第9話「最初の魔獣肉料理」
――朝靄を裂くように、叫び声が村の端から響いた。
「牙猪だッ! 畑に入ったぞ!」
人々が鍬を投げ捨て、逃げ惑う。荒れ果てたヴァルグロウの畑を、黒い巨体が突き進む。牙に宿る淡い魔力が、乾いた土を削り、焦げた匂いをまき散らした。
矢が放たれる。兵士たちが声を合わせ、何度も射かけた。
一際大きな呻き声――そして、地響き。
“ドスン”。
巨猪はその場に崩れ落ち、もう動かない。
辺りには、長く息を潜めていた沈黙が戻る。
兵士Aが恐る恐る近づき、槍の柄で突いた。
「……こいつ、まだ肉があるぞ。」
すると、背後の村人が呻くように言った。
「けど、魔獣の肉なんざ、毒みたいなもんだ……。
昔、食ったやつがみんな倒れたって話だ。」
彼らの視線は恐怖と空腹の狭間で揺れていた。
誰も近づこうとしない。
ただ一人――リョウコだけが、じっとその巨体を見つめていた。
彼女の足元には、まだ昨日の灰が残る。昨日、スープを分け合い、芽吹きを見たばかりの地だ。
唇がかすかに動く。
(……食べものを、棄てるなんてもったいない。)
彼女の瞳には、飢えではなく、“作る”光があった。
風が吹き、焦げた肉の匂いを運ぶ。
それは、誰も知らない――“最初の料理”の前触れだった。
――村の広場では、焚き火の周りに人々が集まっていた。
討伐された牙猪の肉を、火にくべて灰にしてしまおうと準備をしている。
そんな中、リョウコはそっと前に出た。
「……その肉、少しだけ……焼かせてください。」
声は柔らかく、それでいて確かな意志を帯びていた。
兵士たちは一瞬、眉をひそめる。
「おい、やめろ――」
しかし、彼女の穏やかな表情に、言葉はそこで止まる。
怒りも恐怖もなく、ただ静かに肉を見つめるその眼差しに、誰も反論できなかった。
村長がゆっくりと唇を噛む。
「……好きにしなさい。だが、誰も食わんぞ。」
リョウコはうなずき、手を胸の前で合わせる。
「いただきます。」
その声に、風がそっと耳を撫で、焚き火の炎が一瞬、やさしく揺れた。
これが――異世界料理の始まりであることを、まだ誰も知らなかった。
リョウコは、焚き火のそばに転がっていた石や鉄片を手に取る。
その動きには、まるで迷いがなかった。
「鍋も網も……ないなら、これでいいですね。」
彼女は鉄片を火のそばに立てかけ、即席のかまどを組む。
その上に、魔獣――牙猪の肉を置いた。
じゅうう……!
火が油をはじき、黒煙が立ち上る。
村人たちは思わず一歩、後ずさった。
「ほら、言わんこっちゃない……! 毒の煙が……!」
だが、リョウコは動じない。
木の枝をトング代わりに掴み、硬い肉を軽く叩くように転がしていく。
焦げ、はぜ、煙り――それでも、彼女の手つきはどこか楽しげだった。
「……焦げる前に、香りを信じるんです。」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
焼ける音と、彼女の小さな声が混ざって、不思議なリズムを刻む。
やがて、風が向きを変えた。
黒煙の奥から、ふわりと――香ばしい匂いが流れ出す。
畑で作業していた者が、ふと顔を上げた。
子どもが鼻をくんくんと動かし、兵士たちが思わず喉を鳴らす。
誰も口には出さないが、
――その香りは、決して“呪われた肉”のものではなかった。
むしろ、どこか懐かしい。
**飢えた人々の記憶に眠っていた、「食べものの匂い」**だった。
リョウコは、焼きあがった肉をひと切れだけ鉄片からそっと外す。
表面は黒く焦げ、端にはまだ血が滲んでいた。
それでも彼女は微笑み、小さく両手を合わせた。
「――いただきます。」
その一言に、まわりの空気がわずかに張り詰めた。
兵士も村人も、まるで処刑の瞬間でも見届けるような顔をしている。
リョウコはゆっくりと肉を口に運び、歯を立てた。
