Kitchenコントレイル
初夏の月曜日、あの店『Kitchenコントレイル』は、裕也の住んでいる街にオープンした。裕也の住んでいる街はというと、東京近郊にある小さな駅の近くだ。駅近でも繁華街なんていうものは何もない静かな駅前エリアだった。裕也の仕事は、イベント関連の会社で月曜日に休みを取ることが多かった。
この日は天気も良くフラッと散歩に出ていた。歩いていると、駅の近くに洋食店のような店がオープンしている。外観は東京の店舗のような派手な洒落た印象は無かった。お昼時で小腹も空いて来たので、新しい花束の飾ってある玄関から中に入ってみた。室内はログハウスのような趣きで、木材が剥き出しの内装。心地の良い木の香りがする。裕也はこんな室内が一目で気に入った。
「いらっしゃいませ」
店内に入り窓際の席に座ると、品の良い女性とカウンターの向こう側にいる初老の男性が声を掛けてくれる。雰囲気や仕草からマスターのように見える。
「ご注文がお決まりになりましたら、お声を掛けてください」
そう言って、彼女はテーブルに水を置いていった。
(ご夫婦だろうか……)
何とも言えない二人の間合いがあったからだ。店内は二十畳程度の広さだろうか、そこには低くジャズが流れている。裕也の心は一瞬で、そんな店の雰囲気に溶け込んでいった。メニューに目をやると、味のある手書きで料理の写真もない。昭和レトロを感じる二つ折りのブック型になっている。
(写真も載せてないけど、想像を掻き立てて良いじゃないか。最近のファミレスの写真付きの活字メニューでは味わえない雰囲気だよな。学生時代を想い出すな……)
学生の頃を想いながら店の色々を評価していた。メニューは至ってシンプルで、選択肢はあまりないので決めるのも早い。裕也は手を上げて、給仕の女性を呼んだ。
「ナポリタンとコーヒーをください」
「デザートも付きますが、お持ちするのは食前と食後どちらにしましょうか?」
「一緒にお願いします」
調理場からは、カウンターのすぐ向こう側から食材を炒める良い匂いが漂ってくる。空腹を刺激した。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
良い匂いのケチャップ系の赤いナポリタンを置いていく。口に運ぶと昔ながらの学生時代に味わった様な懐かしい味がする。ナポリタンの衣服への赤い跳ねを気にしながら口に運んだ。
(昔、デートの時もこんな注文したよな……。食事で衣服が汚れないように緊張したのを想い出すな)
そんな事を考えながら口に運んだ。ケッチャップ・ベースのシンプルな味付けは懐かしく美味しかった。すっかりこの店が気に入った裕也は、毎週のように会社の休みの日に通うことになった。
この店は、日曜日は定休日で開いていない。東京周辺部の小さな店では、平日の営業マンなどランチタイムで集客を考えることが多いため日曜日は休みの事も多いのだ。おそらく、日曜日に空けても客は少ないのだろう。月曜日のある日、裕也がKitchenコントレイルに入ると、ウェイターをしている彼女のお腹が大きくなっている事に気が付いた。
(マスターとの子かな。これからは奥さんと呼ぼうかな……。マスターだけ一人になったらお店も大変だよな。バイトでも雇うのかな……)
そんな事を勝手に空想していた。
もう少し日が過ぎると、奥さんは店に出なくなった。特にバイトの補充はしなかったようだ。いつもの、ナポリタンを注文するとマスターが忙しそうに食事を運んでくる。普段は会話もしないのだが、今日は裕也がマスターに話し掛けた。
「奥さんが居なくてお店は大変ですね。もうすぐ、お子さん産まれてくるんですね。男の子か……女の子か……楽しみですね。予定日は、いつなんですか?」
「そうですね。無事に元気で産まれてくれれば、性別はどちらでも良いです。あと一ヶ月位なんですけど、もうすぐここを出られます。楽しみです……」
(なんか、返す言葉が少し違うような気がするんだけど。出られる……ってどういう意味なんだ?)
