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「星読みなど不要だ」と追放された宮廷天文官ですが、私の星図帳なしでは王国の農業も海運も回らないようですよ

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/25

「星読みなど迷信だ。お前にはもう用がない」

 王太子エドヴァルトの声が、天文台の丸天井に反響した。

 ステラ・ヴィルデは、六年間通い続けたその天文台の窓から、最後の星空を見上げた。冬の大三角が美しい夜だった。

「承知いたしました、殿下」

 泣かなかった。声も震えなかった。

 六年間、毎晩この天文台に上り、星を読み、記録を書き続けてきた。二千百九十日。一日も欠かさなかった。

 その全てが「迷信」と呼ばれたことに、怒りがないわけではない。

 けれどステラは、星を読む人間だ。

 星は嘘をつかない。人の評価は変わっても、星の運行は変わらない。だから記録を続けてきた。それだけのことだ。

「引き継ぎの件ですが、過去六年分の観測データの読み方をお伝えする必要が——」

「不要だ。リリアーナ殿が聖女の神託で全てを占える。お前の古臭い星読みなど、もはや必要ない」

 傍らに立つ聖女リリアーナが、控えめに微笑んだ。長い金髪に碧眼。王太子はその笑顔に見惚れるように目を細めている。

「かしこまりました。では、星図帳は私物ですので、持ち帰らせていただきます」

「好きにしろ。紙の束など要らん」

 ステラは天文台の棚から、三冊の帳面を取り出した。

 一冊目は星の観測記録。二冊目は気象予測と農事暦。三冊目は潮汐表と航海指針。

 どれも表紙が擦り切れていた。特に二冊目は、背表紙を二度修繕した跡がある。毎日開くから、先に綴じ糸が切れるのだ。

 (六年分の夜が、この三冊に詰まっている)

 天文台を出る時、振り返らなかった。

 回廊の石畳を歩くと、体が不思議なほど軽かった。六年ぶりに、夜更かしをしなくていい夜が来る。

 冬の夜風が頬を撫でた。冷たいはずなのに、心地よかった。

 ——ただ一つだけ、心に残ることがあった。

 いつだったか。南の辺境伯領から、ステラの気象予測の写しを求める書簡が届いたことがある。毎季、丁寧な礼状が添えられていた。

 最後の礼状にはこう書かれていた。

 『貴女の予測のおかげで、今年も領民の命を守ることができました』

 あの書簡の主の名は、レオン・クロイツ。アルヘン辺境伯。

 一度も会ったことのない人だった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 ステラが宮廷星詠み官に任じられたのは、十八の時だった。

 星読みの才能は、母から受け継いだものだ。母もまた宮廷天文官であり、夜空の星の配置から気象を予測し、農事暦を編纂していた。

 母が病に倒れた時、ステラは全てを引き継いだ。十八歳の少女が一人で天文台を任されたのだ。誰も助けてはくれなかった。引き継ぎは母の枕元で、かすれる声を聞きながら行った。

 最初の一年は、誰も信じてくれなかった。

 「三日後に大雨が来ます。麦の刈り入れを早めてください」

 報告書を宮廷農務官に提出した。返事はなかった。三日後、嵐が来た。刈り入れが間に合わなかった地域は、三割の収穫を失った。

 そのとき農務官に呼ばれて言われたのは、「なぜもっと強く言わなかった」だった。

 (言いましたよ。書面で、三回)

 二年目。同じ報告書を出した。今度は農務官が渋々従った。嵐の前に刈り入れが終わり、被害はゼロだった。

 しかし感謝の言葉はなかった。「たまたま当たっただけだろう」と言われた。

 三年目。ステラは報告書の書き方を変えた。

 予測だけでなく、根拠となる星の配置、過去の類似パターン、的中率の統計を全て添付した。六十ページの分析レポートを、毎月書いた。

 三年目の秋、王国南岸に大型の嵐が接近した。ステラは五日前に警告を出した。港湾の避難計画を策定し、農務官と海軍提督に直接手渡した。

 嵐は予測通りに来た。避難は間に合い、死者はゼロだった。

 港が復旧した後、提督から届いた書類はただ一枚。「次回の予測を期日までに提出せよ」という事務連絡だった。

 四年目には、宮廷の農業政策はステラの気象予測なしには動かなくなっていた。

 五年目には、王国海軍の出港日程もステラの潮汐表に基づいて決められるようになった。

 六年目には、隣国との穀物取引の時期まで、ステラの収穫予測が参考にされていた。

 けれど、誰もそれをステラの功績とは思わなかった。

 天気が当たるのは「当然」だと思われていた。星読みが外れた時だけ批判された。

 (的中率九十四パーセント。二千百九十日中、予測が大きく外れたのは百三十一日。そのうち八十七日は、三等級以上の魔力嵐による異常気象で、いかなる予測手法でも対応不能な事象)

