ひまわりの歪み。
ずびずびという音が小さい部屋にこだまする。ひまわりが鼻をかんでいるのだ。目元が熱く、顔全体がぼぅっとする。
引いていたシーツを直してから自分の顔を整理しているところを見るに、ひまわりはこういう理不尽な悲しみの後始末には小慣れてきている。感情よりも眠っている理性が先に動く。
「いやな大人になっちゃったなぁ…」
ひまわりは上を向きながら深く息を吐く。天井を向く頃には完全に肺の中の空気を出し切り、息を吸い初めている。
アイドルは12歳から初めた。誰も知らないような小さい事務所に応募し、1年目でグループの事実上の破綻。2年目で再起。3年目でメジャーデビュー。4年目の昨日でドームライブ。奇跡の成長を遂げた。
実際は、奇跡とは呼べない血みどろしい努力の末に彼女はステージに立っていた。
ただの奇跡でトップアイドルになれるなら、彼女は、彼女達はアイドルなんか目指していない。
グループの破綻のせいで、何度だって泣いた。こんなものがアイドルなら、死んだ方がマシだと思えた。それでもファンが望むなら、そんな無様な過去は飲み込んだ。
彼女の、一番恐ろしい部分はその卓越した価値観によるものだと思う。
12歳から16歳までの四年間。
つまり彼女は人生の4分の1をアイドルとして生きている。人間は何かに取り憑かれると頭がおかしくなるのか、アイドルとして過ごした四年間で向日葵の中には矜持とも言える歪みが生じた。
私は、誰かが困っていたら助けなければいけない。
私は、誰かが私を求めたらそれに応えなくてはいけない。
私は、求められる偶像を演じなければならない。
私は、万人に愛される価値を持った人間でなければならない。
私は、不変の希望の星でなければならない。
彼女がアイドル時代に求められていた象は、普遍の象徴。明るく元気な女の子。クラスで一番可愛くて、誰とでも仲良くなるし誰にでも愛される。ベタに明るい理想的な偶像。
本当は、学校になんてほぼいけなかったし、クラスでは変人扱いをされていた。
それでも、そんなことはどうでもよかった。そんなことで彼女の渇きは満たされなかった。
強迫観念としか思えない彼女の感覚は、ついぞ誰にも知られることなく持ち越された。
数千人、数万人がたった4人の少女のためだけに大金を払い、光る棒を振り、一挙一動に狂喜する暗闇の箱。彼女だけが歪んでいたとは言えない。ただ、みんな必死だった。
顔の熱は冷めていた。天井の一点を見つめて、意味もなく口を開いた。息が漏れる。
まるで獣が宿ったかのような目をしていた。鼻腔の奥が鋭く痛む。
君は宝物だ
外を知っている憧れとして、
外に出れる鍵として。
その殆どがおそらく間違いなのだろう。ただひまわりを宥めるための方便だったのかもしれない。
だけど、彼女にはその感情を向ける価値がある人間だと思われた。希望の星だと思われた。
叶えてあげよう。
満たしてあげよう。
演じてあげよう。
自分の感情なんてどうでもいい、自分のためだけに生きるだけなんてつまらない!
私は、アイドルなのだから。
気がついた時には、部屋の温度に違和感を覚えた。
日差しなんてほぼないのに、ひたすらに乾いた暑さが部屋に徐々に広がっていくのを感じる。昼間になったのだろうか。ひまわりは思い出したかのように瓢箪を取って蓋を開け、中を確認する。見たところ保冷機能はなさそうだ。
「さて、どうしようか。ここを脱出する方法を考えたいところだけど、このままこの暑さが高まるようじゃまともに頭が働かない。頼みの水も保冷機能がないので少しタオルにつけて頭を冷やすってこともできない。」
水筒の蓋を閉じて、かぽり。
「そうだ。昨日の夜の廊下はすごく涼しかった。もしかしたら避暑地として使えるかもしれない!このままここにいたら熱中症になってしまう。仕方がないから外に出よう!」
焦る口でしどろもどろになりながら、ひまわりは演説のように口を回した。
「__下手な言い訳はここまででいいかな。」
暑いのは本当なので、スマホと香水を持って扉に手をかける。
(行動しなければ何も情報は得られない。)
「うひゃぁっ!」
地面に手が付いている。手首には見慣れた黒いリボンの髪飾り。外に出ようとした瞬間、思いっきり崩れ落ちた。半ば怒りながら原因を探すと、ゆっくりと戻っていく扉を視界半分に抑えながら、ようやく原因があの謎の段差だと気がついた。
「アーマはよく普通に出られたな、慣れているからか。」
ひまわりは軽くため息をつき、体勢を完全に閉まった扉の方へ向けた。背に冷たい何かがあたる。ゆっくり見上げるとどっしりと光沢もなく錆びついた鉄格子があった。
昨日夜は暗くてよくわからなかったが、よく見ると、アーマの部屋より2倍くらい面積が大きく、中には誰もいない。正直、間抜けな悲鳴を誰にも聞かれずによかった。焦ったせいか、急激に喉が渇いている。
手荷物を確認する。いつもの癖でスマホと香水しか持っていない。ゆっくりと立ち上がり、またため息をついた。
どうしていつもこうなのだろうか。悲観したところで喉は潤せない、ノブに手をかける。
がちゃ、がちゃ。
開かない。
がちゃ…がちゃ、がちゃがちゃ、がちゃ、がちゃがちゃがちゃがちゃ
引いたり、押したり、しまいには横にスライドさせてみようとしたりもした。でも開かない。なぜ?