考えても仕方がないので、その時はそれ以上の会話はしなかった。
翌月になると、Kitchenコントレイルは臨時休業の紙が張られ、近くを通ると子供の泣き声が聞こえるようになった。店は閉まっているが、室内にはロウソクの灯りが奥の方に灯っているのが分かった。その灯りで、窓際のカーテンの隙間からは、奥さんがミルクを飲ませながら抱いている姿が薄暗い中に浮かび上がって見えた。
(少し落ち着いたら開店するのかな。赤ちゃんの顔も見られるのかな。楽しみだな……)
裕也は心の中で、店が開いてから食事に行く時のことを楽しみに考えていた。
ある日、Kitchenコントレイルが再開したのが分かった。久しぶりに昼食を兼ねて店に行ってみた。店の中に居たのは、あのマスターではなく知らない新しいマスターと女性だった。見た目の店舗内は全く変わっていない。メニューの内容も同じ。いつものナポリタンとコーヒーのセットを頼んでみたが、味も飾りつけも全く変わらなかった。子育ての関係で、落ち着くまで代打を頼んだのだろうか?
(それにしても、全く同じ味と盛り付けだ。チェーン店でもないのに、こんな事って出来るのかな……)
不思議に思いながら、新しいマスターに話し掛けてみた。
「前に居たマスターとウェイターの方は、子育てで暫くお休みなんですか?」
新マスターは、この店の仕事を引き継いだ経緯について教えてくれた。
「この店は、子供の欲しい夫婦が、……この店で仕事を続ける事で子供を授かれる……という神店なんです。ここでの仕事は、私達にとっての修行になるんです。ここを作られた方は水天宮を修復された宮大工さんで、出雲大社の御神木の一部を譲り受けて店の神棚と祭壇を祀っています。
普段閉まっていて見えませんが食器棚の隣奥の方に神棚が祭られています。そこを開けるのは、店を閉めてから朝までの時間帯です。昔からの言い伝えを基に、陰陽風水の設計を施し『Kitchenコントレイル』が作られたそうです。この店の位置は、出雲大社と諏訪大社を結ぶ直線上の位置に有るんです。どこでも良い訳ではないそうです。
私たちは、ここで二番目に子供を授かる申込者です。前の方がお子さんを授かったので、私達がお店を交代して修業を始めた所です。私達の後にも既に十名ほどの予約者がいます」
こんな長い話の内容を丁寧に話してくれた。客が他に居なかったこともあったようだ。
これで、前のマスターと話した時に、
『もうすぐここを出られます。楽しみです』と言っていた意味が分かった。
「前のマスターが作ったナポリタンやメニューが同じで、味も全く同じように感じたのですが、どうしてでしょう? まるで、見た目もそっくりなんですが……」
「実はここでの食材や調理法などのレシピは、日々の修行として予めこの店で厳しく決められています。言い伝えの通りに料理を作り、日々の生活や仕事を守ることが私達の大切な修行になります。毎日、店を閉めた後にメニューの料理とコーヒーをお供えしご祈願をしています。神様から認められ子供を授かれたら、また次の順番の方に引き継ぎます。それが、今日だったんです」
Kitchenコントレイルの窓の外では、前のマスターがハンドルを握り、奥さんが子供を抱いて助手席に座っていた。その姿を見ると、お店に通った日々が懐かしく裕也は店の外に出て二人の車に近付いた。
「おめでとうございます。それと、ご修行お疲れ様でした。今、新しいマスターにお話を聞いて驚いてしまいました。お別れするのは寂しいですけど、こんな可愛い子が生まれて良かったですね。女の子ですか?」
奥さんが、赤い色の服を羽織った小さな子を抱いていたので聞いてみた。
「そうなんです。授かったので大切に育てます。あなた、お世話になったお客様にお守りをあげたら……」
「これ、御神木を切り取った板なんですけど、この木に願い事を書いて祈っていると元気な子を授かるそうですよ。最もお相手が居ないと意味がありませんけどね」
笑いながら裕也に話し掛けた。その板を受け取ると絵馬くらいの平たい大きさの薄い板だった。
