死の気配
アドリアンはケーキを飲み込んだあと、こちらを見つめた。
その顔には変化がない。むしろ、私を安心させるかのように、かすかに微笑んだ。
「ほら、君。」
彼は静かに言った。
「大丈夫だよ。普通のケーキの味しかしない。」
私は長く彼を見つめた。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響き、わずかな異変でも拾おうと必死だった。
だが何も起きない。
吐き気も、めまいも、顔色の変化もない。
ただ沈黙だけが、居間の空気を重く押しつぶしていた。
ネナは戸口に立ち、俯いていた。
アドリアンに異常がないのを見て、ほっとしたような表情を浮かべている。
しかしどこか不自然だった。安心というより、作られた落ち着きのようにも見える。
隠している何かがあるのだろうか。
問いただしたかったが、喉に言葉が詰まり、胸の奥で融けるように消えていった。
時間が流れる。
そして、それは徐々に姿を現し始めた。
その日の昼下がり、アドリアンはリビングで仕事の電話をしていた。
その声は落ち着き、何も心配することなどないかのように自信に満ちていた。
一方で、ルナは家の中を駆け回り、楽しそうに笑っていた。
小さな足音が軽快に響き、どれほど走っても疲れを知らないかのようだった。
ネナは粥の入った器を手に、息を切らしながら後を追う。
「ルナちゃん、少しゆっくり…」
彼女は荒い息の合間に声を掛けた。
しかしルナは聞いていない。走り続け、やがて窓の前でぴたりと止まった。
その小さな身体が固まり、じっと壁のほうを見つめる。
私も視線を追った。
ルナは空っぽの隅を見つめている。
そっと手を伸ばし、空気の中の何かに触れようとしているようだった。
「ネナおばちゃん…」
ルナが低い声でつぶやいた。
その響きに、背中の産毛が逆立つ。
ネナが慎重に近づく。
「どうしたの、ルナちゃん?」
ルナは答えない。
目を輝かせ、まるで美しいものを眺めているような表情で、壁の一点を見つめ続けている。
数秒後、彼女は小さく微笑んだ。
「ルナ、ちょっとだけ遊んでくるね。あの子たちと。」
私は固まった。
「…あの子たち?」
声がわずかに上ずる。
「誰と遊ぶの?」
ルナは半分だけ振り向き、こくりと頷いた。
「ルナのお友だちだよ、ママ。」
一瞬で、首筋が氷のように冷たくなる。
私はルナの視線の先を見つめた。
その瞬間、感覚が揺れた。
世界がかすかに震え、炎の上の空気のように歪んだ。
目を細める。
「ネナ、ルナは誰と話しているの?」
声がかすれ、自分のものではないようだった。
ネナは唾を飲み込んだ。
その作り笑いがゆっくりと消えていく。
「わ…分かりません、奥様…さっきから“新しいお友だち”と鬼ごっこをしてると言ってて…」
胸が締めつけられる。
「新しい…友だち?」
私はかすれ声で繰り返した。
「この家で?」
足が自然に前へ出る。
そして見えてしまった。
ルナの周りに、小さな影のようなものがいくつも立っている。
姿は子どもと同じ大きさだ。
だが頭部は真っ黒で、巨大なクチバシと、暗闇で燃えるような赤い目を持っていた。
私は凍りつく。
呼吸が喉で止まる。
ルナは小さく笑い、彼らの言葉を聞いているようだった。
抱き寄せようと歩いたのに、歩くほど距離が遠のき、部屋が異様に引き伸ばされた。
「ネナ!ルナを捕まえて!」
叫んで振り向いた。
そこにいたのは、もうネナではなかった。
ネナの頭は変形し、黒い鳥の頭へと変わっていた。
真っ赤な目が私を真っ直ぐに見つめる。
冷たく、深く、底なしに。
低い囁きが耳元で響いた。
「おまえは…もう我のものだ。」
全身から力が抜け、世界が回る。
ルナの声が消え、重い唸りが頭を満たし、視界が黒に飲まれた。
