前編
幽霊の存在なんて信じていなかった。
ごく普通の少年というには、少しばかりひねくれていたギルバート少年にとって信ずるに値しない存在であった。
だから、はじめて辞令を見たときは、巫山戯ているのかと憤ったものだ。
人事に直談判をしたが決定は変わらず不貞腐れて初出勤をしたことは、すっかり笑い話となっている。
ただ、幽霊課になじんだからと言って簡単には超えられない壁があった。
除霊だ。
まったく縁も所縁もない生活を送っていたので仕方がないかもしれないが、力も知識も経験もガリオンの足元にも及ばない。
それが歯がゆくてならない。
大振りで放たれた霊力を避けるではなく、霊力を纏った剣で切り裂いた。
真っ二つに分かれた霊力は後ろのガリオンに当たる前に空中に霧散していく。
ギルバートの役目は陽動とガリオンの護り。
霊力が高いこの霊に留めをさすのは今のギルバートには少し荷が重い。
ガリオンの霊力が高まっているのを肌で感じる。
際限なく高まっていく霊力は、清涼な空気をギルバートの周りに運んできた。
相対している幽霊はほとんど力を残していないのか、悔しそうにこちらを睨んでくる。
「下だ、ギルバート!」
鋭い声がギルバートの体を宙に導いた。
刹那、ギルバートが立っていた場所が崩れ落ちる。
深さは2メートルと少し。けがはしないだろうが、この状況で落ちてしまったら不利になることは間違いないだろう。
風の魔法を使い、落下速度を緩和し降り立つ場所を探す。
一呼吸の間、幽霊からギルバートの視線が外れてしまった。
ニタリと幽霊が笑みを浮かべたのを視認できたガリオンは、嫌な予感に従い、ギルバートに簡易な結界を張り、一方で準備ができていた術を幽霊に向かって放った。
幽霊が放った霊力とガリオンが放った術が交差する。
霊力はガリオンの結界により大幅に威力は下がったものの、ギルバートを地面に弾き飛ばした。
そしてもう一方の術は、予定通り幽霊の除霊を遂行して消えた。
「おい、大丈夫か」
「ええ、なんとか…」
今日も今日とてガリオンに守ってもらってしまった。
瓦礫に体をつぶされている重さとは別に、心がずっしりと重くなる感覚を覚えた。
派手に吹き飛ばされたギルバートを瓦礫のなかから引き揚げながら、ガリオンは呆れたように目を細めた。
「あれだけ吹き飛ばされていて無傷とか、驚くほど頑丈だな」
そういうガリオンは少し埃をかぶったくらいで済んでそうだ。
経験の差、実力の差を思い知らされるばかりである。
知らず厳しい顔をしていたのか、慰められるように頭にポンと手のぬくもりを感じた。
「まあ、焦るなよ」
経験は直ぐに身につくものではない。
わかってはいるが、今まで上手くできなかったことが少ないギルバートにとって、ガリオンに尻拭いさせている今の状況が、ひどくもどかしい。
自身のプライドと現実の差異に歯噛みするギルバートに、ガリオンは苦笑をもらした。
◇◆◇◆
日常に変化が訪れるのは、いつだって唐突だ。
「今日から暫く、ギルバートさんには2班に所属してもらいます」
朝のミーティングで告げられた言葉に、ギルバートは目を白黒させた。
「なんでいきなり…」
「ガリオン係長が暫く別件で一人行動をすることになりましたので」
幽霊課がざわめいた。
たしかに、ワーカホリック気味の彼が仕事に遅れてくるとは珍しいとは思っていたが。
必要事項を告げたオリバーは、苛立ちを隠すように首を一振りした。
なんせ、オリバーとて昨日唐突に告げられた事であり、適任はガリオン以上にいなかったと思う。
幽霊課を見下しているとしか思えない指示をした支援部長のしかめっ面を思い出しながら、オリバーは拳を握りしめた。
「とりあえず、ガリオン係長が戻るまで、みんなで力を合わせましょう」
そして思い知らせてやるのです。幽霊課の力を。
にっこりと笑ったオリバーから漂う謎の圧力にのまれたように、ギルバートたちは首を縦にふった。
