獣との対話。
暫くして、ずっと眠っていた店主が目を開けた。
すぐに先程ミモアが座っていた席に目をやって、こちらに尻尾を向けて机の上に寝そべり、ふすふす大きな鼻息をたてて木椅子ののクッション部分を嗅いでいる。
依然、体は動かない。
気がつくと店主がこちらを見ていた。鈍く開いた瞳孔は、私の顔へ一点に集まっている。
獣特有の低い唸り声を出す。体も動かず、声すら出せない。冷や汗が滲み出るのみだった。
とすっ。
店主の獣手が私の肩に触れた。一瞬の肉球の柔らかさを感じた後、鋭い痛みが肩を走った。
腹を刺されるほどではない。されども確実に借りた服には傷がつく威力。悲鳴も出せず、ただ許される範囲で体を身動がす。店主の両手が私よりも肩に、いや、全身が蛇のように私の上半身に纏わりつく。耳元でふすふすと聞こえる。さっきよりも小さい音だが、耳元すぐ近くに音源がくると嫌に大きく聞こえる。生暖かい息が鼓膜に触れる。ゆっくりと、されどもくまなく全身を探られる。何をしているのだ?最初に食う部位を探しているのか。いずれにせよ、局所的な痛みが全身に滲んで気持ちが悪い。
顔に尻尾がかかる時、店主が突然動きを止めた。ポケットに異物が入り込むのを太ももで感じるのと同時に、勢いよく引っ張られた。
がしゃんっ、とものが落ちるのが聞こえる。落ちたものを認識しようと意識を向ける判断をした時には、店主は体勢を変えていた。私の膝上にちんまりと乗っている。かぷん、っと何かを外す音。
微かに見える店主の前姿。物珍しそうに何かを見ている。手には香水を握っている。
突然店主が顔を上げる。狐によく似た大きな耳は、私の胴体に遮られ半ばで折れている。
手に持った香水を傾けてちゃぽちゃぽと動かしてゆらゆら揺れている。出し方を教えて欲しいのか。
「ええっと、ノズルを押してみて?」
いつの間にか声が出るようになった。だが店主はマル眉を顰める。言葉が通じないのか?いや、ノズルを知らないだけか。また、いつのまにか動かせるようになった腕を、店主の手に近づける。嫌がろうとはしない。香水を持っている方の手に手を添えて、指でノズルを押すようにアシストする。
ぷしゅっ、と渇いた音が聞こえた。一応私の手首に吹きかけたが、店主は今まで一番のふすふすを鳴らしながら嗅いでいる。
「うわっ!」
いきなり店主が飛び跳ねて、私の背後の店の奥へ向かった。その衝撃で太ももがひりひりと痛む。てちてちと幼子のように走る姿は可愛らしいが、何をされるかわからないので急いで店を出る決意をした。机の下に滑り込んだ落とし物、スマホを回収して席を立つ。
足音が聞こえてきてしまった。
異様だったのは聞こえる音が足音だけではなかったことだ。恐る恐る振り返ると、店主が溢れんばかりの食器をお盆に乗せ、さらにそのお盆を頭に乗せて辿々しく向かってきている。
唖然としてる間に机に辿りついた店主は、その食器を机の上に並べている。
「ちょっ!ちょっと待って!?私、お金持ってないんだってば!!」
伝わっているのか伝わっていないのか。獣特有の微妙なラインの顔をする店主は、こちらを見て手に持ったままの香水を食器の横に置いた。皿にはパンとサラミチーズ。コップにはミモアが飲んでいたであろう水…薄めの茶が入っていた。
「… その香水が欲しいの?」
下を向く店主の顔が返事を物語っている。
…私が元の世界から持って来た大切な品を他人にあげる?そんなの…そんなの!
「いいに決まってるでしょう!?」
店主が今持っている香水は、私のアイドルグループが化粧品会社とコラボした時に発売された品で、私も商品開発には携わった。店主がこの香水を対価を支払ってまで手に入れたいという気持ちは、即ち私の評価に直結する。
「一人で食べるのは寂しいから。よかったら半分こしましょ!」
この世界で、こんなに早くこの気持ちにさせてくれる人に出会えるとは思わなかった。
店主のパンを分け合い、差し出された茶で喉を潤した。そんなものでは到底潤せない渇きが、少し潤った。
暫くは、そこで休養をとった。だが、陽が高くなるにつれ暑さが増すばかりであり、私は店主が店を閉めるのを感じ取り、お礼を言って外に出た。
どん詰まりだ。
よくよく考えてみたら、ミモアに聞いた情報は全てアーマに尋ねれば、するすると出てきそうなものばかりである。この場所から出られる鍵にもましてや決定打にもなり得るものではない。
暑さが体にまとわりつく。永遠と泥の中にいるような気分だ。
(店主さんに香水の使い方、一応説明したけど理解してくれたかなぁ…)
トボトボと、行くあてもなく熱射の中を歩いている。全ては自分の自業自得であるが故に、怒りすらも湧いてこない。地下階段の中段付近で立ち止まり、スマホを確認した。
圏外でも写真機能は問題なく使えて助かった。ふと、スマホの内蔵時計を見ると今が、12時であることに気がついた。
この世界とあっちの世界でどのくらいの時差があるかは知らないけれども、自分が今まで生きてきた世界との繋がりを感じられて、ほんの僅かに安心した。
もし、何もなければ。私は今頃、次のライブに向けてレッスンをしていた。気になっていたメロディの表現方法をトレーナーに聞こうと思っていた。東京公演が終わっても気が抜けないからって、松崎さんはボロボロの大学ノートに一生懸命に予定を書き記していた。
…今頃は、私の葬式だろうか。
そもそも、死体はどうなったのだろうか。
違う
グループのみんなは無事なんだろうか。
違う
家族は、ママは、妹は、私がいなくて大丈夫なのだろうか。
違う、違う、違う違う違う違う!!!
ばしんっと大きな音が空間をこだまする。自分の頬を両手で叩いた音だ。
私は今、アーマに何もしてあげられていない!そんなことを考えて言い訳をするな!
私の悪い癖だ。自分が不幸であるとかどうでもいいことを考えて、無力である現状の言い訳にしようとしている!
無能であるなら自覚をしろ、小輪瀬ひまわりとしての尊厳を保って行動しろ。アイドルとしての私は今ここに立っている!!そのためにここでは本名を捨てたんだ!お前が、例え死んででもアイドルとしての矜持は保ち続けろ!
自慢の頬は未だ痛み続ける。でも、腹を刺されるほどの痛みではない。ここでは、腹部外傷で死んだことすらこの場所ではアドバンテージになり得るのだ。
最低限の情報は手に入った。考えろ、ここから出られる方法を。
「…っあ?」
素っ頓狂な声を上げた。そして素っ頓狂な考えを思いついた。
本当にできるかはわからない。でも、もし成功するならば一応は応急処置的な対処法にはなる。
穴はあるだろうから、アーマに確認して…。
…嫌な顔がよぎった。そもそもミモアが言ったことが全て正しい確証はない。
それでも、いや、それこそアーマに確認して情報と計画の是非にについて話し合おう。
ガシャンッ
上階から音が聞こえた。




