Allegro accelerando
……そうですね、確かに私は『来客』が嫌いでは無い。
私は私の屋敷を訪れる人間を実に良く選んでいる。
約束がそこに無かったとしても――十年に一度の来訪だったとしても、毎日の日課だったとしてもです。
『私の屋敷を訪れる人間を私が厭う事は無い』。そうでない人間はそもそも最初から客では無いのだから当然です。
ええ、つまりは――今日であろうと、明日であろうと貴方ならば何時でも歓迎ですよ。キース。
貴方は今日はどうして――そう尋ねる事は愚問なのでしょうね。
……ああ、はい。分かっていますよ、ブルーノの紅茶が飲みたくなったから。貴方らしい理由ではある。
貴方の所の執事も悪いものは淹れないでしょうが――『当家』は紅茶には拘っていましてね、その辺りは御存知の通りです。
成る程、後はそうですね。退屈だったから……
え? 簡単に当てるとつまらない? 何時もの事ですからね、貴方の考える事は想像がつきますとも。
私は貴方のそういう奔放な所が嫌いでは無い。芸術家のミューズは多くの場合女性ですがね。流れる水のように留まらず、変化を恐れず、屈託無い破天荒を形にしたような貴方は私の中で『付き合う可能性の低い』人種だ。
……それを嫌に感じない理由が何処にあるのかは正直私自身にも察しかねる所はありますがね。
人間が自身というブラック・ボックスを完全に解明するのは――そう容易い仕事では無いのでしょうよ。
さて、キース。今日はどうしましょうか。ゆっくりとバカンスを過ごしますか。それとも――何なら一曲弾きましょうか。
……ん? 今日はそういう顔ではありませんね。ははあ、お喋りですか。
妙な事を尋ねますね、キース。私の『昔話』が聞きたいとは――いえ、誰にも最初はあったのですよ。
この私とて、最初から革醒の高みにいた訳では無い。
『死を最も上手く汚す』と呼ばれる私とて――『それ』に意味を感じなかった訳では無いのです。
いいえ、むしろ私はそれを良く知っていた。芸術家は数千年の昔からそれを一つのテーマにしていたでしょう。
かのミケランジェロが描いた『最後の審判』は死後分かたれるそれぞれの運命を――ああ、そういう顔をしないで下さい。
何も私は通り一遍の講義をしたい訳では無いのです。
重要なのはね、キース。この私が、ケイオス・“コンダクター”・カントーリオが『死に咽ぶ人の気持ちを誰よりも理解している』単純な事実ばかりなのですよ!
Allegro accelerando
何時の頃から『それ』を自覚していたのかは分からなかった。
さりとて、その『概念』は気付けば確かな形になっていた。
人並みそれ相応の少年時代を過ごし、ウィーンで当然のように音楽に魅せられて。古典派よりロマン派へ、世界が美しく調和する黄金の時代に生を受けた幸運を『神』に感謝した。ケイオス・カントーリオという青年は正しくモーツァルトを愛し、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに影響を受けた人間の一人になっていた。
何時の頃から『それ』を自覚していたのかは分からなかった。
さりとて、その『概念』は気付けば『概念』以上の何かに姿を変えていた。
若くして才能を見出され、歩くよりは随分と速いスピードで移り変わる世界に身を置いて。『音楽』という神の与え給うた――或いは悪魔が囁いた滾るような情熱に、その潮流に身を任せたケイオスは何時からか『それ』に囚われるようになっていたのだ。
「……お久し振りです。お加減はどうですか?」
「いいように見えるか? この節穴デコ介!」
フィレンツェの小さなアパートメントに足を踏み入れた彼は力強く――何処か滑稽な笑顔を見せた男に小さな苦笑いを浮かべていた。
「貴方らしい。豪快奔放たるその佇まい、一先ずはそのままであった事を嬉しく思いますよ」
二月の寒い日。窓から見下ろす街並みには薄く白いヴェールが掛かっていた。ケイオスは少しベージュ色のコートを壁掛けに掛け、帽子を小さなテーブルの上に置き、乱れ無く整えられた髪を少し弄る仕草をした。
「お前こそ、格好つけの性格は相変わらずのようじゃねぇか」
「――お生憎様、変えようと思って変えられる性質では無いのです」
ケイオスはベッドに横たわったままそんな風に言葉を投げた男に肩を竦めて答えた。
二人が会うのはおよそ三年振りの話であった。十代から二十代のはじめまで――若い頃は毎日会っていた時期もある。
「てっきり、忙しい身の上かと思ったんだがな」
「……ええ、ハッキリ言えば私は忙しい人間ですよ」
「界隈じゃ――すっかりお前の名前を聞く事が増えた。貴族様が召し抱えたいという話やら。
何処の劇場で公演を大成功させたとか――こりゃあ、俺が誇っていい所なのか。嘆いておく所なのか。
どうも皆目見当もつかねぇのが厄介だが、よ」
