第0章 序章
多くの人が憧れる、調和に満ちた理想の家族。しかし、訪れる運命を知る者は誰もいない。暗い宿命の一本の線がその手を伸ばし始めた時、その調和はもはや保たれることはないだろう。
2022年4月の静かな日曜の朝。コロニアル様式の家の居間では、古びたレコードがゆっくりと回転し、ファリズ・F.M.の「サクラ」の懐かしい旋律が流れていた。その音色は部屋中へと染み渡り、まるで過去と現在を細い糸で結びつけるかのようだった。
アドリアン・スメボドにとって、この静けさはただの穏やかな朝ではなかった。幼い頃、彼はこの同じ部屋に立ち、世界のことなど何ひとつ知らず、ただ両親がこの曲を流すたびに家の温もりを感じていた。レコードから響く旋律は、彼の幼少期そのものの声であり、決して消えることのない記憶だった。
不動産開発を生業とするアドリアンは、妻の背後に立ち、静かに腕を回した。数字や契約、建設プロジェクトに満ちた世界から帰ってきた彼は、いつも不思議なほどの温かさをまとっていた。少し乱れた黒髪がナナのこめかみに触れ、彼はそっと彼女の肩に顎を預ける。
ナナ・アユミ──医師であり、今は大学でも教えている彼女は、まるで長年続く小さな儀式のように、言葉のいらないその抱擁を受け入れた。説明の必要もない、積み重ねられた日々がつくり出した静かな親密さだった。
古いものを好むアドリアンは、この家を過去の趣味で満たしていた。装飾、絵画、家具──どれも手入れの行き届いた古物ばかりだ。居間にはホルスの目の絵がひときわ目立って掛けられている。知識と監視を象徴するその絵は、部屋を見下ろし、沈黙の守護者のように佇んでいた。
アドリアンの両親は教養ある実業家であり、その規律と知性の名残は今もこの家の装飾選びの随所に感じられた。ひとつひとつの物に歴史が宿り、まだ語られていない物語さえ潜んでいるようだった。
その穏やかな朝、娘のルナ・アユ・スメボドは低いテーブルに座り、色鉛筆を散らかしながら夢中で絵を描いていた。テーブルの隅には小さな手の動きだけが静寂にリズムを加えていた。客間の壁には小さな十字架が掛けられ、灯りのように家中を見守っているように見えた。
家はアドリアンの両親から受け継いだもので、都市と田舎の境界に立ち、どちらの世界にも属しきれない静けさをまとっていた。厚い壁、長年の雨に褪せた塗装──オランダ風の古い佇まいだった。
前庭には大きなタマリンドの木があり、太い根が地面を押し上げ、まるで家がこの場所から動かないように押し留めているかのようだった。
家の中はいつもわずかに湿り気を含み、窓を開け放っても古い木の匂いと薬品の残り香が漂っていた。その匂いは週末の大掃除でも消えることはなく、この家の魂に染み付いた何かのようだった。
ルナの部屋へ続く廊下には、別種の静寂があった。歩けば音が吸い込まれ、足音の残響さえ返ってこない。客間は滅多に使われず、裏の倉庫はアドリアン家の古い荷物で溢れていた。
日曜になると、この家はさらに静寂を深めた。
その日は唯一の家政婦であるビビ・スティの休日だった。彼女は月曜の夜明け前にやって来て、土曜の夜には実家へ戻る。家から村までは数キロしか離れていないが、彼女が不在になると、このコロニアルの家は息を長く吸い込んだように静まり返った。
いつものように、テラスの掃き掃除の音も、台所で響く金属音も、軽やかな足取りもない。ただ古い家の空気だけが残り、木の匂い、窓から吹き込む風、そして無言で佇む家族の肖像画たちが時を止めていた。
アシの老木の枝に、一羽の漆黒のカラスがとまった。じっと動かず、朝の静けさに不穏な影を落としていた。その小さな瞳は瞬きもせず、古い家を見つめていた。やがて沈黙を裂くように、カラスは鋭い、耳に引っかかるような声で鳴いた。穏やかな朝には似つかわしくない、荒れた音色だった。