「有難うございます。これを持っていると縁結びの効果もあるんですかね?」
「きっと、そんな効果は無いと思いますよ。そこは、ご自分で頑張ってくださいね」
と言われて、裕也は彼女のいない今の現状を思い少し赤くなった。
前マスターと奥さんは、裕也と外に出て来たマスターに深々と一礼をすると、手を振りながら笑顔で出発した。お店に戻り食べかけのナポリタンとコーヒーを口にしながら、前マスターから頂いた綺麗な木目のあるハガキ位の大きさの絵馬の様な御神木を見つめていた。
(これで、子供を授かれるのか。マスターはなんて書いたんだろう……)
裕也は、手持ちのバッグからサインペンを取り出し、何かを書いてみようと思いながら御神木を眺めていた。
(どうせ俺は、ここで修業する訳じゃないんだし……これに、今の気持ちを正直に書いてみようかな……)
文字を真新しい板の上に書いてみた。
…… 素敵な彼女が、出来ますように よろしくお願いします ……
本当の気持ちを、そのまま書いてみた。初夏の強い日差しの中、真新しい平たい板が窓際で光り眩しく反射した。
その時、予想もしない状況が発生した。
「あの、保険の営業でこの辺を周っているんですが、全く地図をみても場所が分からなくて。教えて欲しいんです。少しだけ、ご一緒させて頂いても良いですか? ご迷惑で無かったら……」
(飲食店で保険の勧誘かよ……。ダメだろう。そんな営業のやり方は……)
そう思いながら、顔をあげると地図を持った彼女は、美しく優しい印象の新卒位の若い女性だった。裕也の気持ちが一変した。
「ここで良かったら、どうぞお座りください。お食事は、お済みなんですか?」
「今、お昼休憩でお店に入ったばかりで食事はこれからなんです。ご一緒に良いですか?」
そんな事で、相席で食事をすることになった。裕也は、地図を見ながら彼女の訪問地の行き方を丁寧に教えてあげた。
「ベテランの方は車で営業される方もいるんですが、私、学生時代に車の免許取らなかったんです。今、教習中なんですけど、車が必要な仕事に着くとは思わなくて……」
「そうですか。最近は、都会の若者男性も免許持ってる人少ないみたいですよ。うちの会社もそうですから」
「実は、あちらの奥の席で座って地図を見つめていたら、お手持ちの何かが光ってこちらに眩しく輝いたんです。それでハッとして、こちらに来てみました。突然お声がけして済みませんでした。慣れない飛び込み営業なんです」
裕也は、恥ずかしくなって願い事を書いた御神木を隠していた。
「大歓迎です。こんな素敵な方に、声を掛けて頂けるなんて幸せです。僕は裕也と言います。お困りの時は、何時でも声を掛けてください。喜んでご案内しますよ……」
「ありがとうございます。お礼に私の連絡先をお伝えします」
彼女は、名刺の裏に携帯番号とSNSのIDを書くと裕也に渡してくれた。食事が終わると彼女は、初夏の暑い午後の営業に出て行った。明るい笑顔がとても印象的な娘で心に残った。
(御神木の光が、彼女を呼んでくれたのかな。今日は、素敵な休日だったな……。連絡先まで教えてくれるなんて嬉しい。ちゃんと縁結びのご利益もあるじゃないか……)
裕也の心は弾んでいた。夕方になると、裕也は彼女宛てにSNSでメッセージをいれてみた。
『お疲れ様です。暑かったでしょう。営業大丈夫でしたか? 今日は、楽しい一時をありがとう』
『今日は、ありがとうございました。色々教えて頂いて、とても心強かったです。今度は、良かったら運転も教えてください。楽しみにしています』
御神木は予想外に、縁結びの光を彼女に当ててくれたようだ。
(そう言えば、何故か彼女もナポリタンを食べていたな……。偶然、店のメニューが少なかったせいか……)
そんな事を思いながら、今日の彼女と出会いに感謝した。裕也は、神店『Kitchenコントレイル』のマスターがくれた御神木を見つめ、今日の幸運な出来事に感謝した。何故か頭の中には、彼女の微笑みと二人で食べた店の赤いナポリタンが浮かんで消えた。