人魚の涙は湖に消える
男は一人、スマートフォンを片手に歩いていた。
行き先は、彼の住む港町から一番近い、丘の上の湖。
そこにいるであろう者に問うために。
「ご結婚おめでとうございます。貴方が蔑ろにした人魚は、気が触れたので丘に登ります」
この文章が届いたのは前日の晩。送りつけてきたのは、男と付き合っている人魚、瑞穂だった。
男の住む港町では、人間に混じって人魚やその他のあやかしが平和に暮らしていた。
それでも、人魚が丘に登ったなんて話はそうそう聞かない。
当然ながら、人魚は海中に住んでいるのだから。
男はかなりの知恵者で、人やあやかしの相談に乗ってやっていた。それをたまたま瑞穂が手伝ったのがきっかけで、瑞穂の方から告白した。
恋愛経験なぞなかったが、それでもいいと瑞穂が言うので、男は付き合うことに承諾した。
二人は離れて暮らしていた。
お互いに口下手なのが災いし、最近はソーシャルネットワークサービス『ぱやったー』で書き込みをし合う程度の関係になってしまっていた。
男は瑞穂のことをよく理解したいと思っていた。
けれど、『ぱやったー』を見る限り、瑞穂は人の書き込みに『いいね』をつけるばかりだった。
自分の主張や知見らしき書き込みをすることは、ついぞなかった。
それが男にとっては不満だった。
異種族同士の結婚、いわゆる異類婚姻譚は、その殆どが悲しい結末を迎える。
そろそろ潮時かもしれないとぼんやり考えていたら、いつのまにか湖に着いていた。
湖のほとりには背の高い茂みがあった。
その茂みの隙間で、長い銀髪がなびく。
男は物音を立てないように近づき、茂みを覗いた。
やはり瑞穂だ。上半身は裾の長い防水パーカーを羽織り、魚の下半身は湖に浸して座っている。
俯いてスマートフォンをいじっているため、美しい顔は横しか見えない。
気のせいか、やつれているようにも見えた。
「どうして丘に登ったんだい」
声をかけると、ようやく瑞穂は顔を上げた。
やはり元気がない。
目の下のくまが痛々しかった。
「先祖代々に伝わる秘薬で、一時的に人間になりました。あとは自力で歩いてきたのです」
男はきゅっと眉をひそめる。その秘薬は副作用が強く、余程のことがなければ使わないと聞いたことがある。
「そうじゃないよ。訳が知りたいんだ」
そう言い、男はスマートフォンの画面を見せる。瑞穂はそれを一瞥し、顔を歪めた。
「わからないのですか」
残念ながら、全くわからない。
港町の皆から相談されることも多く、知恵者とまで呼ばれている男にだって、わからないことはある。
というか、今の瑞穂の気持ちがわかる者がいたら、お目にかかりたいものだ。
「ごめんよ。全くわからないんだ。君がどうしてそんな誤解をしてしまったのか」
「……誤解?」
瑞穂の目に涙が浮かぶ。
「これが誤解であるものですか。この浮気者!」
美しい怒声が、静かな丘に響き渡った。
「後生だから、怒らないでほしい。怒りは冷静さを失わせる。僕は話し合いがしたくて来たんだ。なぜ、僕が浮気していると?」
努めて冷静に、男は問う。
「ご自分の『ぱやったー』をご覧ください。それでわからないとは言わせません」
対する瑞穂の言葉は、やはり要領を得ない。
『ぱやったー』には一日に二、三回書き込むが、特に誤解を招く様なことは書いていない。
そもそも、瑞穂は率先して『いいね』をつけていた筈だ。
……いや、昨日はつけていただろうか。
男は自分の発言履歴を確認する。
瑞穂が『いいね』をつけなくなったのは、いつだ?
その直後の呟きが原因ということか?
「『昨日の相談は難しいものでした。無事に解決できて本当によかった』、この書き込みが問題なのかい?」
男は辛抱強く問う。
対して瑞穂は、はらはらと涙を流し、男を睨むばかり。
何も答えたくないと言いたげなその態度に、男も少しずつイライラし始めた。
「瑞穂、お願いだからきちんと説明してくれ。何が何だかわからないよ」
「……そうやって、貴方は私を見下すのですね」
男は混乱した。
何故そういう話になるのだ?