低いテーブルに座っていたルナが、突然顔を上げた。大人には聞こえない何かを聞き取ったような反応だった。
アドリアンとナナが気付くより早く、ルナは立ち上がって走り出した。
ふたりは思わず腕を解き、目を合わせた。娘の鋭い感覚について、同じ疑問が一瞬で交わされた。
「ルナ、どこへ行くの?」ナナが驚き混じりに声をかけた。
「外に行くの。鳥さんの声がしたの。」ルナは振り向かずに答えた。
ふたりは急いで後を追った。静かな廊下を踏みしめる足音は、すぐにまた家に吸い込まれて消えていった。
窓辺にたどり着いた時、カラスはすでに飛び立っていた。大きな黒い翼を広げ、重たい風切り音を残して空へ。その声もすぐに消え、枝には何も残っていなかった。
ルナはその背中をほんの一瞬だけ見つめ、黒い影が遠ざかり消えていくまで黙っていた。
ナナはルナを後ろから抱き寄せ、見えない震えを包み込むように腕を回した。「どんな鳥さんに見えた?」優しくたずねる。
「うーん……わかんない。でも黒かったよ。」ルナはまだ木の枝を見つめていた。
アドリアンは落ち着いた顔に、ほんの赤い影のような不安を滲ませながら、話を断ち切るように言った。「さあ、戻ろう。ルナ、絵の続きを描こうね。」
「うん……お父さん。」
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太陽が木々の向こうから昇り始め、金色の光が庭に降り注いでいた。アドリアン、ナナ、ルナの三人は、居間の温もりと古い旋律を残したまま家の外へ出た。
テラスの前にはSUVが停められている。その頑丈で洗練された姿は、歳月を刻んだコロニアルの家と対照的だった。ガレージの隅には、アドリアンが子どもの頃から大事にしてきたクラシックカーが静かに佇んでいる。塗装は褪せていたが、その存在は過去の記憶を宿す象徴のようだった。
アドリアンはSUVのドアを開け、ルナを乗せる。ナナは小さなバッグに必要な物が入っているか確かめた。湿った朝の空気に、土の匂いと家の木の香りが溶け合っていた。
日曜日はいつも家族で出かける日だった。買い物をしたり、簡単に昼食をとったり、ただそれだけの時間。しかしこの小さな家族にとっては、穏やかな日々を守るための大切な ritual だった。
エンジンがかかり、微かな振動が静かな朝を揺らした。車が庭を出るとき、アドリアンは降りて古い鉄の門を閉めた。軋む音が短く響き、鍵を確かめてから車へ戻る。
SUVは大通りへ向けて走り出し、家を静寂の中へと残していった。高い窓の奥で、古びた建物は三人の背中を見送るように佇んでいるようだった。
道路に出たところで、アドリアンは左手の景色に目を留めた。
「おや、あの空き家、ついに改修が始まったみたいだね。」
ナナは窓の外を見て、少し面白そうに微笑んだ。「ああ、あの“幽霊屋敷”って呼ばれてた家?」
アドリアンは笑い、ナナの髪に手を伸ばした。「そうそう。幽霊も、家が綺麗になって喜んでるかもね。」
「そうかしら?」ナナが冗談めかして返す。「むしろ怒ってるんじゃない?家をいじられて。」
アドリアンは首を振った。「綺麗にしてもらえば嬉しいはずさ。ねえ、ルナ?」
「うん、お父さん……」ルナはナナの膝に座ったまま、無邪気に言った。「幽霊さん、きっと嬉しいよ……」
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インドネシアには「ペスギハン」と呼ばれる暗い伝承が存在する。そこでは、邪悪な霊と契約を結び、富を得る代わりに、誰かの命を差し出さなければならない。
犠牲を得る方法はさまざまであり、ここではそのいくつかについて触れることになる。




