悪辣の真打ち退場
こつ、こつ、こつと階段を登る。夜風がよく体に沁みる。
広場の裏側に周り、壁に引っ付いた木の階段である。
男が先を歩き、ひまわりがそれを追う。女は男の三歩後ろを歩け、と旧時代的な地元の言葉が、脳裏をよぎる。男はその考えは決して口に出さず、態度で表しているようだった。
偏見ではない。男の歩くスピードの話だ。不安定な木の階段の上で、突然早くなったり遅くなったり、止まったりしてしまうから、三歩以上後ろを歩かないとぶつかってしまう。
まるで私を試しているようだ、とひまわりは考える。
そんな事を考えていると、ひまわりと男は扉の前についた。
扉を開けて、男が先に入る。その空いたままの扉が閉まってしまわないうちに、ひまわりは中へ入る。
兆す月光を全て跳ね除けてしまう閉鎖的な部屋の作り。外よりも暗く、僅かに置かれたキャンドルがほんのりと生暖かい印象を残す。金庫と、テーブルしかない殺風景な部屋。
男はブレザーを脱いで壁にかけた。その様子をみていると、部屋にひまわりと男以外の人がいる事に気がついた。
卵色の毛皮。
エプロンの下の洋服。
あの店の店主だった。
店主はこちらに見向きもせず、ただ下を向いている。男は部屋の中心にあるテーブルの近くに置いてあるソファに座り、扉前で一歩も動かず周囲を観察しているひまわりに声をかけた。
「そう緊張することはない。ここに座りなさい。」
ひまわりは小さく返事をして、男が指した木椅子へ座った。
今、この空間に私を守ってくれる人は、誰もいない。
恐怖はない。魔法の言葉を知っているから。
「さて、早速だが君の歌を聞かせてもらった。…ひまわり…?だったかい?君は、人生で一番大切なものはなんだと考える?」
足を組みながら男が答える。ひまわりは予想外の返答に少し困った振りをした。
本心で答えてはいけないのは分かっている。ただ、男が何を望むのかがわからない。
学、金、力。今までの情報から、そのような事を言って置けば安牌ではある。
だが、今ここに座っているのは、反逆を目論む来訪者ではない。
男が支配するべき奴隷。まだ見ぬ金のなる木。そして、他には何もないただの空っぽ。
そう考えて、ひまわりは回答を叩きつける。
「歌を、歌う事です。」
男は鋭い犬歯を見せ、苦笑した。だが、その目には確かに愉悦が感じ取られる。
「はは、確かにそうか!君にとってはそうなんだろう。だがね、もっと大切なものがある。それはね。…親だよ。」
意外にも道徳に沿った男の回答に、ひまわりは思考を修正する。男は店主を呼びつけ、どこから持ち出したのか、酒を注がせた。
「親はね、大切なんだよ。僕の親はここを経営していてね。おかげでなんの苦労もせずに、大金と高級取りの仕事を引き継いだ。この服もそうだ。これは君たちが聞いたこともない値段で売られている。
あんまりにも高額だから、購入時は店員が付いて歩いて、飲み物をせっせっと注いで接待する。」
ひまわりは唾を飲み込み、態とらしく驚いた。男はそれを見ながら酒を飲み干し、隣の店主にグラスを預けた。
つまらない。
「はは、それに対して君はどうだ?見窄らしい服に、貧しい暮らし。僕は生まれてこの方奴隷になんてなった事がない!それは親が僕を愛していたからさ。金を積み、手塩に育てた。君は親に愛されずに奴隷になった。つまり、根本的に君と僕とじゃ品位が違うんだよ!」
男は勢いよく立ち上がり、ひまわりの下ろした髪を乱暴に引っ張り上げた。
その様子を店主は黙って見ている。男は、ひまわりを見下して耳元で叫ぶ。顔が赤い、酔っているんだ。
「この状況は、歌があったら変わるのか?じゃあ歌ってみろよ!?