こうして爆弾発言のあとはつつがなくミーティングは終わった。
ほっと肩の力をぬくと、普段ならミーティングが終わると早々に現場に向かう人物が、ギルバートに体を向けた。
「ギルバートと一緒なのは、久しぶりだね」
隠やかな声で言葉を紡いだのは、大きな丸眼鏡をかけた小柄な少女だった。
幼さの残るパーツに、触れたら折れそうな軟らかそうな骨格。どれをとっても10代前半の少女だ。いや、その綺麗に整った顔立ちを含めると人形が動いているようにしか見えない。
そんな彼女は、実年齢がギルバートより上かつ幽霊課歴も長い猛者なのだが。
「メイリンさん、よろしくお願いします」
彼女の名前を呼ぶと、人形のような容貌に表情が宿った。
幼い弟を見守るかのような優しい表情に、ギルバートは思わず照れ臭くなって頬をかいた。
「よろしくね、ギルバート。…そう気を落とすことはないわ。彼はあなたが頼りなくて置いていったのとは違うのだから」
眼鏡の奥で、何色にでも見える不思議な色合いの瞳が輝いた。
久しぶりで感覚が無くなっていたのだが、この瞳を前に隠し事は何もできないのだった。
ギルバートはそう思い出して苦笑を漏らした。
「わかってます。突然の案件だったんでしょう」
「その割に不貞腐れてるわね」
コロコロと楽しそうに笑うメイリンの声が、あっさりとギルバートの奥底の心情を言い当てる。
図星を突かれたギルバートはグッと言葉を詰まらせたあと、観念して白状することにした。
「まあ、正直置いて行かれたとは思っています」
「きっと、あの人は他の誰かがペアでも一緒に行かなかったでしょうね。今回は手強そうだもの」
あの人は、自分の傍にいる人が傷つくのを何より嫌うから。
幽霊課の中で誰より力を持ち、知識も深く、経験がある人だ。
信頼がないわけではないのだろうが、難しい場面はどうしても置いていかれてしまう。
悔しいと最近の口癖になりつつ言葉を喉の奥で転がすギルバートを、メイリンは微笑ましく見守っていた。
和やかに話をしている二人の耳に、割り込むようにコツコツという硬い足音が聞こえた。
メイリンの真後ろで止まった足音と同時に、女性にしては低めの艶やかな声がギルバートに向けられた。
「新人くんがどれだけ成長しているのか、楽しみだね」
ギルバートが視線を向けると、彼女は鮮やかな紅色の唇で三日月を描いた。
彼女を一言で言い表すとしたら、褐色の肌に金色の瞳を持つ異国の美女だろう。
深い肌の色とは対象的な銀色の髪もコントラストを深めている。ギルドの制服を身に着けているものの、耳や首にかけられた大振りのアクセサリーが異国情緒を強めており、ガリオンとは違った意味で、近づきがたい雰囲気を持っていた。
ただ、数年も付き合いもあるとその美貌に慣れる上に、彼女は大変気さくな性格をしているので、課内で彼女は頼れる姉御という立ち位置であり、ギルバートにとっても例外ではない。
「よろしくお願いします。リリア班長」
「班長なんて。堅苦しい呼び方じゃないか」
「冗談です、リリアさん。そして、俺ももう新人といわれる年数ではないですよ」
微笑んで返事をしたギルバートに満足そうに目を細めたリリアは、手に持っていた上着を羽織った。
「とりあえず、現場に行きがてら打ち合わせをしようか。話すより見た方のがはやいだろう」
現場はギルドから少し離れた、商人の屋敷だった。
「呪いの指輪と呼ばれているのが、今回のあたしたちのターゲットだよ」
呪いとは、強い想いが霊力を帯びて、人に悪影響を与える事象のことをさす。想いが物を媒体として成立することが多いためか、そこに幽霊が関わらない事も珍しくは無い。
想いという不確定な起原をもつ呪いは、絡まった糸のように複雑で厄介だ。
だから、年数の浅いギルバートが呪いに関わるのは、これが初めてのことである。
