16.進退相談
「おはよう」
挨拶しながら清香が事務所の執務室に入ってきた。
「おはようございます」
そこにいた人物が挨拶を返す。その人物は言うまでもなく行人であった。清香から連絡を受け、関係各方面からかかってきた電話に対処した後はここでジッと清香が来るのを待っていたのである。幸いにして早めに来てくれたおかげで、あまり待つことをしなくてよかった。
「よく眠れた?」
清香がコートをハンガーに掛けながら行人に尋ねた。
「ええ、途中までは…ですけど」
「そう。まあ、当然よね」
頷きながら行人の対面のソファーに清香が腰を下ろす。と、着席早々に行人が口を開いた。
「清香さん、俺これからどうしたらいいですかね?」
「そうね」
頷いたが、既にそれなりの対応は考えてきたのだろう。清香はすぐに口を開いた。
「取りあえず、会見はやった方が良いでしょうね。どういう形になるかわからないでしょうけど」
「会見…ですか」
その言葉に、行人がうんざりといった表情をした。その表情に、清香がクスッと微笑む。
「嫌そうな顔してるわね」
「嫌そうじゃなくて、嫌なんですよ」
「わかってるわよ。行人くんがそういうのを苦手なことも、嫌いなこともね。でも、このまま野放しにしてたら暫く連中に追いかけられるわよ。ほとぼりが冷めるまで逃げ隠れするっていう手もあるけど、プロ野球選手になる以上、それが許される立場じゃないのはわかってるでしょう?」
「そっすねー…」
やる気ない顔で深々とソファーに腰掛け直して行人が呟いた。確かにプロ野球選手になる以上、今までとはガラッと変わって格段に人目に晒されることになる。逃げようにも逃げ場はないのだ。
とは言え、指名を蹴ってバックレるという考えも浮かばなかった。そんな真似をすれば、泉下の母親がどれだけ嘆くかわからないと思ってしまうと、どうしてもその選択はできなかったのである。
(八方塞がりってわけかよ…)
「あー…」
二進も三進もいかない状況に、魂の叫びがその口から洩れた。
「まあ、やるとしたら大学主導でかしらね。指名されたとはいえ、まだ契約はしていないから、今の身分としては大学生だし」
「だと思います。さっき球団から連絡がありましたけど、同じようなこと言ってましたから」
「流石に打つ手が早いわね。でもまあ、何度も繰り返すことになっちゃうけど指名をした以上は球団は関係者ではあるけど、契約を交わしていない以上は向こうには何ら責任や義務はないわけだし、仕方のない対応でしょうね」
「そっすねー…」
実際、行人も仕方のない対応だと思っている。というか、もし自分が球団側や大学側の立場の人間だったら、“面倒臭い真似起こしやがって”と思うだろう。それが、本人に何の落ち度もなくてもである。
自分が思っていることは他人も思っているなどと言う傲慢な考えは行人にはないが、それでも関係者の認識に多かれ少なかれこういった感情は間違いなく入っているだろうなとも思っていた。
「くっそ、あいつら…」
一通り今後の指針が見えてきたところで、沸々とある思いが浮かんできた。それは勿論、今吐き捨てた言葉からもわかるようにこんな状態を引き起こした連中、押し掛けの義妹たちに対する悪意だった。
「ふざけた真似してくれやがって…」
怨嗟の声がその口から漏れる。その行人の姿を、清香は何とも言えない表情で見つめていた。
「…取り敢えず、大学側にはこちらから連絡するわ」
清香がそう切り出した。
「頼みます」
義妹たちに対して悪態をついていた行人が慌てて座り直すと清香に頭を下げた。
「いいのよ、今更でしょ?」
「すみません。出世払いになりますが、料金はちゃんと払いますんで」
「ん、おっけ。それじゃあ行人くん、もういいわよ。家に帰るなりトレーニングに行くなり、大学に行って監督さんと一回話すなり、好きにしなさいな」
「わかりました」
行人は立ち上がると、掛けてあった上着に袖を通してここを出る準備を整える。
「それとわかってると思うけど、記者に突撃されたら後日改めて会見を開く旨を伝えて、余計なことを言わないようにね」
「了解です」
「それじゃあ、また連絡するから」
「はい、宜しくお願いします」
「ん。気を付けてね」
「はい」
行人は軽く頭を下げると執務室を出て行った。
「さて…」
行人を見送った後、清香はデスクへと戻る。そして、電話の受話器を取るとどこかへ電話をかけ始めたのだった。