どうやら田中くんは:下
「ふむ、肝心の頼まれていた土産を買い忘れていた。悪いが種類が多いのでな、お前は漬物チョコ饅頭と醤油を頼む。確か入口付近の店にあった筈だ。小林さんもお時間頂いてもよろしいですか」
「ええ、勿論構いません」
「では、15分後此方に集合で」
搭乗口に入る前に突然思い出した様子のおじ様。出発までかなりのギリギリデンジャラスだが、流石田中くん、またですねと眼鏡を無言で上げて慣れたご様子。もしかしたらおじ様に静かに視線だけで小言を伝えていたのかもしれないが、おじ様はにこにこと手を振った。ううむ、どちらも流石である。
急ぎ足だがそれでも颯爽と味わい深そうな饅頭を買いに行く田中くんを見送り、私もさて手伝おうとおじ様を見た。
さあ来い、今までそんなものが売っていたと全く知らなかったし、知ってもおじ様の友人以外に土産として欲しがるのか謎だがこれを機に少しは通になってみせようぞ。今こそクロネコさんの如き瞬足さを現してカロリーの消費をだな…
そんな風に妙に奮起して指令を待っていると、おじ様がしぃっと人差し指を唇に当て、ぱちっとウインクを一つした。
「では小林さん、息子が戻るまで少し話しをする時間をくださいな」
うん、似合うわぁ
怪しさを感じないのは、親子らしい田中くんと似た清廉な雰囲気のためかもしれない。容姿は日焼けしたおじ様と白いお肌の田中くんで、性格も社交的で朗らかなおじ様と冷静沈着な田中くんと正反対の様な、逆に似ている様などちらとも言えない感じ。しかし何処か人を落ち着かせる独特の空気は同じだ。
さて、大事な息子を叱っていたのが頼りなさそうなこんな上司である。気分を害していたのかもしれないと、一抹の緊張を抱きながら私はおじ様に笑顔を返した。
「私で答えられる範囲でなら大丈夫です。息子さんへの指導についてでしょうか」
「ん? はっは、いや違うよ。むしろ私は貴方に感謝しているぐらいだ」
「感謝ですか?」
田中さんの朗らかな様子が予想と違ったので不思議に思う。感謝という単語がふわりと宙に浮いている気分だ。
「これでも人と接する仕事だからね、時に厳しく言わねばならない場合があることも、叱ることの難しさも分かるつもりだよ。そして叱るということは、それだけ相手に向き合っているということもね」
深まった目尻の皺から、かなわないと思わせる包容力を感じた。照れくさいのと、田中くんは素晴らしい父を持っているなぁというのとで、私も心からの笑顔を返す。
「勿体無い言葉です。私がもう少し気を配っていれば、もっと早くフォローに入れていたので」
「気にせんで下さい。貴方に言ってもらってあの頑固者も少しは効いたでしょう」
「ふふ、頑固者ですか。真面目で優秀と社内でも評判で、私もいつも頼りにしています」
「おや、面白みがないといじめられていないか心配だったのですが」
そうして田中さんは苦笑を滲ませ、その中に少し心残りがあるような、心配そうな色を混ぜて告げた。聞きたかったのは、田中くんの漫画張りの天七三や真面目ぶりが浮いてないかということだろうか。
私は考えて、少し逡巡した。
ここで、「いじめられても一人無表情で処理しそうですね」と軽く返してもいいのかもしれない。田中さん自身、問いかけることに対して迷っている、そんな風に感じたから。
けれど私は一歩踏み込んでみることにした。
それはにゃーと鳴いた猫を思い出したからかもしれない。
「そうですね…、私の目から見てですがいじめなどとは無縁に思います。それは田中くんのそつのなさや模範的な態度というのもありますが、彼は、何処か一歩引いた位置に自分を置いてる様に思います。勿論そういうタイプの人は他にもいます。一歩引いて、冷静に周囲を観察するのが得意なタイプの人ですとか」
別に一歩引くのが悪いわけではない。むしろ、そういう冷静な分析者がサブリーダーであったりするとプロジェクトも進めやすく、得難いタイプだろう。同じ一歩引く人でも、自分は他人とは違うと優越感を抱くタイプもいるが、田中くんのはそれらとは違う様に思う。
私は自分の中から言葉を探し、ゆっくりとだが誠実に並べた。
「田中くんの場合は、それとは違う様に思います。明確な拒絶は無いけれど、線引いてる様な、壁の様なものがある。けれど、それは田中くんを守るものじゃなくて、ただ周囲から離れる様な、区別するための溝みたいに思えまして」
けれど絞り出した言葉は抽象的で語彙が貧困だし、田中くんの何を知ったかぶり、しかも田中くんの父親に言ってるんだともう3重に恥ずかしい。
私は黙って聞いていてくれた田中さんに思わず「はは…」と場をもたせようと引き攣り笑いし、それでも結局最後に言いたいのはこれかと自分で得心して付け加えた。
