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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

時効

時効

作者: 左藤
掲載日:2012/02/09

以前別サイトでプロローグ部分のみ載せていた小説の、エピローグの部分をちょろっと書き直して短編に。現在時効は廃止されていますが、その前に思いついた作品なのでご了承ください。

 バーのドアをくぐったのは、もう時計が十時を回った頃だった。険しい顔で大きな体を縮こまらせながら入ってきた藤崎を見て、田村が目を見開く。それには構わず、藤崎はカウンターではなく、窓際のテーブル席に腰を下ろした。遅れて「いらっしゃいませ」という田村の声が聞こえてきた。




 十五年前の話だ。その家は、天野市の郊外にある森のほとりにひっそりとたたずんでいた。その家に住む三人が、首を掻き裂かれて死んだ。実に見事に首の血管を引き裂かれた被害者は、ペンキをぶちまけたかのような鮮血の奔流を壁にほとばしらせて絶命していた。


 忘れようも無い光景。大量の出血により死んだ家人。むせ返るほどの血の香り。まだ若手の刑事だった藤崎は、その光景を吐き気をこらえながら見ていた。


 


 バーを訪れる二時間ほど前、藤崎は、もう一度だけ犯行現場を見ておこうと、埃の堆積した古びた家に、再び足を踏み入れていた。最後にここに来たのは、もう五年も前になる。何か見落としは無いか、わずかでも痕跡は残されていないか、祈る思いで敷居をまたいだのだった。しかし今日の藤崎は、あの時とは打って変わった静かな心持で、戸をくぐった。みしりと軋む床に足跡を残し、懐中電灯片手にあの部屋へと向かう。


 時を越えて保存された部屋は、埃の厚みが増した以外に、変わったところはないようだった。ただ、床一面に染み付いた赤黒い痕から立ち上る臭気は、幾分弱くなったように感じられた。


 普遍なものなど無い。全ては薄れて消える。


 それは記憶も同様だった。


 藤崎は、記憶の細部が予想以上に風化しているのを感じ、鈍い衝撃を受けた。この机はこんなに小さかったか? この窓はこんなにも大きかっただろうか? あの日踏み込んだ部屋は、もっと帳を下ろしたような陰湿さを醸していたような気がする。しかし記憶は、ディテイルを失っていく一方、鮮烈な一面の紅の印象だけは、ますます増していく。いずれはこの色を残して全てを忘れてしまうのか、忘れられるのだろうかと自問しても、当然答えは分からなかった。




 捜査が行き詰まった頃、浮かび上がったのが、田村敬一という男だった。かつて被害者のもとから養子に出されたという男。問題は、北海道に引き取られていったはずのその男が、誰に知られるともなく、被害者と同じく天野市に移り住んでいたことだった。


 現れたその男に、疲れが見えていた本部は熱気を取り戻した。しかし、田村には他に不審と思える点が見つからない。深夜から早朝にかけての犯行のため目撃証人もおらず、田村はその日も当時勤めていた会社に普通に出勤していた。


 ただ、藤崎は一人、田村が犯人だと確信していた。初めて取調室での田村を見たとき。温厚そうな顔に不安を映した表情で座っていた。しかし、部屋を出る瞬間、ドアの横にいた藤崎だけに見えた。田村が、目をぎらつかせた凄絶な表情を浮かべたのを。一瞬だったが、あの時は鳥肌が立った。あんな顔をする奴が、何も無いはずが無い。


 藤崎の思いとは裏腹に、田村は無罪放免となる。




 バーの時計は、遅々として進まないようにも、矢のように突き進んでいるようにも思えた。”OPEN”のプレートが掛かるドアから入ってくる者もおらず、向かいに座った田村との静謐で虚ろな時間がただ過ぎていく。思えばあの日本を震撼させた事件から、十五年の歳月が経とうとしている。こちらも長いようで短いような、不思議な月日だった。俺は、何をしていたんだろうな…と、振り返って思う。何もしていなかった。時間は無闇に浪費され、そして俺はここでこうして、その時間が終わるのをただ待っている。


 奇妙に艶光って見えるテーブルの上には二つのグラスが置かれており、それぞれブランデーとジンジャーエールが入っている。先ほどおもむろに田村が置いたものだ。田村は下戸だった。