「まあ、呪いは力の源である想いが何かということが解れば、あとは簡単だからね。むしろ、呪いに惹かれて吸い寄せられる他の霊の対処のほうが難しいくらいだ」
そう言えるのは、リリアが呪い特化の術師であるからだろう。
「呪いは扱いさえ間違えなければ、人に幸運をもたらす。だから、一概には解呪しまえばいいというものじゃない」
それ故、リリアの生まれ故郷では、呪いを操れる呪術師が強い権力を持っていた。
呪術師は、豊かなで幸多き生活をもたらすために力を振るうべし。
飽き飽きするくらい刷り込まれた言葉を胸の内で反芻しながら、リリアは肩をすくめた。
「今回の指輪は、すでに被害が出てしまっている」
幽霊のような実態のないものは、より強い霊力を纏った物質へと惹かれやすい。猫にとってのマタタビと同じだ。
そして引き寄せられた幽霊は、強い霊力を取り込み悪霊と化す。
「今回は祓い専門がいるからありがたいね。頼りにしているよ」
ギルバートは、一瞬、たじろいだ。自身の腕前でリリアとメイリンの期待に応えることができるのか。頭をよぎった弱音を振り払うかのように、首を大きく縦に振った。
依頼主はギルド近くに居住している、若い女性だった。
資料によると名前は、ラトナラだったか。
身の回りの異変の影響か、満足に寝られていないであろう眼の下にはくっきりと隈が刻まれ、向けられる視線は刺々しい。
「本当に解決していただけるのでしょうね」
「ええ、もちろん。我々にお任せください」
力強くうなずいたリリアの後ろを見て、刺々しいラトナラの視線に懐疑的な色が加わった。
「その小さな子もそうなのですか」
向けられる厳しい視線を意に介さず話題に挙げられたメイリンは小さく微笑んだ。
「部下のメイリンと申します。多少成長が遅いですが、これでも成人は超えておりますのでご安心ください。精一杯務めさせていただきます」
その言葉を聞いて少しバツが悪くなったのか、ラトナラは視線を横に逸らした。
すると必然的にその先にいる、ギルバートと目があうことになった。
ラトナラはその人物を視認すると動きを止め、みるみるうちに頬は紅く染めた。
先ほどまでの刺々しさはどこかに消え、乙女らしい愛らしさが顔が覗き、恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。
リリアとメイリンは呆れたようにギルバートを見た。
幽霊課の面々は慣れきっていて忘れていたのだが、ギルド随一いや下手したら王都随一の美形。
ガリオンとギルバートの1班が交渉時に苦労しないとは聞いていたが、目の前で見て納得した。
そこからは非常にスムーズに話が進んだ。
具体的に現在の状況を教えてほしいとギルバートが頼めば、ラトナラが夢見心地な表情で頷き応接室に彼らを案内した。
「あれが見つかったのは、おばあ様の遺産を整理していた時のことでした」
皆が腰を落ち着けたのを確認すると、ラトナラはそう話し始めた。
◇◆◇◆
おばあ様が亡くなったのは、汗が滲む暑い日のことだった。
季節の変わり目で体調を崩していたのだが、それが悪化して眠るように息を引き取った。
涙はでなかった。
薄情な孫だとは思うが、家を別にしているおばあ様とは年に数回しか会わない間柄であったのだ。
顔を合わせればよくしてもらったが、それだけであった。
感覚的には近所の人なのだ。いなくなったのだという微かな寂しさはあるものの、悲しみには届かない。
だからか、葬式が終わると事務的に遺品整理を母とすることになった。
祖父は私が生まれる前に亡くなったので、一人暮らしにしては大きい家には、おばあ様と数人の使用人がいるだけだった。
その使用人達も、おばあ様が亡くなるともう歳だからと辞職してしまった。
だから、遺品の整理はお母さまを筆頭に私が担うことになった。
晩年はほとんど外に出なかったおばあ様は、最低限の持ち物しか残していなかった。