ほら!ほら!もう一度言ってみろ!?人生で一番大切なものはなんだ!?なぁ!?
早く言わないと、女の自慢が禿げ上がってしまうぞ!?ほら!?」
ゆさゆさと、掴んだ髪の毛を頭ごと動かす。あまりに力が強く、ひまわりの体は椅子からずれている。
きっと、ひまわりは正解を掴んでもこうなっていたのだろう。
「親です…ごめんなさい!親…です…!」
ひまわりが謝罪を口にした途端、頭からかかる負荷が消え失せた。
その勢いでひまわりは床に伏せ、乱れた髪の隙間から男を覗いた。
笑っている。
「はは、すまない!少し酔ってしまったようだ!このまま話を続けてもいいかな?」
男は暗に、床に伏せ続けろ、とひまわりに命じた。
この行動は、酒失ではない。奴隷としての立ち振る舞いを教える躾である。
奴隷にあるまじき、凛とした姿勢が気に入らなかった。それだけのために、ひまわりを痛めつけたのである。男は続ける。
「君は確かに僕より全てが劣るがね。君の歌は素晴らしいんだ!君は気がついていないかも知れないが…あれは大層金になる!」
こちらを見下して、周りをゆったりと歩く。ひまわりは、少しだけ顔を上げる。
「知っているかい?巷では偶像劇が流行っているんだ。」
偶像、という言葉にひまわりの体が反応する。
「若き才能を持った少年少女を裕福な爺婆が支援する。勿論、ただ若ければいいってもんじゃない。
同情を集める、それなりの経歴がないといけない。まさしく君みたいな。ね?
他人を支援するような馬鹿どもは、悲劇の少女を救う茶番に夢中になって、裏で我々が癒着している事に全く気が付かない。その支援は丸ごと僕のもの。」
男はそう言いながらしゃがみ、ひまわりの顔を覗き込み肩を掴んだ。
「元奴隷の歌姫…うん、うん、いいじゃないか!ただ紙を浪費する絵描きよりも、ただ破壊するだけの魔法よりもずっといい!コストカットだよ!!勿論、力になってくれるよね。」
彼の目が光った。
協力を仰ぐ姿勢。彼の手の甲に浮き出る血管から、それが仮面である事を物語っている。
ひまわりは、伏せていた体を起こして立ち上がり、そのまま木椅子へ座った。
「お断りします。」
「…………は?」
乱れた髪を整えると、男の顔が目に入った。苛立ちのような、驚きのような顔をしている。
「だから、お断りしますって。」
その瞬間、男の白い頬が吹き出した溶岩のように真っ赤に紅潮し、息を荒げ太い静脈が浮き上がる握り拳を、ひまわりの頬に叩きつけた。
男の荒い息が部屋中に響いている。
「ちっ、もういい…おい、命令だ。服を脱げ。」
ひまわりは、錆びた刃物のような鈍い光を目に入れるだけで、人形のように反応も示さなかった。
男はその態度に狼狽える。
「…つまんない。私はあなたの話を聞くためにここに来たのに、あなたは私を見ていない。
私を自分と照らし合わせて、足りない部分を嘲笑っているだけ。そんなもの、会話でも何でもない。」
南窓から、月光が差し込んでいる。
「ま、まて…なんで、命令を聞かない!?服を脱げ、服を脱げよ!?」
「…求めるべき協力を、歩むべき苦難を、あなたは何も指し示していない。それは、この世で最も愚かで、私が最も忌み嫌う事。あなた。私が人生で一番大切にしていることはなに、って聞きましたよね。」
ひまわりは木椅子から立ち上がり、男に忍び寄る。
男は腰を抜かし、床を張って後退った。
所詮は、契約による束縛。自分よりも圧倒的に弱い人間にしか、王として立ち振る舞えない小さな獣。
「そんな事、あんたなんかに教えるわけないでしょう?バーカ!」
ひまわりは、男の金的を的確に蹴り上げた。