ぐっ……
硬い。噛み切れない。まるで革靴を噛んでいるみたいだ。
それでも、彼女は諦めずに何度も咀嚼を重ねる。
ごり、ごり、と歯が軋む音。
やがて、ほんのわずかに――舌の上に、温かな旨味が滲み出した。
「……うん。焦がすと苦い。でも、少しだけ……甘い。」
呟いた声は小さく、それでいて、火のはぜる音よりもはっきりと届いた。
兵士たちは息を呑む。
誰も倒れない。
毒の煙も、呪いの叫びもない。
「……毒じゃないのか?」
「むしろ……うまそうな匂いがする……」
焚き火の明かりの中で、リョウコはふっと笑った。
その笑みは、奇跡でも信仰でもなく――ただの生活の笑みだった。
そして、焼けた鉄片の端に残った肉を指でつまみ、差し出す。
「食べてみます?」
一瞬、静寂。
誰も動かない。
火がぱちん、と音を立てる。
その音に合わせて――若い兵士の腹が、ぐうと鳴った。
兵士は真っ赤になりながら、震える手を伸ばした。
若い兵士は、リョウコの差し出した一切れをしばらく見つめていた。
焚き火の光が、脂の照りを淡く照らす。
ごくりと喉が鳴る音。
そして、恐る恐る――ひと口、かじった。
……噛み切れない。
がり、と歯がきしむ。
それでも彼は、何度も噛んだ。
やがて、顔に驚きの色が浮かぶ。
「……かたい。でも……噛むたびに、あたたかい。」
言葉が零れた瞬間、空気が変わった。
その言葉が“毒”ではなく、“食事”の証明だった。
村人たちは、ざわめきながら近づく。
「ほんとうに、食えるのか……?」
「嘘じゃない。匂いが……懐かしい……」
老婆が震える手で、焼け残りの肉を少しだけ手に取る。
指が脂に触れると、涙が零れた。
「……こんな味、いつぶりだろうねぇ……」
その一言に、火の音が優しく響いた。
飢えた村の夜が、少しずつ“食卓”に変わっていく。
リョウコは焚き火の向こうで、そっと微笑む。
「そうでしょう? “食べられる”って、素敵なことです。」
焚き火の煙が、夜空へまっすぐ立ちのぼる。
それはまるで、祈りのように静かで、温かかった。
焚き火のぱちぱちという音だけが、夜気の中に響いていた。
焼き上がった魔獣肉の残りが、鉄片の上でじゅう、と最後の息を吐く。
そして――ひと滴の肉汁が、火のそばの石を伝い、地面へと落ちた。
しん、とした空気の中で、その滴が砂を濡らす。
次の瞬間。
そこから、淡い光を帯びた“緑の蔓”が、するすると伸びた。
まるで大地そのものが、久しく忘れていた「味」を思い出したかのように。
土が微かに震え、乾いた地面がやわらかくほぐれていく。
村人たちは息を呑んだ。
誰も言葉を出せない。
ただ、目の前の“奇跡”を呆然と見つめる。
やがて、ひとりの老人が震える声でつぶやいた。
「……神が、食べておられる。」
その声は、夜風に乗って広がっていった。
火の粉が舞い上がり、星のように瞬く。
その光の下で――リョウコは静かに、もうひと切れの肉を焼き始めた。
夕暮れの風が、焚き火の残り火を優しく撫でていった。
橙の光がゆらぎ、焦げた鉄片の上には、わずかに残った肉の破片と、香ばしい匂いの名残。
リョウコは静かにその光景を見つめ、微笑んだ。
「――これが、最初の“料理”ですね。」
その声は、誰に向けるでもなく、ただ夜空へと溶けていく。
けれど、近くにいた子どもたちは耳をそばだて、小さく口にした。
「りょー……り?」
「りょーり……って、いまの……?」
彼女がうなずくと、子どもたちは嬉しそうに顔を見合わせ、何度もその音を繰り返した。
“料理”――飢えの地に、初めて生まれた言葉のように。
焚き火がゆっくりと沈み、空にはひとつ、星が瞬いた。
――罪人の火で焼かれた、最初の魔獣肉。
やがてそれは“はじまりの肉”と呼ばれ、
この世界の“食”の歴史を動かす最初の一皿として語り継がれていく。