 ステラは全てを記録していた。

 星の配置。気温。風向き。湿度。雲の形。月の満ち欠け。

 そして——予測の横に、時折、小さな文字で書き添えた言葉。

 『明日は南西の風。洗濯日和になりますように』

 『嵐の予兆あり。港の漁師たちが無事でありますように』

 『今夜の星は格別に美しい。誰かもこの空を見上げていますように』

 記録は客観的に。けれど、ペンを置く前に、一行だけ。

 誰に見せるためでもない祈りを書いた。

 それがステラの、六年間の夜の習慣だった。

 五年目の夏。それは六年間で最も恐ろしい夜だった。

 星の配置が、百二十年前の大津波の前夜と一致した。記録上、その津波は港町を丸ごと飲み込み、三千人の命を奪っている。

 ステラは震える手で計算を繰り返した。七回計算して、七回同じ結果が出た。九日後、南岸に大津波が来る。

 翌朝、緊急報告書を提出した。

 農務官は「百二十年前のデータなど信用できるか」と突き返した。海軍提督は「一介の星読みの予測で艦隊は動かせん」と一蹴した。

 エドヴァルトに直訴した。王太子は報告書を一瞥して言った。「星の並びで津波が来るだと? 馬鹿馬鹿しい」。

 ステラは自費で早馬を雇った。実家の男爵家の紋章入りの書簡を南岸の港町に送り、避難を進言した。港町の長は半信半疑だったが、念のために高台への避難準備だけは整えた。

 九日後。津波が来た。

 港の施設は壊滅した。けれど、住民は全員が高台に避難していた。死者はゼロだった。

 王宮では「たまたま避難準備が間に合った幸運」と処理された。ステラの名前は報告書のどこにも出なかった。

 それでも、星図帳には記録した。

 『大津波発生。予測的中。避難完了により死者ゼロ。——よかった』

 たった一言、「よかった」と書いた。

 その夜は、さすがに手が震えた。けれど泣かなかった。

 泣きたい夜は他にもあった。特に三年目の冬、母が亡くなった日。天文台で一人、星を見ながら涙がこぼれそうになった。

 けれど泣かなかった。涙が落ちれば、今夜の記録のインクが滲む。星図が読めなくなる。

 だから、泣かなかった。六年間、一度も。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 追放から三日後。

 ステラが実家の男爵邸で荷解きをしていると、玄関の鐘が鳴った。

 扉を開けると、長身の青年が立っていた。漆黒の髪に深い翠の瞳。質素だが仕立ての良い外套を纏い、右手には一通の書簡を持っている。

 その外套の裾には、旅の砂埃がついていた。急いで来たのだと、分かった。

「ステラ・ヴィルデ嬢ですか」

「はい」

「アルヘン辺境伯、レオン・クロイツと申します」

 ステラの目が見開かれた。

 三年間、季節ごとに丁寧な礼状を送ってくれていた、あの辺境伯。

「突然の訪問をお許しください。あなたが宮廷を離れたと聞き、馬を飛ばして参りました」

「アルヘンからここまで、馬で三日はかかるはずですが……」

「二日で来ました」

「……」

「あなたの気象予測の写しが今季届かなかった。宮廷に問い合わせたところ、後任の聖女殿が『星読みは廃止した。神託で十分である』と回答してきたので」

 レオンの翠の瞳が、静かにステラを見つめた。

「率直に申し上げます。あなたの星図帳を、三年間読んできました」

「星図帳を……?」

「毎季届く気象予測の写しだけでなく、原本の複写を外交文書交換の名目で取り寄せていました。……越権行為ですが」

 ステラは驚いた。写しではなく、原本の複写。つまり予測結果だけでなく、観測データの全て——星の配置図、計算過程、修正履歴。

 そして、あの小さな書き添え。

「最初は純粋に領地経営のためでした」とレオンは続けた。「私の領地は南の海沿いにあり、嵐の予測が領民の命に直結する。あなたの潮汐表は、王国海軍のどの航海士の予測よりも正確だった」

