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第0章 序章

ナナ・アユミ博士は黒板の前に立ち、列にならんだ椅子を見渡した。座っている学生はわずかで、そのうち二人はスマートフォンの画面に夢中になっている。残りの三人は真面目そうな顔をしてはいるが、どこか上の空で、ただ黙ったまま座っている。まるで身体だけが教室にあり、心は別の場所に漂っているかのようだった。


教室はあまりにも静かで、壁の時計の秒針が打ち鳴らす音が、爆音のように響き渡っていた。


「今日は――」

ナナ博士は低く落ち着いた声で口を開いた。

「教科書にはほとんど書かれていない話を続けましょう。」


その声は、冷えきった教室の空気にゆっくりと染み込んでいった。


「今回のテーマは――『神話、死、そして健康:文化と医学の相互作用の研究』です。一見無害に思える信仰や伝統が、人間の生活にどれほど影響を与えるのか。とくに――子供たちの命をも奪うことがあるのです。」


博士の手が黒板にその題名を書き記す。外の世界はざわめきに満ちているはずなのに、この教室には濃い静寂だけが漂っていた。

大学の多くの学生にとって、この授業は奇妙で退屈、さらには孤立した存在と見なされている。しかしナナ博士は気にも留めない。


「医学は身体を対象とします。しかし文化や信仰は、しばしば予想もしない方向へ人を導く。死は病気の結果だけではなく、社会に根付いた儀式や神話の“遺産”であることもあるのです。」


言葉は濃い霧のように落ち、教室を包んだ。学生たちは黒板を見つめていたが、その瞳の奥にある思考は読み取れない。

やがて、一人の女子学生が静寂を破るように手を挙げた。


「先生…」

長い髪を揺らしながら、少女――アリアラがためらいがちに口を開いた。

「この授業、ますます関心を失っていっているように見えます。」


アリアラは真っ直ぐに見つめ、声には迷いと誠実さが入り混じっていた。

「先生…なぜそこまでこの授業にこだわるのですか? みんな、普通の心理学や医学を教えた方が楽だと言っています。本当の理由は何なのですか?」


教室の空気が一瞬にして張り詰めた。

壁の時計の針が刻む音が、やけに大きく響く。


ナナ博士はしばらく黙ったまま立ち尽くし、手にしたマーカーを強く握りしめた。

深く息を吸い、そして震える声で口を開いた。


「これを認めたり…受け入れたりする人はほとんどいない。」

彼女の視線が、沈黙する学生たちをゆっくりと横切る。

「でも、私がこの険しい道を進まなければならない理由があるの。」


一瞬言葉を止め、視線を落とす。目尻に涙が光った。

「私は子どもを失ったの…まだ四歳のときに。」


教室は凍りついたように静まり返った。

アリアラは口を押さえ、他の学生たちは視線を落とした。


「数々の不可解な点があった。」

ナナ博士の声が震え、やがて怒りを帯びて高まる。

「私は証拠を見つけた…確かな証拠を! 子どもの死は運命でも病気でもなかった。それは儀式…悪魔への供物だったのよ!」


彼女の握るマーカーが震え、その瞳には押し殺してきた痛みが宿る。

「ようやくわかるでしょう…これこそが、この授業の存在する本当の理由。私は世界の目を開かせたい。そんな儀式は実在し、人を殺す! 私の子どもの場合…それは“ プスギハン(悪魔供犠)”だった。」


涙が頬を伝い落ちる。

「でも、すべての証拠は拒絶された。警察も、裁判所も、専門家ですら…ただの迷信だと、あり得ないと。私は…」声が詰まり、嗚咽に変わる。

「私は何もできなかったのよ。」


ナナ博士は慌てて涙を拭い、背筋を伸ばして立ち直る。

「だからこそ、わかってほしい。この授業はただの講義じゃない。これは戦いなの。私は決して止まらない…この世界に知らしめるまで。伝統の仮面をかぶった悪魔の儀式が、どれほど恐ろしいものかを。」


アリアラは小さく頭を下げ、かすかな声で言った。

「…すみません、先生。」


ナナ博士は首を横に振り、柔らかな笑みを浮かべる。

「いいのよ、アリアラ。あなたは正しいことを言っただけ。」


少し間を置き、博士は静かに教室を見渡した。

「私は誰も強制することはできないし、そのつもりもないわ。君たちがこの場にとどまるかどうかは、自由に選んでいい。」


深い息をつき、瞳に決意の光を宿して続ける。

「ただ…わかってほしい。私が経験した悲劇を、二度と誰にも味わってほしくないの。だからこそ、私は語り続けなければならない。学問という形を借りてでも――。」


再び教室を覆う沈黙。かすかな囁き声が机の間をすり抜ける中、突然ドアを叩く音がした。


背の高い青年が扉の前に立っていた。整った顔立ちのその姿は、静寂を切り裂くように鮮烈だった。


「失礼します。」

低く澄んだ声が響く。

「ここは『現代科学における文化』の授業でしょうか?」


一斉に視線が彼へと注がれる。見知らぬ顔が、この息苦しい静寂を破った。


ナナ博士は少し驚いたように目を見開き、やがて嬉しそうにうなずいた。

「ええ、そうです。私は担当のナナ博士です。どうぞお入りなさい。その前に、自己紹介をお願いします。」


青年は堂々と教壇に進み出た。真っすぐ立ち、学生たち一人ひとりの顔を順に見渡す。


「皆さん、こんにちは。」

澄んだ声が教室を満たす。

「僕はレノ・バトゥロガと申します。よろしくお願いします。」


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