ナナ・アユミ医師
2024年3月、ジャカルタのある私立大学。
黒板の前に、ドクター・ナナ・アユミが無言で立っていた。
五つの席は埋まっているが、二人は携帯電話に夢中で、残る三人は宙を見つめたまま虚ろな表情を浮かべている。
壁の時計が大きく時を刻む。その音は、まるで時間そのものが待ちくたびれているようだった。
教室はあまりにも静かで、秒針の一音一音が小さな爆発のように響く。
「今日は——」
彼女はゆっくり口を開いた。
「教科書にはほとんど載らない話を続けましょう。」
その声は、冷たい教室の空気にゆっくりと染みこんでいく。
今年の授業テーマは
「神話、死、そして医療文化——文化と医学の相互作用に関する研究」。
一見無害に見える信仰や伝統が、人間の人生、特に子どもの人生にどれほど影響を与えるかを探る内容である。
ドクター・ナナは黒板に題名を書いた。外の世界は騒がしいのに、この教室だけは深い静寂に満たされている。
多くの学生にとって、この授業は奇妙で、退屈で、どこか疎外感を誘うものだった。それでもドクター・ナナは気にしていなかった。
医学は肉体を扱うが、文化や信仰は人を思わぬ方向へ導くことがある。
死は病気の結果だけとは限らない。
時に、それは社会に深く根付いた儀式や神話の「遺産」でもある。
言葉は濃い霧のように教室を包んだ。
学生たちは黒板を見つめていたが、その目に感情は読み取れなかった。
やがて、ひとりの女子学生が手を挙げ、沈黙を破った。
「ナナ先生……」
長い髪がわずかに揺れ、アリアラはためらいながら言った。
「正直に言うと……私、この授業でだんだん迷子になってきました。」
アリアラはまっすぐ前を見つめた。
「どうして先生は、この授業にこんなにもこだわるんですか?
皆、心理学や普通の医学を教えたほうが楽だって言ってます。
本当の理由があるんですよね?」
教室は一気に緊張に包まれた。
時計の音がさらに大きく響く。
ドクター・ナナは数秒間黙ったまま立ち、握ったマーカーに力を込めた。
深く息を吸い、震える声で言った。
「私の考えを……受け入れる人はほとんどいません。」
彼女の視線が静かに学生たちをなぞる。
「でも、私はこの険しい道を進まなければならない理由があるんです。」
そこで言葉が途切れ、彼女はうつむいた。
目の端に光る涙。
「私は……娘を亡くしました。
まだ四歳でした。」
教室中の空気が凍りついた。
アリアラは口を押さえ、他の学生たちは視線を落とした。
「いくつも不審な点がありました。」
ドクター・ナナの声は震え、やがて怒りを帯びた。
「私は証拠を見つけたんです……決定的な証拠を!
あの死は病気でも、運命でもなかった。
儀式だったんです……悪魔への供物!」
マーカーを持つ手が震え、抑えてきた痛みが目に滲む。
「私は世の中に知らしめたい。
こうした歪んだ連中は本当に存在する。
目的が何であれ、人の命を簡単に差し出す。
私の場合、それは子どもの命だった。
たった一人でも救えるのなら……どれほど困難でも私は進む。
これが、この授業が存在する理由……分かってほしい。」
涙が頬を伝い落ちた。
「でも証拠はすべて退けられました。
警察も、裁判所も、専門家も……
全部ただの迷信だと言われました。
私は……」
言葉が詰まり、彼女は震えながら嗚咽をこらえた。
「私は、何もできなかった。」
ドクター・ナナは急いで涙を拭き、背筋を伸ばした。
「だから分かってほしい。この授業はただの講義じゃない。
これは戦いなんです。
私は絶対にやめません。
伝統の仮面をかぶった悪魔の儀式が、どれほど恐ろしいかを世界に知らせるまで。」
アリアラはうつむき、小さな声で言った。
「……すみません、先生。」
ドクター・ナナは首を振り、やわらかく微笑んだ。
「いいのよ、アリアラ。あなたは間違っていません。」
少し間を置いて、彼女は教室を見回した。
「私は誰にも強制しません。
ここに残るかどうかは、あなたたちが決めていい。」
しばらく、彼女の呼吸だけが響いた。