「……ありがとうございます」

「けれど、読むうちに気づいたのです」

 レオンの声が、わずかに柔らかくなった。

「記録の行間に、書き手であるあなた自身が刻まれていることに」

 ステラは息を止めた。

「四年目の秋の記録。『北東の低気圧が発達中。三日後に暴風域が港湾地区を直撃する確率七十八パーセント。避難勧告を推奨する』——その横に、小さな文字で書かれていた。『どうか、漁に出ている船が早く帰りますように』と」

「……読めたのですか、あんな小さな字が」

「三年目の冬至の記録。本来は星の運行記録だけが書かれるべき欄に、一行だけ。『母上、今夜の星はとても綺麗です。そちらからも見えていますか』」

 ステラの胸が痛んだ。あれは母が亡くなった翌日の記録だ。

「そして五年目の夏。あの津波の記録です。百二十年前のデータとの一致、七回の再計算、自費での早馬。王宮が無視した警告を、あなたは自分の名前と家の紋章を賭けて出した。——記録の末尾にはただ一言、『よかった』と書いてあった」

 レオンの声が、わずかに震えた。

「三千人の命を救った人が、報告書に名前すら載らず『よかった』とだけ書いて翌日も普通に星を読んでいる。——その記録を読んだ時、私は自分の執務室で一人、泣きました」

 ステラは言葉を失った。

 あの記録を、そこまで深く読んでくれた人がいた。

「あなたは星を読みながら、いつも地上の人を見ていた。数字の羅列の中に、いつも人への祈りがあった」

 レオンが一歩、近づいた。

「私の領地に来てください。天文台を用意してあります。あなたが必要とする全ての観測機器を揃えました。——そして、もう一人きりで夜を過ごさなくていいように」

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 ステラがアルヘンに発った翌週から、王宮は静かに壊れ始めた。

 最初の兆候は、農務官からの悲鳴だった。

「春の作付け計画が立てられません! 例年、星詠み官の気象予測を元に作付け時期を決めていたのですが——」

 リリアーナの神託は「春は穏やかでしょう」という漠然としたもので、具体的な降水量の予測も、霜の時期の特定も、土壌温度の推移予測もなかった。

 農務官が独自に判断した結果、晩霜の時期を見誤った。東部三州の麦の苗が全滅し、今年の収穫量は六割にまで落ちる見通しとなった。

 次に海軍が悲鳴を上げた。

 潮汐表なしで出港した輸送艦隊が、予測できなかった引き潮に座礁した。積荷の三割が海に沈んだ。被害額は金貨二千枚。

 海軍提督が天文台を訪ねると、棚には一冊の帳面も残っていなかった。

「過去の潮汐データは……全て、ステラ嬢が持ち帰ったのか?」

「星図帳は不要だとのお言葉でしたので」

 薬師長もまた蒼白の顔で報告に来た。

「殿下。実はステラ嬢は、季節ごとの薬草採取の最適時期も記録しておりました。月齢と気温から薬効成分の含有量が最大になる日を計算して、採取日を指示していたのです。その記録がないため、今季の薬草の品質が著しく低下しております」

「たかが採取時期の違いで——」

「効能が四割も落ちております。殿下のお召しになる風邪薬も、従来の効き目が出ません」

 エドヴァルトの顔色が変わった。確かに、この一月、体調が優れない。以前はステラが淹れてくれた薬草茶を毎朝飲んでいた。季節と体調に合わせて微妙に配合を変えていたのを、今さら思い出した。

 最後に、外交の場でも問題が発覚した。

 隣国との穀物取引交渉の席で、相手方が「貴国の今年の収穫予測は」と問うた。例年であればステラの予測データを元に具体的な数字を提示できたが、今年はそれがない。

 「聖女の神託によれば豊作」という回答に、隣国の外交官は露骨に失笑した。

「ステラ嬢の分析レポートに代わる回答としては、いささか心許ないですな」

 相手国もまた、ステラの予測を参照していたのだ。

 宰相が重い声で進言した。

「殿下。神託で潮汐は読めません。神託で霜の日付は特定できません。ステラ嬢が築いた予測体系は、少なくとも十年分のデータの蓄積がなければ再構築できません」

 十年。

 その言葉が、玉座の間に鉛のように沈んだ。

 エドヴァルトは天文台に足を運んだ。六年間、一度も訪れたことのない場所だった。

 狭い螺旋階段を上ると、小さな丸天井の部屋があった。覗き窓は手のひらほどの大きさで、冬は隙間風が吹き込む。暖炉はなかった。

「ここで……六年間、毎晩?」

 棚には何も残っていなかった。ただ、机の隅に小さな擦り傷があった。帳面を開く時に、毎日同じ場所にペン先が当たってできた傷だ。二千百九十日分の傷。

 エドヴァルトは、その傷を指でなぞった。

 リリアーナに振り返った。

「神託で、この傷の意味を占えるか」

 リリアーナは答えなかった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 アルヘンの天文台は、王宮のそれよりずっと小さかった。