そこそこ栄えた商人の女主人だったとは思えないほどの少ない数の遺品に、残された私たちへの気遣いが透けて見えた。
単純作業の中に異質が混じったのは、遺品整理も終盤に差し掛かった頃だった。
それまではおばあ様が古くから愛用していたであろう装飾品の整理をしていたのだが、突然未開封の箱が出てきたのだ。
光沢のある上質なクリーム色の紙に包まれ、深い赤色のリボンでしっかりと結ばれたそれは、どこから見ても未開封のプレセントだった。
「どなたかへのプレゼントかしら」
「そうだとは思うけれど、宛先も書いていないから、どなたへの贈り物かわからないわね」
片手のひらに収まるほどの小さな箱を丁寧に見回した私はあることに気が付いた。
埃もついていない綺麗なリボンの結び目付近が鮮やかな赤色を纏っていることを。
よく見ると、箱を包んでいるクリーム色の用紙も本来の白を、紙の折り目からかすかにのぞかせているようだ。
すると、この贈り物は随分と長い間目的を果たせずにいるらしい。
「申し訳ないけれど、開封して中身を確認しましょう。そうしないとどうすればいいのか、見当もつかないじゃない」
そう言ったお母さまに導かれるまま、私はそっとリボンの端を引っ張った。
なんの抵抗もなくほどけたリボンと、接着剤が劣化して簡単に開けることができた包装紙を脱いででてきたのは小さな箱だった。
それも質素ながらもいい素材を使っていることがわかる指輪ケースだ。
その手触りを堪能しながら中身を確認すると出てきたのはルビーの指輪。
そう、このルビーの指輪こそが後の呪いの指輪である。
丁寧に磨かれたシルバーの台座に収まっているルビーはさほど大きくはないが、惹き込まれるような妖艶な赤色を纏っていた。
◇◆◇◆
「異変を感じたのは発見したその日の晩でした。夢の中に見知らぬ男性が現れたのです」
何かを訴えかけるように口を動かす彼の声は、ラトナラに届くことはなかった。
それでも夜な夜な何かを訴えかけるように男はラトナラの夢に現れた。
それだけではない。
昼間も異変が起き始めた。
誰もいない部屋のドアは開き、棚に収まっていたものは大きな音をたてて転がり落ちた。
「なぜそれらの現象が、この指輪の呪いだと思ったのですか」
「それが起こるのが必ずこの指輪の近くだからです」
だれもいない部屋には指輪が置いてあった。
大きな音を立てて中の物を吐き出した棚には、指輪が保管のために入れられていた。
そして、夢に現れる男性は必ずルビーの指輪を持っていた。
話し終わって気が軽くなったのか、当初より肩の力が抜けたような顔をしたラトナラは、呼び鈴を鳴らした。現れた使用人の手には指輪ケースが収められてた。
少し顔を蒼くした使用人は、それをギルバートとラトナラを隔てる机の中央に置くと、そそくさと退室した。
「中身を拝見しても」
「どうぞ」
リリアがラトナラに断って指輪ケースを開けるのを、ギルバートとメイリンが両脇から覗き込むようにして見守った。あっけなく開いた指輪ケーズの中に収められた件の指輪は、派手な装飾はなく、気品を感じるシンプルなデザインをしていた。
現在引き寄せている霊はいないのか、ギルバートの目には少し霊力を纏っただけの指輪に見える。
「これは、結婚指輪だったのね」
メイリンがぽつりと言葉を漏らした。
すでに何かを視ているのか、彼女の視線は指輪本体を視ておらず、何かを追うように視線を彷徨わせていた。
その異様な様子に、ラトナラは息を飲んで顔を白くしている。
「お祖母さんにプロポーズしている…いや、できなかったのかしら。それにしては親密な関係みたいね」
ピンクから赤、青へとこの短時間でも見える印象がコロコロ変わるメイリンの瞳が、ピタリと止まった。
「そう、そういうこと」
メイリンは納得したように頷くと、ようやく視線を戻した。
「これは、お祖母さんの昔の恋人が、お祖母さんに送るために買った指輪だったのよ」