遠くで誰かが呼ぶ声がした。
「奥様…奥様、しっかり!」
目を開くと、私はリビングのソファに横たわっていた。
空気は冷たく、肌を刺す。
ネナがそばで膝をつき、涙ぐみながら私の肩を揺すっていた。
私は起き上がり、視線がルナへ吸い寄せられる。
寝室のベッドで、ルナはぐったりと横たわっている。
酸素チューブ、点滴。
そしてその横に立つのは、昔同じ医学部で学んだ友人――ドクター・マヤ。
アドリアンは後ろに立ち、蒼白な顔で状況を見守っている。
私はよろめきながら近づき、ネナが支えてくれた。
ほんの数時間前まで走り回っていたルナが、今は意識を失っている。
「ドクター・マヤ…」
声が震える。
「娘は…どうなんです?」
マヤは短く息を吸い、モニターを見つめた。
「高熱です。それに幻覚と錯乱が出ています。」
「幻覚?」
私は繰り返す。
「本当に幻覚だと思うの?だって…私も見たのよ。あれを。」
口が勝手に動いた。
マヤはしばらく黙って私を見つめた。
その沈黙が、医者としての距離感より長かった。
「まだ何とも言えないわ、ナナ。」
彼女は静かに言った。
「極度の疲労やトラウマで起きることもある。親が抱えた不安を、子どもが映すこともある。」
私を落ち着かせようとしているのが分かった。
だがその奥に、医学では触れられない種類の恐怖が潜んでいるのを感じた。
この家で起きていることは、医学で説明できる領域ではない。
場面が切り替わり、私は教室に立っていた。
学生たちは一言も発さず、話を聞き、私を見つめていた。
「この講義を選んだということは、かつての私と同じように、何かを信じているからよ。」
私は一人ひとりを見ながら言った。
「今の話を聞いて…どう思う?」
しばし沈黙。
やがて、長い髪を後ろで束ねたラマが静かに手を挙げた。
「もしそれが“トンド・テルパティ”なら…死の前兆だと思います。」
彼は落ち着いた声で続けた。
「お嬢さんの最期の視界と、あなたがどこかでつながっていたのかもしれない。ですが、なぜ旦那さんとネナさんには影響がないのか…そこが問題です。」
続いて、懐疑的なレノが口を開いた。
「黒魔術の一種でしょう。あのケーキは、あなたの娘だけを狙った“供物”では?目的は傷つけるだけでなく、あなたを孤立させるため…理性的な味方を奪うために。」
隣のアリアラが気まずそうに眉をひそめる。
私はゆっくり息を吐き、胸の奥を抑えた。
「ラマも正しい。レノも、あなたの指摘は重要よ。」
私は静かに頷く。
「この講義を作った理由は、あの日の謎を解くため。なぜ私とルナだけが呪いに触れたのか。医学の研究として…そして再発を防ぐため。」
少し間を置き、私は薄く笑った。
「そのために、私は夫と別れることを選んだの。」
ドクター・マヤが去ったあと、私の意識はほつれた糸のようにほどけ始めた。
自分がどこにいるのかも分からない。
時空が溶け、顔が浮かんでは消え、声が遠くで反響した。
意識が浮上するたび、私は見た。
黒い鳥の頭を持つ者たちが、ベッドに横たわる私を囲んでいる。
赤く燃える瞳が、機械の光に照らされて揺れていた。
まるで、私の呼吸が止まる瞬間を待つかのように。
そして闇。
目を開けると、すべてが終わっていた。
病室には消毒液と枯れた花の匂いが残っている。
私は二日間ICUで眠っていたらしい。
だが私には、百年彷徨ったように感じられた。
意識が戻った時、世界はもう別の世界になっていた。
ルナはもういない。
私のただ一人の娘は、私が眠っている間に埋葬された。
その喪失を言葉にする術などない。
涙さえ、そこへ届かなかった。
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