 けれどステラは、初めてこの部屋に入った時、泣きそうになった。

 窓が大きかった。

 王宮の天文台は、観測用の狭い覗き窓しかなかった。冬は凍えるほど寒く、夏は蒸し風呂のようで、換気用の小窓すらまともに開かなかった。

 ここは違った。南向きの大きな窓から海が見え、潮風が入り、夜には満天の星が窓いっぱいに広がる。窓辺には小さな花瓶が置いてあり、青い野花が活けてあった。

「観測に支障がないか確認してください。不足があれば何でも言ってほしい」

 レオンがそう言った時、ステラは机の上に置かれた一冊の帳面に気づいた。

 新品の、革表紙の帳面。

 表紙に銀の箔押しで、小さな星座が描かれていた。オリオン座。ステラが最も好きな星座だ。

「領地の革職人に作らせました。……あなたの帳面が、いつも表紙が擦り切れていたので」

「……見ていたのですか、そんなところまで」

「複写を取り寄せていたと言ったでしょう。帳面の状態まで写されてくるのです。それと——」

 レオンが帳面を開いた。罫線の幅が、ステラがいつも使っていたものと寸分違わなかった。

「罫線の幅まで……」

「あなたの記録を三年間読んでいれば、一行あたり何文字書くか、数字の桁数をどう配分するか、分かります。観測記録は一行十八文字。予測は二十二文字。そして——あの祈りの一行は、いつも十五文字前後でした」

 ステラの目から涙がこぼれた。

 六年ぶりだった。天文台で泣いたことは一度もなかった。記録のインクが滲むから。

 ここには、滲んでもいい帳面がある。

 泣いてもいい場所がある。

 翌日から、ステラの暮らしは変わった。

 朝は海を見ながら朝食を取った。天文台では観測データの整理と予測計算をし、夕方五時には仕事を終えた。

 レオンが副天文官を二人雇い、交代制の観測体制を整えてくれていた。ステラが休む夜は、副天文官が観測し、翌朝報告する仕組みだ。

「一人で全てを抱え込む必要はありません」

 レオンはそう言った。

「六年間、あなたは一人で二千百九十日分の夜を守った。それがどれほどのことか、記録を読めば分かります。だからこそ、もう一人にはさせない」

 夕食の席では、温かいスープが出た。

 王宮では夕食を取る暇もなく、天文台でパンをかじるだけの日が多かった。ここでは、ちゃんと座って、温かいものを食べられる。

 一口食べた時、また涙が出た。

 (温かい。ただそれだけのことが、こんなに嬉しい)

 王宮での食事を思い出す。天文台は厨房から最も遠い。温かい食事が届くことはなく、冷めたパンと硬いチーズを片手に、もう片方の手で計算を続けた。

 それが六年間の日常だった。

 ここでは、朝食にレオンが同席してくれる。食事の間、ステラの仕事の話を聞いてくれる。昨夜の星の動きについて話すと、真剣に耳を傾け、質問をしてくれる。

 星の話に興味を持ってくれる人は、母以外にいなかった。

 領民たちも温かかった。

 ステラの気象予測で漁の安全が確保されると聞いた漁師たちが、毎朝新鮮な魚を天文台に届けてくれるようになった。

 「姐さんのおかげで今日も無事に帰れた」

 そう言って笑う漁師の顔が、ステラにはまぶしかった。

 感謝される、ということ。名前を呼んでもらえる、ということ。

 六年間、知らなかった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 王宮から使者が来たのは、ステラがアルヘンに移って一月後のことだった。

「ステラ・ヴィルデ嬢。王太子殿下の御名代として参りました。宮廷への帰還を命じます。星詠み官の職に復帰していただきたい」

 ステラは使者を応接間に通し、茶を出した。アルヘンの海風で育った薬草を、月齢に合わせた最適な日に摘んだものだ。

「申し訳ございませんが、お断りいたします」

「しかし、王国の農業が——」

「帰還命令の法的根拠をお示しください」

 使者が言葉に詰まった。ステラは穏やかな声で続けた。

「私は宮廷星詠み官を解任されました。解任と同時に雇用関係は終了しています。現在はアルヘン辺境伯領の天文顧問として正式に契約を結んでおります。報酬も、休日も、適切にいただいております」