三十を半ばを過ぎ、四十が届こうとする頃には――『音楽好きな青年』は音楽界で頭角を現す新進気鋭の指揮者となっていた。目の前で『皮肉めいた祝辞』を述べる病床の男はその彼を薫陶した師匠である。六十を過ぎ、意気軒昂な彼は「俺こそ歴史に残る大交響曲を書く」と口にするのが口癖であった。酒を嗜み、大食で、遊び人。神経質で潔癖症の弟子とは何もかもが違う人物ではあったのだが。『不思議とウマが合った』二人はケイオスが赫々とスポットライトを浴び始めてからも付き合いの続く仲であった。
「……私は忙しい人間ですが、便りを受けて知らぬ顔をする程に情の無い人間ではありません。
出来れば呼び出しは『大交響曲の完成披露』であって欲しかった――それは事実ではありますがね」
『若手音楽家』として脚光を浴びるケイオスの元に届いた便りは見慣れた汚い字で書かれた近況報告であった。
殺しても死なないと――少なくとも彼自身はそう思っていた『師匠』の手紙には予想外の事実が綴られていたのである。『情の無い人間ではない』と自身を称した彼に急遽のフィレンツェ行きを決意させる程度には。
「……しかし、思ったより元気で安心しましたよ。貴方が『会いたい』というからにはどれ程の事かと思っていましたが」
『師匠』の声は全く沈んだ所が無い。病気と聞き駆けつけてみたケイオスとしては拍子抜けな程に。
力強く、『殺しても死なない師匠』の姿は遠い日のままで。少なからず彼を安心させていた。
「はは、悪いな」
「いいえ。折角だ。こちらでバカンスを洒落込むのも悪くは無い。
貴方の酒癖の悪さも時間を置けば恋しくなってくるものなのですね。これは意外な発見です」
打てば響く互いのやり取りは長い時間を横たえたとしても変わらないものだった。ベッドに横たわったままの『師匠』から目を切ったケイオスは木の窓枠に指で触れ、懐かしいフィレンツェの街並みを見下ろした。人生の中で極めて濃密な時間を過ごした場所である。やや感傷的になった彼はふと呟く。
「どうですか、そのお加減ならば――少し外へ出ませんか? 此方のリストランテの味もいい加減恋しい」
「は、は。すまんな」
病気という話さえ忘れさせた『師匠』は思わず漏れたケイオスからの提案にしかし笑って首を振った。
「生憎と、もう殆ど動けんのよ。医者にも匙を投げられた。もって、あと一月か二月か――」
「――――」
息を呑んだケイオスは『師匠』の顔を凝視した。手紙には今生の別れを感じさせる雰囲気は無かった。
ケイオスがこの日訪れたのも言ってしまえば『気が向いたから』程度の話である。『師匠』の調子はあくまで軽く、その様子からは迫る死の影はまるで見えていない。しかし彼は明確に今そこにある『死』を口にしたのだ。
「……聞いていませんよ」
「言ってねぇからよ」
「何故……」
「何故って言われてもな、俺もいい加減爺だからよ。死ぬ時は死ぬ」
ケイオスは自身の問い掛けが些か間抜けなものになっている事を遅ればせながら自覚した。厚曇りの雪の日に薄暗い室内を照らすのは窓から差し込む少しの光と小さなランプの炎だけである。言われなければ気付かなかったが――『師匠』の顔色はとても悪い。口調がかくしゃくとしたものであるのは彼が気を張り詰めていたからだったのだろうか――
「俺はよ、ケイオス。『大交響曲を書く』んだ」
噛み締めるように言った『師匠』の声に我に返ったケイオスは彼が何を言わんとしているのかを理解出来なかった。今でもペンを握る事位は出来るのだろうか。さりとて残された時間は長くは無い。十年をかけても完成しなかった『至高』を求めるに残された時計の砂が余りにも心許ない。
「俺は、書きてぇんだ」
「……何と言っていいか。私に協力出来る事があれば良いのですが」
「ねぇよ。大指揮者様。お前が手伝ったら、そりゃあお前の曲になる」
ケイオスの才には遠く及ばず、しかしてケイオスという宝石の原石を磨き上げるには十分だった名も残らぬ一人の音楽家は『事実』を端的に口にした。自分を――『事実より随分消極的に呼んだ師匠』の真意が理解出来ず、その眉をぴくりと動かしていた。
「ならば、何故」
「これから死ぬ人間に理屈を求めるんじゃねぇよ。だが――」
『師匠』は言葉を切って、それから続けた。
「だが――これから死ぬって思ったらよ、オマエの顔が浮かんだんだ。
たっぷりとまだ『時間』を持ってる、澄ました上出来な弟子の顔がよ。
俺の無くした全てを持ってる、オマエの顔が見たくなった。無性に。何を言ってやりたいのかも考えてなかったのにな」
「――――」
「俺は、今でも――嗚呼、俺はどうしたって、書きてぇんだよ!」
血を吐くように、怖気立つ程の執念で。
「何故、俺は死ぬ? オマエは何時死ぬ。なんでたかだか六十年と少しの時間しか、この俺には許されていなかったのか――」
