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暗中

作者: 雉白書屋

 滴る水の音。暗闇の世界に波紋が広がる。

 耳を澄ませるとまた一つ、水滴が落ちた音がした。また一つ、また一つ、次いで全身の皮膚が粟立ち、不安感が彼を襲う。


 ――落ちる。 


 今、産み落とされようとする胎児。

 どこに? この世界に。そうだが違う。水。違う。便器の中だ。いやそれも違う。そこは


 ――地獄。


 そんな夢を見た。

 目を覚ました彼は体を起こし、顔を拭う。手が濡れたのは、涙していたからだろうか。 

 違う。彼が上を見上げると水滴が額に落ち、片目を閉じる。夢裏から抜け出し、徐々に冴えてきた頭。同時に増していく不快感。湿った床に横たわっていたせいで衣服が濡れていた。次いで、焦燥と不安感が込み上げる。


 ――ここはどこだ?


 知らない場所だった。暗く、壁も天井も床も石造りのようだ。灯りは壁に点々とある松明のみ。

 彼は考える。ここは地下なのだろうか。だとしたらなぜ自分はここに居るのか。自分……。


 ――俺は誰だ?


 わからない、わからない、わからない……。一先ず立ち上がり、額から髪、後頭部と撫でつけてみるも思い出せることは何もない。

 ただ、後頭部に触れた際、痛みと瘤のようなものを発見した。


 ――気絶……させられていたのか?


 そのせいで記憶を失った。そうだ。気絶させられた。だが誰に? 何のために? 誘拐? それこそ何のために?

 増水した川。行き場を見失った泥の濁流のような思考が打ち止めになったのは、暗闇から聞こえてきた声のせい。


『アーラッムフォーアーゲン』

『イスタームロークスアーゲン』


 呪文のようであった。それが何のかは、わかるはずもなかったが、いい予感はしなかった。

 やや反響しているので数は確かではないが一人ではないようだ。そしてその声の主たちはこちらに向かって来ているようであった。

 彼は壁に手をつき、その声から遠ざかろうと動き始めた。

 走りはしなかった。足音を立てたくはなかった。だが、心臓の動悸と荒い呼吸は姿なき何者かに、もうすでに捉えられているのではと思った。ゆえに自然と足は早まった。


 ――出口はどこだ。


 彼は、はたと足を止めた。窓、と呼ぶには心許ない四角い穴から差し込まれた月の光は幾分か彼の心を穏やかにし、そしてその穴に駆け寄った彼が見上げた月は彼の目を輝かせた。まるで生まれてはじめて美しいものを見たように。

 手が届きそうなほど近い。そんな陳腐な言い回しが彼の頭に浮かんだのは今夜の月が普段よりも大きいからだけではなく


 ――ここは、塔なのか。


 彼は穴から下を見下ろし、次いで辺りを見回した。

 背の低い草木があるばかりで町や民家は見えない。郊外に建てられた石造りの塔といったところか。下に大きな水溜まりがある。先刻まで雨が降っていたのだろうか。草木に艶があるように見える。

 それにしても高い。水溜まりに自分の姿が映らない。ここから降りるのは無理だ。高すぎる。ゆえに人を閉じ込めておくには、おあつらえ向きだ。何のために? そんなことはもうわかっている。


『ラームッフヒッヒアーゲン!』

『ローバルククサルバン!』

『ザ-スアググウスラウフヘイゲン!』


 怪しげな呪文は近づくにつれ、大きさと力強さと数、さらにその姿。手にある鋭利な刃物までを想像させた。それはただの想像ではなく、もしかしたら実際、一度目にしたのかもしれない。わからない。刺されたことはないはずだが、その痛みまで現れ始めた。

 そして、振るい迫る松明の灯りが影としてその手に持つナイフや斧の形を、その者たちの暴力性を顕現させた。

 彼は動けずにいた。自分が何者なのか、何のためにここにいるのか理解したから。そしてあわよくば、それが間違いであると思いたかったから。だが、現実は差し迫る。無情にも。


 ――俺は生贄。

 

「……見つけたぞ。さぁ、来るんだ」


 ――奴らは悪魔崇拝者。


「どうせなら女が良かったな」


 ――ここは地獄。


「どうでもいいことだ。さあ、命令だ。我らのためにその身を――」


 ――だが、俺は選べる。


 一矢報いる。その一心というわけでもない。

 彼は飛んだ。後ろ向きにその狭い窓から。そして落ちて、堕ちた。

 水溜まりは彼を包みきれず、慎ましやかな水しぶきを上げた。飛散した脳漿と流れ出た血が水と混じり合い、彼の周りに意味のない模様を描いた。顔に降りかかった水に紛れ、月を映すその瞳から涙が流れ、頬を伝った。

 便器に産み落とされた赤子は母親の顔を見れたのだろうか。

 ふとそんなことを思ったが、蓋をするように彼の視界は閉ざされ、闇に覆われた。



「……なぜ奴は命令を聞かなかった?」

「わからん。言い終わる前に飛んだからかもしれん」

「何とも間抜けな……」

「やはり順番がまずかったのだ」


「一つ目に人間に化けさせ」

「二つ目に記憶を消し」

「最後の願いで我々に服従を。しかし、記憶を失くしているから願いも何もなかったのでは」


「ではどうしようか。自分が悪魔であることを思い出させずに、我々の望むままに願いを叶えさせるには」

「お前は魔法使いだ、とか?」

「いや、そもそも悪魔の力を使わせることができるのか?」

「わからんが、また呼び出すしかあるまい。今度は逃げ出されんようにな」


 彼は僅かな間、夢を見た。陽だまりの中、母に抱かれ優しい歌を聴き、ふたり笑う。

 次、生まれ変わるならどこか優しい母のもとで。彼はそう願った。

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