アーマ。
広がる夜空と、兆す月光。アーマは、男の部屋を蹴破り広場へと飛び出した。
(自業自得か。ひまわりに夢中でリスクを排除することを怠った!)
ステージの前、獣と向かい合う。
アーマが周りの障害物を横目で確認すると、辺りが騒がしいことに気がついた。
ひまわりを囲っていた筈の奴隷達が、己に災禍が降りかからないよう逃げ回っている。
腹が立つ。あんなにひまわりを祭り上げていた癖してこの体たらく。
恨み言の一つでも投げかけようとしたアーマは、視界の違和を感じ取る。
凄まじい空気の変動がアーマの体に張り付き、アーマは逸らした体を伏せた。
頬を伝う何かが温かく、じくじくと痛む。
地に降りる足音。油断したアーマへ店主が首を取りにきたのだ。
「…そうだね。ゆっくりしている暇はないか!」
アーマはマントを脱ぎ捨て脇腹に括り付けている何かを乱雑に毟り取った。
目の前にいた筈の店主はすでにいなく、雷鳴のような破壊音が空から聞こえる。
アーマは片手でそれを装着し、目を瞑る。
風の音が変わった。アーマはそれを握りしめる。
腰を低く据え、腕を構えた。
一瞬の静寂。それと同時にアーマが腕を振った。
空中でのし掛かる重圧、店主が吹き飛んだ。アーマの上がった腕は赤く垂れている。
「まずは一発。あともう一発でとんとんだね!」
鮮血をかき分けて鈍く光るそれは、いつの日か見たメリケンサック。
吹き飛ばされた店主は露店に突っ込み、木屑を取り払い乍らゆらゆらと立ち上がっている。
大きく映る満月、それを横に添えて二匹のヒトが向かい合った。
長い髪が夜空を照らしながら乱れている。
獅子は大きな足音を立てて、砂場を駆け抜ける。
「リオン、ここでいい」
獅子に背負われているミモアが声を出す。その声を聞いた途端、獅子は自身の足に急ブレーキをかけた。
「あでっ!」
ミモアが急激な力の変化によって舌を噛んだ。獅子の頭を軽く叩く。
そして今度は丁寧に、獅子がミモアを下ろした。ミモアは無言で月の方向へ歩いていく。
十歩ほど歩いたあと、ミモアは止まって何もない空間に手をかざす。
その瞬間、自然というにはあまりにも拙い強風が辺り全てを靡かせた。
「うぉっ!?大丈夫ですか!?」
獅子が十歩離れた遠くから声をかけた。その後に足音も聞こえる。心配の声には反応する素振りも見せなかったミモアが口を開く。
「リオン、今はこっちに来るな、邪魔になる。…わたしは今、結界の解除をしているんだ。」
獅子は、母に嗜められた吾子のようにたじろぎながら歩みを止める。
強風が吹き荒れる、月光ではない青白い光。その全てを前にした後ろ姿に、獅子は話掛ける。
「結界…?なぜだ!?」
結界は人の行き来を拒むものではない。魔法の上限を拒むものであるため、今回の計画を阻むものではない。それは獅子も知っているために出た疑問。
獅子は、何も知らずミモアに従ってここまできた。
「…私は、君たちの為に進んではいない。むしろ、邪魔にもなっているだろう。それが理由だ。」
獅子はわけもわからずに、ただ立ち尽くす。少なくともミモアは目の前の獅子に言葉を投げかけているのではない。獅子は、それがすごく寂しいような、懐かしいような気がした。
「…ごめんなさい、リオン。」
吹き荒れる強風の中、蝋燭のような足で飛ばされないと必死になって堪えている彼女が、一瞬だけ横目で獅子の顔を見た。
ミモアと目が合った瞬間。獅子は地に膝をつき、項垂れることしか出来なくなった。
同時刻、広場。
けたたましい破壊音。まるで獣と獣が闘っているような唸り声を上げながら、アーマと店主は殺し合っていた。
二人はすでに崩壊しかけている広場を駆け巡り、様々な物を破壊している。