そして深く息を吸い、未だ癒えない傷の上に立つように前を向いた。
「ただ……覚えておいてほしい。
私と同じ悲劇を繰り返してほしくない。
だからこそ私が声を上げ続けるしかない。
論理も科学も、持てる知識すべてを使って……私は戦う。」
教室は再び静寂に包まれた。
机の下から小さなざわめきが起きたその時、扉がノックされた。
扉の向こうで、一人の背の高い青年が立っていた。
その端正な顔立ちは、教室の空気を一瞬で変えるほどだった。
外の薄い光を背負い、その姿はまるで外界が彼を押し出してきたように見えた。
「失礼します。」
低く澄んだ声が響く。
「ここは『現代科学における文化』の授業でしょうか?」
全員の視線が彼に向けられ、未知の顔が重苦しい空気を打ち破った。
ドクター・ナナは一瞬驚き、すぐに嬉しそうに頷いた。
「はい、そうです。私は担当のナナです。どうぞ入って、まず自己紹介をお願いします。」
青年は堂々と歩み寄り、講壇の前に立って学生全員を見渡した。
「皆さん、こんにちは。」
よく通る声が教室に満ちる。
「レノ・バトゥロガと申します。よろしくお願いします。」
―――――――――――
時計が十一時を少し過ぎたころ、
ドクター・ナナはようやく自分のアパートに戻ってきた。
廊下の空気は冷たく、金属と埃の匂いが漂う。
彼女は扉を見つめ、目を閉じた。
鍵を回す音が、過去からの遠い悲鳴のように聞こえる。
扉がゆっくりと開いた。
ナナは息を呑み、これから目にするものに備えた。
照明が点灯し、ためらうように何度か瞬いた。
部屋を照らすべきか、それとも内側の何かを隠すべきか迷っているかのようだった。
そして——静寂。
ただの静けさではない。
呼吸さえ重くするような圧力のある静寂。
部屋の隅。
机とカーテンの影の間に——
小さな子どもが立っていた。
四歳ほどの身体。
紙のように白い肌。
光を映さない空っぽの瞳。
そして、あまりにも整いすぎた、不気味な笑み。
「……ママ。」
その声は部屋全体に反響するように響き、
ナナの全身の毛が逆立つ。
彼女は凍りついた。
肺が空気を拒む。
それでも、涙だけは勝手に頬を伝い落ちた。
伸ばした手は、勇気ではなく、母としての本能。
ナナは書類を取り落とし、その子を抱きしめようとした。
「ルナ……?
まだ起きてたの……?もう夜遅いのに……」
子どもは近づいてくる。
一歩踏みしめるたびに床板が微かに震える。
抱かれた身体は冷たく、生きているとは到底思えなかった。
「お母さん……ルナね、お母さんを待ってたの。
一緒に寝たいの。」
そのとき、バッグの中で微かな振動音。
携帯電話が鳴った。
まるで静寂を打ち砕くガラスの破片のような着信音。
震える手で画面を見る。
送り主:アドリエン。
書かれたのはただ一文。
「ナナ、また見えてしまったのか。」
世界が止まった。
腕の中の温もりのない抱擁はまだ残っている。
だが心臓は知っている。
これはありえない。
ルナは二年前に亡くなっている。
ナナはゆっくりと立ち上がった。
床に散った研究資料を一枚ずつ拾い、机に丁寧に並べる。
整えることで、心のひび割れをわずかに繕おうとするように。
「ママ、お風呂入るの?
ご飯作るの?」
声はまだそこにある。
あの日と同じ、優しい声。
「そうよ、ルナ……ママ、お風呂入るね。
そのあと夕ご飯作るから……」
振り向く。
子どもは同じ場所に立ったまま。
同じ笑み。
同じ瞳。
だけどまぶたは動かず、呼吸もない。
そして窓のガラスに映ったのは、
二人の背後に立つ黒い鳥の影。
彼女は思わず振り返った。
どこにも鳥はいない。
次の瞬間、鏡の中の鳥が鳴いた。
「グワッ、グワッ」
そしてナナのほうへ飛びかかってくる。
ナナは身をすくめ、自分を抱きしめるように縮こまった。
息が乱れ、心臓が激しく脈打つ。
しかし——何も起こらなかった。
恐る恐る顔を上げ、部屋を見回す。
そこには何もいない。
そして——
ルナの姿も、
完全に――消えていた。