此の世の全ての『生命』に嫉妬している。
齢三十五で死したモーツァルトは今際の時、何を思ったのだろう。口惜しくは無かったのだろうか。
「畜生めが……」
小さく漏れた師の悪罵と共に背筋を舐め上げるような感覚。
ケイオスの端正な顔が少し歪んだ。熱情は憎しみにも似て、愛情にも似ている。『何れ順番に訪れる』人生の黄昏を、厭うような男とは思って居なかった。自身には出来ない、強い生き方に憧れた所もあった。しかし、三年振りに見る『師匠』の顔は――先程のイメージを重く塗り替え、弱く滑稽なピエロのものでしかない。過ぎた時を認められず、突きつけられた終わりに泣き叫びたいような――子供のものに違いない。
「なぁ、ケイオスよ。何で人は死ぬ? 真っ白なノートに何を描いてもいいって渡されて……
好きに描いて描き続けてよ。漸く描きたいものが決まったら、最後のページってのは余りに無慈悲過ぎるとは思えんか?」
人生は長いようで短く、短いようで長い。
老音楽家が吐露する呪いは――芸術家のみならぬ多くの人間が今わの際に望む最後にして最大、原初の渇望に違いあるまい。決して不可逆なる時を巻き戻し、神のみに許された生命の領域を覆す事は出来ないのに。分かっていても人はそれを繰り返すのだ。
「……『曲』は書き続けているのですね」
答えない『師匠』にケイオスは小さく息を吐いた。
病床の『師匠』の周りには何枚もの五線紙が散っていた。生きた証を残したいと――或いは迫る死の影を追い払わんとする人間の強い情念が歪んだ音符から伝わってくる。それは美しくもおぞましい『余りにも正しき不協和音』そのものである。
「俺は、仕上げてみせるぞ。ケイオス。最高の傑作を仕上げて、オマエを指差して笑ってやる。
きっと聞けよ、ケイオス。そうしたら俺の作品はオマエにだけ指揮をさせてやるんだ。いいな、ケイオス。
約束しろ、俺の魂が不滅である事を――永遠にこの『曲』と共に在り続ける事を!」
「約束しますよ」とそう呟いた弟子の顔が憐憫に満ちていた事に『師匠』は最後まで気付かなかった。
心から彼に同情した『音楽家』の顔に何処か冷ややかなものが混ざった理由は、彼に迫った『死』が理由では無い。『死』に惑い、畏れ、たっぷりの時間を持ち合わせる自分に嫉妬する『師匠』の無様さが理由でも無い。
「――約束、しますよ」
それは――
――死を恐れぬ人間等居ない。
どれ程に満たされていても、人間の欲に限度等は無いのですから。
『彼』はもっと書きたいと望み、私も『限り在る永遠』を手に入れなかったとしたならば――同じ事を思ったでしょう。
……ええ、しかし予想外でしたよ。本当に強い方だった。私が『尊敬』する数少ない人間でした。
少なからず、あの姿に衝撃的だったのは事実です。二百年近い時間が過ぎても今も鮮明に覚えている程度には、ね。
ああ、曲ですか? 『大交響曲』。前のめりに倒れるようにして――ペンを握ったまま死んでいたそうです。床に散りばめられた『音楽達』は彼のレクイエムのようだったとも。彼は遂げたのですよ。死に惑い、怯えながら。魂を震わせ、最後の音を奏で切った。私に約束を迫った愚かな老人は――妄執の果てに一曲を生み出したのです。
……曲ですか。ええ、それは酷いものでしたとも。
何ら輝きが無い凡庸な音の集まり。煌く才気も無く、怖気立つ執念も伝わらぬ退屈な曲。
如何な指揮者とオーケストラがその力を尽くそうとも、聴衆の万雷を引き出すには程遠い。枯れた森のようでした。
私を師事し、私に薫陶を与えた彼が最後に残した――徒花です。彼の魂は徒花と共に咲き続けたかったのでしょうか?
……退屈な昔話だったでしょう。しかし、私が『死を誰よりも汚す』理由の一つにはなったかも知れません。『死』とは永遠の始まりではない。永遠の終わりなのです。同時に『死』それそのものには何の意味も無いのだ。
虎は死して皮を残し、人は事業のみによって後世にその名を残す。
何も感傷だけで『こうなった』訳ではありませんが。私は『死』という何の意味も無い無慈悲な絶対に芸術性を見出してしまった。
夜の闇を引き裂く雷鳴の如く、あの時の出来事は胸に確かな瑕を刻んだのです。
……ですから、大した話では無いと言ったでしょう?
しかし、久し振りにこの話をしたら、創作意欲が強くなった事は事実です。
その点においては良い聞き手足り得た貴方に感謝する事にしましょうか。
キース、お腹が空きませんか? ブルーノが料理を用意させている筈だ。魚もいいが、貴方はフィレ肉の方が好みでしょうね。
きっと、素晴らしいステーキとトスカーナの薫る芳醇な赤が貴方を歓迎してくれる事でしょう。
素敵なディナーになりますよ。ええ、ゆっくりと今夜を楽しもうではありませんか。
――退屈な、交響曲でも聴きながら。
悪名高い楽団のお人とFランサークルの良心。
ネクロマンサー好き好き。