 静かだった。それだけしかなかった。




 放免となって少したった頃、田村は勤めていた建設会社を辞め、かねてからの夢だったというバーを開いた。“渚”とかいう、こじんまりとした店だった。藤崎は自宅には押しかけても、このバーには、今日まで一度も足を運ばなかった。




 時計が鳴った。静寂に染み渡る音。午前零時の訪れを告げる重々しいチャイム。グラスの氷がカランと揺れる。その瞬間、藤崎は走馬灯のように、薄れ掛けていたこの十五年の記憶がグラスの中に鮮明に映るのを幻視した。


 あの日の朝、連絡を受けて家を飛び出した。そして現場で見た、紅い部屋。部屋全体に塗りたくられたかのようの思えた、血糊の海。あの時から、藤崎はただ走り続けた。足をすり減らして聞き込み捜査に励んだ夏の日。諦念が頭をもたげる中、捜査線上に田村の存在が浮かび上がった時の本部の熱気と、取調室で対面した田村が、ほんの一瞬見せた表情。予想に反して過ぎる時間と焦燥感。結局、田村が犯人だという証拠は、最後まで見つからなかった。田村も黙秘を貫き通した。取調室で数え切れないほど対面したその顔には、あの最初の瞬間以外は最後まで、わずかな感情の揺らぎすら、読み取ることは出来なかった。証拠不十分で不起訴となった時の、言葉では表現できない、あの虚脱感。全ては今、過去になった。


「それじゃあ、もうそろそろ看板にします」


 唐突につぶやき、田村が立ち上がった。


「そうか…」

「藤崎さん」

「なんだ?」

「ありがとうございます」

「…なんだって?」

「あなただけでした。あの日のことを忘れずに、あの凄惨な出来事を忘れずにいてくれたのは」

「何を言っている」

「皆忘れてしまうんです。日々の生活や、新しい凶悪な事件、情報の波に呑まれて、記憶はどんどん薄れていく。そんな中、あなただけでした。あなたはずっと、あの事件を追っていた。この瞬間までずっと。だから、ありがとうございます」


 どういう意味だ。どの口で、誰に向かってそんな台詞を言っていやがる。心の奥底から沸きあがる激情を寸でのところで抑え、藤崎は田村を睨みつけた。しかし、当の田村は、ただ小さく笑うだけで、しかもその微笑が、どこか一抹の悲しみを宿しているように見えて、藤崎は目を疑った。


 田村が初めて見せる表情の揺れを見て、藤崎は、膨れ上がった感情が急速にしぼむのを感じた。そして、この十五年、特に今日この瞬間をこうして迎えることをぼんやり意識し始めてから、そしてそれを心の奥に封じ込めようと躍起になっていたこの数年の間、ずっとわだかまっていた、誰にも言えなかった疑問をぶつけてみようと思った。


「なあ、田村」

「なんでしょう」

「俺は…バカだったと思うか?」

「…はい」


 正直な野郎だ。舌打ちして席を立とうとしたが、続いた田村の言葉に藤崎は固まった。


「そして、私も…私は、もっと愚かでした」

「…そうか」


 その一言で、藤崎は、田村の内面を、ほんの一端ではあるが、垣間見た気がした。この男が藤崎と同じように、十五年もの間、誰にも見せることなく、心の奥底で抱えていた感情を。今の言葉は、多分、ついにあふれ出したその抑えきれない何かが言わせたのだろうと、藤崎は思った。


「ありがとうよ」


 藤崎は言った。今度は田村が目を見張る番だった。


 その後の田村の表情は見ずに、そのまま席を立ち、藤崎は薄汚れたドアを開け、店の外に出た。冬の到来を思わせる凍てついた風が吹きぬけ、思わず身震いする。ドアが閉じる直前、店に吹き込む風の音に混じって、中から押し殺した嗚咽が聞こえてきた。それがどんな感情から来たものなのかは、藤崎には分からなかった。




 田村の自殺が報道されたのは、時効を迎えたその日から三日後のことだった。そこにあった遺書には、藤崎への謝罪。


 罪を犯したことと、それを贖う勇気がなかったことの。


 藤崎は、遺書を読む手を震わせながら、ただ無力感とやるせなさをこらえ、力なく地面に膝をつくだけだった。

中途半端な感じですが、虚ろな読後感にしたくて書いていたらこうなってしまいました。


いつか元気があれば長編版を書きたいかも。


<追記>3/9微修正。

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