ドアの横の隙間をみる。鍵の仕組みはない。ドアの下の隙間をみる。何か挟まっている様子はない。
ドアノブには鍵が入る隙間すらない。
滲む汗を手の甲で引き取り、よく考えてみる。
(私は今まで一回でもこちら側からこの扉を自分の手で開けたことがあったか?ここに来た時はアーマが扉を抑えて招いてくれた。アーマは絶対に外には出てはいけないと言った。)
「っっ…ふぅぅ。」
焦る気持ちと早まる鼓動を抑えつけて、手首にもたれる髪留めを掴んだ。
無言で結い上げる。
焦りのせいか、パラパラと細い毛束が落ちていくのが腕から伝わる。何度も髪を結いなおし、やっといつもの髪形に直した。二つの結びを頭に結び、緩く毛先を広げる。
自業自得だ。出てはいけない理由を深く考えずに思いつきで行動した。怒られるなら怒られよう。でもその時は何かの功績を引っ提げて怒られよう。
それが私なりの謝罪の仕方だ。
薄暗い回廊が、いつかの舞台裏に見えて仕方がなかった。
こつん。こつん
およそ数時間前に下った階段を上がる。そこまで長い階段ではないので上がる前から外が見える。信じたくはなかったが。
地面に陽炎が見える。地下もじんわりと汗ばむ暑さだったがま、外はそれ以上に暑いとみた。
これから半日ずっと外で過ごさないといけないのか。階段を上り、上がる気温を肌でひしひしと感じながら覚悟を決めた。
「ふう....あっついな…」
地下の薄暗さと地上の太陽光の強い光のギャップで目の裏がじんじんと痛む。
額に乗せた手の平の影で光を抑え、周囲を確認する。昨日あんなに賑わっていた露店がない。砂埃が立っている。暑いには暑いが湿度がない。
三大都市圏の真夏よりはマシかと考えるのと同時に、人の気配が全くないのが気になった。
昨夜の耳を塞ぎたくなるような下品な喧騒とは反対に、今は自然に身を任せた静かな音しか聞こえない。
(アーマは、ここが労働所と言っていた。じゃあみんな仕事に出ているのだろうか。
もし、そうだったら正しくは労働所ではなくて寮だろうな、すごく低待遇の社員寮。
娯楽が酒か踊りか、遊びしかない仕方のない場所。)
酒。ひまわりはその言葉でふと思い出した。
「そうだ、アーマが目をつけていたという古代魔法。」
ひまわりが初めてここに来た時に見た掲示板のことを言っているのだろう。吹き抜けのよく見える構造を利用して、あの酒場に誰もいないことをその場で確認する。
「まずはそこを確認しよう。」
ひまわりがその古代魔法とやらでこの世界に引っ張られたというのなら、何らかの情報はわかるのかもしれない。
ずっと棒立ちをしていたからか、痛む膝裏を抑えて歩き出した。
ひまわりは堂々と階段をのぼり、堂々と酒場に入った。ここは夜でも昼でも見晴らしが異様なほどにいいから、ひまわりが人の気配を感じやすいのと同じように、人もひまわりを感じ取りやすい。
昨日の夜に外観を見た感じ、人型が少ないここではひまわりはよく目立つだろう。何をしても目立つのならば、だったらいっその事胸を張ればいいと思い、さながらレットカーペットを歩くかのように堂々と移動した。
結局誰にも会わなかったから意味はなかったが。
酒場は蝋燭という光源がないせいか、夜よりも暗い。閉店した夜の核店舗の明暗を彷彿とさせる。
全く見えない暗さではないのでスマホのライトはつけずに、あの掲示板を確認する。
「全く分かんない.....。」
数分たってひねり出した言葉がこれだ。
(別に突然光が飛び出し私にとんでもない力が、とかなんとかアホみたいなこと考えていたわけではないし、一番この状況が変わる可能性があるのがここだっただけで.....。)
いや、そもそもなぜアーマがここを出られないか分からないからどうしようもない。
わからないからわらない。
ひまわりの頬から汗がぼたぼたと落ちるのがわかる。暑くて思考が働かない。
とりあえず、ひまわりは、ポケットにあるスマホで掲示板の写真を数枚撮って酒場を出た。いくらか涼しい地下で涼みながら考えようという魂胆だ。幸い、日の位置を見るに時間はいくらでもありそうである。
そして、人気がないことをいいことに、この場所をふらふらと探索してから戻ろうと地下通路へ最短で降りられる階段の真反対の階段へ向かった。
例の酒場を軸に、上から見て左右対称で組み立てられているこの建物の地図は、ひまわりの頭の中でほぼ完成されていた。
(あとは店の配置や役割など、アーマが帰ってきたときに話をスムーズに進めるため、役に立ちそうな情報はどんどん取り入れておこう。)
階段を下りた先、地下に繋がる階段はなく、代わりに木の扉があった。
ガラスの壁が一面を覆い、手前には椅子と机が丁寧に並べてあった。薄暗くて中がよく見えないが店だろうか、一部分の色付きガラスから落ちた翡翠色が、爛々と空間を飾っていた。もっとよく見ようと近くへ行った。
人がいる。




