーサは深く溜息をついた。
「しかし、翼の生えた少女とは。無常なものね」
「全くその通り」
ドドさんはただマーサの言葉にうなずくのみだった。