穏やかな日々が⁉ まさかの話に大混乱!
目の前に広がるサンフランシスコの海は、今日もいい波がきている。
太乙とアメリカに来て、もうすぐ一年が経つ。
仕事はしていない。
必要に応じて、知人の依頼を手伝う程度。
少し前までは想像もできなかった穏やかな日常が、今では当たり前になっていた。
太乙は今、波に乗っている。
サーフィン、射撃、アートオークション。
毎日あらゆる趣味に没頭している。
最初のうちは一緒に出かけていたが、興味が持てず、熱量も違いすぎた。
音楽の趣味を例にあげると、太乙はクラシック派で、瑤姫はテクノ派だ。
今は、一人で出かけることが増えた太乙の背を、静かに見送る毎日。
……のはずだったが、今日は久しぶりに海まで足を運んだ。
(わかってた。わかってたけど……)
陸に戻った太乙の周囲を、際どい水着姿の女性たちが取り囲んでいる。
「……はあ……」
パラソルの下でため息をつく。
太乙がモテるのは、万国共通らしい。
(別に、彼女ってわけでもないし。元妻、だし?)
でも、太乙があの中の誰かと、親しく話していたら。
目の前で唇を重ねたりでもしたら——。
「……おい」
気がつけば、太乙が立っていた。
濡れた髪から水がしたたり落ち、太陽にきらめく肌が眩しい。
「顔、引きつってるぞ」
「えっ、そんなこと……ないですけど?」
「嘘が下手だな」
淡々とした口調。
けれど、かすかに笑みが含まれていた。
太乙は腰に手を回し、当たり前のように引き寄せてくる。
「今日は、どうして来た?」
瑤姫は口を開きかけて、すぐ閉じた。
太乙の問いは、いつも急所を突いてくる。
ごまかそうとしても、無駄だとわかっている。
(こうなったら、こっちから先手を……)
瑤姫は上目遣いで、太乙の首元に手を回した。
「……だって……」
潤んだ瞳で顔を覗き込みながら、日焼けした逞しい胸元に頬を寄せる。
「心配、だったんだもん……」
頬を小さく膨らませ、こてんと首を倒した。
太乙は真顔になる。
「馬鹿か」
いつもより低い声に、鼓動が跳ねる。
そのまま、そっとキスをされた。
軽い接触のはずなのに、身体の奥が熱を帯びていく。
そして、太乙の指が水着の結び目に触れた瞬間——、
「だ、だめ!」
瑤姫は思わず、太乙の手をはたいた。
「……なんでだ」
太乙は不満げに、指を引っ込める。
「ここじゃ、ダメでしょ」
頬を軽く引っ張ると、太乙はやれやれといった顔をした。
あれほど冷徹だった男が、こんな柔らかい表情を見せるようになるとは。
「これ以上、あなたを見せたくない」
一瞬、太乙はキョトンとしたが、すぐに目を細めて笑った。
「俺もだ」
唇が、軽く重なる。
——こうして、太乙と一緒にいられる日々が幸せだった。
しかし、このままでいいのか、とも思ってしまう。
波の音を聞きながら、目を閉じた。
逃げてきたわけじゃない。
でも、置き去りにしたものが、確かにあった。
***
翌朝。
キッチンに差し込む朝日が、カップから立ちのぼるコーヒーの湯気を照らしていた。
(もうすぐ一年……)
日本に戻る理由も、必要もなかった。
けれど、諦めたはずの過去が、まだ心の奥で燻っている。
煮え切れない想いを、苦いコーヒーで流し込んだ時、スマートフォンが震えた。
(……真人さん?)
見覚えのある名前に、背筋が伸びる。
本文は一行だけ。
『至急、相談したいことがあります』
こういうところが、兄弟だなと思う。
瑤姫は少し迷ってから、通話ボタンを押した。
『お久しぶりです、瑤姫さん』
記憶よりも、少し柔らかくなった真人の声。
「メッセージ、驚きました」
『あぁ、ちょっと大袈裟に書きすぎましたかね』
雑談のあと、真人が本題を切り出した。
『実は、二宮家の土地の一部について、ご相談がありまして』
心臓が、ドクンと跳ねた。
『開発の都合で、一部が余りましてね。他社に売却することも考えたのですが……ここはやはり、瑤姫さんがお持ちになった方が、良いのではないかと思いまして』
すべてを懸けて、取り戻そうとした。
しかし、人生と引き換えに、諦めた。
それが今、思いもよらぬ形で、転がり込もうとしている。
『急な話ですから、返事は今でなくて結構です。ただ、買い手に困ってはいないので』
(相変わらず、したたかな人だなぁ)
明日には返事をする約束をして、瑤姫は通話を切った。
その手は、自分でも気づかないほど、かすかに震えていた。
数億程度の買い取り額に、迷っているのではない。
買い取ったとして、あの土地でなにをすればいいのか。
すべてを諦めたあの時に、描いた未来も捨ててしまった。
おもむろに、コーヒーをひと口含む。
(……苦いなぁ)
「どうした?」
振り返ると、バスローブ姿の太乙に抱きしめられた。
「……土地の一部を買い戻さないかって、真人さんから……」
抱きしめる腕に、力がこもったのがわかった。
「返事は、したのか?」
瑤姫は小さく首を振る。
太乙は少し黙ったあと、静かに言った。
「迷っているなら、買い戻せばいい。悩みは、あとで考えればいいだろ」
その言葉に、胸の糸がほどけていく。
瑤姫は、そっと尋ねた。
「……太乙さんも、帰りますか?」
「……もともと、そのつもりだった」
「えっ?」
「ファミリーオフィスを立ち上げる」
その言葉に、瑤姫の心がふわりと軽くなる。
自分の都合で帰国させるのは、心苦しかった。
「じゃあ……一緒に、帰りましょうか」
太乙は小さく微笑んで、頷いた。
「ああ、帰ろう」
二人の唇が、静かに重なる。
逃げていたわけじゃない。
けれど、ようやく——向き合える気がした。