そう問いただしたかったが、それは無駄なように思えた。
「いいかい。君は何か勘違いしている。君を見下したことは一度だってないよ」
「以前おっしゃっていました。君のつぶやきは面白みがないと」
「それは事実だろう。『ぱやったー』での反応は『いいね』ばかり。つぶやくのはありきたりな事ばかりじゃないか」
「ええ、ええ。私は気の利いたことも言えない愚か者です。だからって、遠距離恋愛なのをいいことに浮気をなさるとは、あんまりです」
「そういう執念深いのも苦手だ。前から気になっていたが、君には少し怖いところがある。そういうのは、今後の人付き合いのためにも直した方がいい」
言い合いの流れでつい、日頃の不満を口走ってしまった。
しまったと唇を噛むが、もう遅い。
瑞穂はわなわなと肩を震わせる。
真っ赤な顔がみるみる青くなっていく。
「あなたはなんて自分勝手……! もういいです、二度と来ないでくださいませ!」
やはり、火に油を注いだか。
いや、しかし、自分は歩み寄ろうと試みた。
それをこんなにも拒むのだから、もう言の葉を交わす余地はない。
「君がメールをよこすから、様子を見にきたんだが。そういうことならもう来ない」
男はくるりと踵を返す。
はっと息を呑む音がしたが、男は振り返らなかった。
「……どこへなりと」
「あぁ、そうする」
男は歩き出した。
‡
(頑固者め、ひとの気も知らないで)
男は珍しく怒っていた。
他人の喧嘩を仲裁したことはある。
けれど、いざ当事者になってみると、怒りがおさまらないものだ。
怒り慣れていない男は、すぐに疲労感を覚えた。
(はぁ、疲れた。休もう)
丘を下りる途中の茶屋で、茶を一口飲む。
眉間に皺が寄るのは、茶が苦いせいだけではなかった。
無駄だと思いながらも、自分の『ぱやったー』の履歴を見返してみる。
やはり、思い当たる書き込みはしていない。
(なぜ、浮気してるって思ったんだ? 当然浮気なんてしてないし、疑われるようなことも書いてないはずなんだが)
一通り書き込みを確認し終え、トップ画面に戻す。
そして、男はようやく気がついた。
「……あ!」
思わず立ち上がっていた。
後ろに飛んだ椅子が、大きな音を立てる。
お金をテーブルに叩きつけ、男は店を飛び出した。
‡
男が再び湖に着いた時には、もう夕暮れになっていた。
さっきの場所に瑞穂の姿はない。
湖の周りをぐるっと走るが、見当たらない。
少し考えて、男は茂みの中をしらみ潰しに探し始める。
さっき瑞穂がいた場所の近くの茂みに、瑞穂の防水パーカーが畳んで置いてあった。
ここから湖に潜ったに違いない。
少し迷ったが、男はパンツ一丁になって湖に飛び込んだ。
派手な音がしたが、男は構わず潜水する。
水は澄んでいるが、水底は暗い。
よくよく目を凝らして底を探すと、間もなく驚いた顔の瑞穂と目が合った。
瑞穂が水上へ上がる気配を見てとり、男も水面へ上がる。
「ぷはぁっ! 泳いだのは何年振りだろう」
男に続き、瑞穂も顔を出す。
何と声をかけるべきなのか、迷っている顔だった。
「少しだけ、岸で話そうよ」
瑞穂の手を掴んで、男は言う。
それで瑞穂は、素直に頷いた。
さっき言い合った水辺まで泳ぎ、二人並んで腰かける。
「ごめんね、驚かせたよね」
「そんなことより、濡れたままでは風邪をひいてしまいます」
「そうだね。焚き火をしてもいいかな?」
「ええ、ぜひそうしてください」
さっと火をおこし、男はその焚き火に大きな背中を向ける。
人魚である瑞穂は火が苦手だ。瑞穂に焚き火が見えないようにする意味もあった。
「君が誤解した原因、やっと分かったよ」
男は笑顔で自分のスマートフォンを見せた。
『ぱやったー』のトップ画面。
そのヘッダー画像に映り込んでいた女性を指差すと、瑞穂は項垂れた。
「この画像に写ってる人はね、僕が仕事で大変お世話になっている人魚様なんだ。遠い国の生まれでね。外見が幼く見えるけれど、もう80年は生きている。恋愛感情どころか、向こうからは孫扱いされるような間柄さ。写真に写り込んだのはたまたまで、これしか綺麗に撮れたものがなかっただけなんだよ」
そう言って、男は画像の左半分を指差す。
そこには水色のお守りが写っていた。
瑞穂が自らの鱗を剥がして拵えた、世界に一つだけのお守りだった。
「あ、あぁ……」
「ごめんね、瑞穂。僕の落ち度だった。君に貰ったのが嬉しくて、周りに気を配っていなかったんだ」
男は瑞穂の肩に手を置く。
瑞穂は顔を手で覆い、わっと泣き出した。
「ごめ、ごめんなさい……私こそ、よく確かめもせずに」
「誤解だってわかってくれれば、それでいいんだ。謝らなくていい」
瑞穂の顔を自分の胸に埋めるように抱き寄せる。
彼女のすすり泣きと焚き火のはぜる音だけが、日の落ちかけた丘を流れていった。
‡
瑞穂が泣き止んだ頃には、焚き火の火もすっかり小さくなっていた。
東の空はすっかり暗く、星が三つ輝いていた。
「私……山を、下ります」
「良かった。じゃあ、背中につかまって」
服を着終わった男は、しゃがんで背中を瑞穂に向ける。
その意味するところに気がつくと、瑞穂は耳まで真っ赤になった。
「いえ、それはその、あまりに申し訳ないので」
「人間化の秘薬は、連続して飲むものじゃないよ。私が背負うから、早く下りよう。日が落ちきってしまうよ」
男に急かされるまま、瑞穂は男の背中に負ぶわれた。
「あの……重たくありませんか?」
「ふふ。大丈夫だよ」
「あっ笑った!」
「悪かった。悪かったから、ヒレをばたつかせるのは止めてくれ。落としてしまうから、ちゃんと私につかまって」
「あ、はい……」
沈みゆく日を背に、二人はゆっくり丘を下りる。
頭上の星の数が一つ、また一つと増えていく。
港町に着く頃には日が落ちてしまっているだろうが、不思議と、焦りはなかった。
背中で大人しく縮こまっている人魚を横目に、男は思う。
(はて。頑固者と一度は見限ったが、僕にも情というものがあったのだろうか)
自ら出したその問いは、男にとってひどく難しいものだった。
最後までお読みいただき、まことにありがとうございます。
現代に近い環境での異類婚姻譚が書きたい! という一念で書き始めた短編になります。
恋愛というジャンルは奥深いものですね。男女の心の機微は大変難しいと感じました。
初めて書いたので、セオリーに沿ってない部分などもあるかと思いますが、温かい目で楽しんでいただけましたら幸いです。