手足の肉は網目上に裂け、頭部から血を垂らし、衣服をズタズダにして立っているのは、アーマだった。
一方店主は、軽い頭部からの裂傷だけで済んでいる。戦況は一目瞭然だった。
店主は、主催が奴隷の立場でありながらも側仕えを許すほどの力を持っていた。
体が重い、腕が動き辛い。これ勝てないかもな。
店主が露店の残骸を踏み抜いて、アーマに向かってくる。
アーマはその豪速球で向かってくる獣を、力任せに無理やり羽交締めて投げ飛ばす。
二の腕がばっくりと裂けた。赤く染まった汗が滲む。
だめだ。諦めるなよ。私が死んだら今度はひまわりなんだ。
リオンはミモアとともに行方不明。リザーは解放されていない。ルーに至っては力不足だ。
体が重い。
投げ飛ばしたはずの店主は、そっくりそのままの勢いでアーマに向かってくる。
その行動を目に入れて、アーマはメリケンサックを握りしめる。
「っぐぁ!」
振りかぶった拳は外れて、店主の爪がアーマの腹部に突き刺さった。急いで店主の腕を掴み取り爪を抜いて、店主の体を固定した。痛みのせいか、アーマが乱暴に蹴り上げた足は店主の耳に掠っただけだった。
店主はアーマの腕を薙ぎ払い、体を後ろへ引いて姿を眩ませた。
店主とアーマは筋力の違いはなく、むしろ若干の利がアーマにある。だが、店主の身動きとアーマの身動きのスピードには、決定的な格差があった。
アーマはその原因がわからずに、ただ痛みと己の弱さに対する怒りを噛み締め、消えた店主を警戒した。
目の前が閃光のように歪み、全身に衝撃が走った。気づけばアーマは店主に馬乗りにされていた。
上から向かってきた爪を、ギリギリのところで掴み止める。店主を跳ね除ける力はもうアーマには残っていない。
腕だけギリギリ力んでいるが、その痩せ我慢も限界だ。
血だらけの爪は段々と近づいてくる。
体が重いな。
アーマは死の淵でそんなことを考えていた。
腕の傷から鮮血が漏れ出している。痛い。
初めて獣を殴った時を思い出す。あれはリオンの真似をした。
あまりにも軽快に殴るものだから、僕も軽々しく岩を殴ってみた。
でも殴った拳が痛くって、思わずリオンを睨みつけたら笑われた。
それからはずっと、リオンの真似をしていた。
獣のように早く、牙のように鋭く走って力任せに殴り飛ばした。
今みたいに。
店主はまた吹き飛んでいた。広場の地面に伏せて、でもすぐに立ち上がった。が、軽い脳震盪状態なのか、あたりをきょろきょろと不審に確認している。
アーマにとっては、今まさに絶好の機会。だがアーマは動こうとはしない。いいや、動けないのだ。
アーマは、死ぬ覚悟を受け入れる時間ができたと思った。
…私は、体の使い方が下手くそなんだ。意識を手放して殴り飛ばせば、思っても見ない力を引き出せた。
だけど、その後が辛い。通う血は内部から血管を焼き、抑えつけられたかのように体が重くなる。
この力を使うには肉体が邪魔だ。だが、力を使うには肉体が必要になる。
店主は、こちらに歩みを向ける。
誰よりも強く、何よりも頂にいたかった。
影が被さる。アーマには、もう空は見えない。
僕は、外を渇望した挙句、死を誰よりも近くに置いた。
初めて、殺し合った相手の顔を見た。
泣いている。
その顔を見たアーマは、痛む脇腹を抑えながら口を開いた。
「そうだね…。僕も、外に出たかった。」
振りかぶられた爪が、アーマの首に向かった。
その時だった。
「奴隷達_________っ!!!!!!!」
空高くから、迸るような声が聞こえた。その声は反響を繰り返し、いつまでも耳に残っている。
店主は手を止めて上を見上げる。
屋根の上から髪を靡かせ仁王立ち。背景の星は、彼女を際立たせる為だけに夜空に舞っている。
いつかのステージ上を思い出す。
ひまわりだった。