「星図帳を——せめて写しだけでも——」

「星図帳は私物です。帳面は自費で購入し、記録は全て私個人の観測に基づくものです。宮廷の費用で購入された観測機器は全て天文台に残してまいりました。帳面の提出を義務づける規定は、宮廷規則のどこにもございません。着任時に確認済みです」

 使者の顔が青ざめた。

「最後に一つだけ、お伝えください」

 ステラは穏やかに微笑んだ。六年間、どんな時も崩さなかった星詠み官の笑顔で。

「私は六年間の観測記録の中に、気象データだけでなく、その気象データと宮廷の政策決定の相関も記録しております。たとえば——私が不作を予測した年に、なぜか特定の穀物商人だけが事前に備蓄を増やしていたこと。私の嵐の予報が農務官の机で三日間放置されていた間に、沿岸の倉庫の保険契約が書き換えられていたこと」

 使者の顔から血の気が引いた。

「公開するつもりはございません。これは観測記録の一部にすぎず、因果関係を断定するものでもありません。——ただし、これ以上の帰還要請があった場合は、記録の全文を学術資料として公開することも検討いたします」

 (もう、遅いのです、殿下)

 ステラは心の中でそう呟いた。声には出さなかった。出す必要がなかった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 使者が帰った後、レオンがステラのもとを訪ねてきた。

「大丈夫でしたか」

「はい。……少し疲れましたけれど」

「無理もない。六年間尽くした場所から、引き戻そうとする手紙が来れば」

「いいえ」

 ステラは首を振った。

「疲れたのは、もう怒りすら感じない自分に気づいたからです。王宮に対して何も思わなくなっていました。——ここが、私の居場所になったのだと思います」

 レオンが黙った。それから、少しだけ目を伏せて言った。

「ステラ。一つ、ずっと言いたかったことがある」

「はい」

「六年目の夏至の記録を覚えていますか」

「夏至……大陸全土で流星雨が観測された夜ですね」

「あなたの記録には、流星の出現数、放射点の位置、極大時刻が正確に記されていた。——そしてその末尾に、一行だけ、こう書いてあった」

 レオンが、ゆっくりと言った。

「『今夜の星は、一人で見るには綺麗すぎる』」

 ステラの心臓が跳ねた。

 覚えている。あの夜、天文台の狭い覗き窓から見た流星雨は、生涯で最も美しい光景だった。思わず書いてしまった一行。観測記録にはふさわしくない、ただの感情。

「あの一行を読んだ時に、決めたのです」

 レオンの翠の瞳が、ステラを真っ直ぐに見つめた。

「この人と一緒に、星を見たいと。——この人に、もう一人で綺麗な星を見せたくないと」

 ステラは何も言えなかった。胸がいっぱいで、言葉が出てこなかった。

「辺境伯として、天文顧問として、あなたに来てほしいと言いました。それは嘘ではない。けれど、本当の理由は——」

「……はい」

「あなたの記録の中の、あの小さな祈りの一行一行が、全部好きだったのです。星を読む人なのに、いつも人の幸せを祈っている。その人自身が、幸せでないままで」

 ステラの涙が、また一筋、頬を伝った。

 王宮では六年間泣かなかった。ここに来てから、よく泣く。

 でもそれは、悲しいからではない。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 アルヘンに来て三ヶ月。夏至の夜。

 天文台の大きな窓から、去年と同じ流星雨が見えた。

 今年は、一人ではなかった。

 レオンが隣にいた。二人で窓辺に並び、流れる星を数えた。海からの風が夜の熱を冷まし、星明かりが波の上で揺れていた。

「レオン様」

「レオンでいい」

「……レオン。来年の夏至も、見に来てくれますか」

「来年も。その次も。——ずっと」

 ステラは新しい帳面を開いた。銀の星座が輝く、あの革表紙の帳面。今夜の観測記録の最後に、小さく書き添えた。

 『夏至の流星雨。出現数百二十三。極大時刻二十三時十四分。放射点は竪琴座α星の南西二度。観測条件:快晴、視界良好、南南西の微風。海面反射率良好』

 そして、最後に一行。

 『今夜の星は、隣にいる人と見るのに、ちょうどよい綺麗さだった。——これは観測記録ではなく、初めて星図帳に書く、幸福の記録です』

 星は嘘をつかない。

 この幸福も、きっと。

読んでいただき、ありがとうございます。


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