「私も、勝手に心配しています」
「…はっはっはっは」
結果、27歳にして目頭を押さえられる程爆笑された。
ライフはもうレッドを超えて画面を抉っている。ええ、もう好きにしてくださいな。
いいじゃないか、頓珍漢なこと言いすぎて何息子を分かった気になってんだと怒られなくて。うん、これでよかったんだよ…うん…
田中くんが去ってからわずか数分にして死んだ魚の目に進化していると、田中さんはようやっと笑いを抑えて目尻を拭った。
「小林さん」
「…はい」
「ありがとう。よければ、そのまま聞いてくれないかな」
そうして区切った田中さんを見て、私は姿勢を正して雰囲気を切り替え頷いた。
「…あるところに仕事が大好きな夫婦が居てね。子どもは2人とも欲しかったが、その機会も逃し続けていた。年を重ね余裕が出てきた頃、やっと2人して頃合かと思えた時に、夫婦には子どもが出来ないことが分かったんだ。もっと早く分かっていれば対処の仕様もあったけど時既に遅しでね。年寄りの感傷かな、2人は家族が欲しかった。正直に言えばどんな子でもよかったんだ。養子を迎えようかと相談していた矢先、血縁かも分からない様な遠い遠い親戚から電話があった。会ったその子はまだ中学2年生になったばかりでね、いや、もうと言った方がいいのかもしれないね。それまでの間ずっと親戚中をたらい回しにされて、そうして夫婦の元へとやって来たんだ」
私は遠くを思い返す様な田中さんを見て、そっと目を閉じて静かに続きへと耳を澄ませる。
「夫婦の半分も生きていないのに、会ってから一言目がご迷惑をお掛けしますってね。せいせいしたと言いたげな隣りに座る親戚の態度から見ても、荒んでてもおかしくないのに、その子は高校生から働いて恩を返すとね。勿論そんなことはさせない、彼の生きたいようにさせたいと、夫婦はもう彼を引き取ることに異論は無かった。むしろ甘やかしたくて仕方がなくなったんだよ」
「ふふ、戸惑う姿が浮かびます」
「はっは、そうだね。夫婦は夫婦なりに愛情を示したが、お互い初めてで慣れないものでね。しかも無駄に地位はあったためか減らしたとはいえ仕事は待ってはくれなかった。…もう何百度ボイコットしてやろうと考えたことか…」
「…」
「高校卒業後一人暮らしを始めるまでの短い間で、私はその子を幸せに出来たか、父と呼ぶに値する家族となってあげれたのか自信はないんだ。だからね小林さん、貴方の様に息子を見てくれる方が近くに居たと知って、私は本当に感謝しているんですよ」
その姿は正しく子を想う親の顔で、私は重い期待だとその眼差しを受け止めながら頷いた。
何故私に話したのか、正直に言えば分からない。田中さんの琴線にたまたま私の言葉が触れただけだろうし、所詮私は一介の上司で、彼のこれまでやこれからの人生を考えれば路傍の石みたいなものだろう。それこそ、田中くんの彼女や妻になる予定の人が聞くべき話だと思う。
だが、どちらにしろ私のすることは変わらないのだ。
「私は田中さんが思うほど田中くんに対して何かしてあげられる存在ではありません。そして田中くんだけを贔屓することも出来ません」
「ええ」
「ですが彼の上司として、人生の数年ばかりの先輩として、彼が道に迷ったり困った時は、お節介ぶって道を示せるよう心掛けるつもりです」
「…あぁ、安心しました」
大切なお子さんを預かるのだ。田中さんの目を見て、私は誓う様に言い切った。田中さんは、肩の荷を降ろした様子でそっと息を一つ吐いた。
◇
「お待たせしました」
「いえ、ぴったりよ」
無表情で手に醤油と本当にあるのか疑っていた漬物チョコ饅頭30個入りを持って帰ってきた田中くんを労う。騙していたので若干心苦しく思っていると、田中さんはうきうきと顔を輝かせて袋を受け取った。そうして力強くぎゅっと田中くんをハグする。
私がいるからか、田中くんは無表情ながら少し戸惑った雰囲気だったが、結局背中を軽く叩き返していた。田中さんにとってはそれで十分だったようだ。
「じゃあな、小林さんの言うことをちゃんと聞くんだぞ」
「はい、大丈夫です」
「小林さんも、今日はありがとう」
「いえ、お気をつけて」
茶目っ気たっぷりに私にも軽くハグのお別れ。やはりここら辺は外国暮らしらしい挨拶だ。セクハラ課長とやはり違うのは、下心の有無と見た目と雰囲気と人望とエトセトラとに違いない、うん。
考えていると、べりっとばかりに田中さんが引き剥がされた。流石に息子視点だと上司にセクハラする家族に見えて嫌なんだろう。大丈夫だぞ田中くん、セクハラ課長で慣れているからこれは普通に挨拶だ。訴えたりなどしないから安心してくれたまえと、先程の田中さんの親心に影響された慈愛の視線を田中くんに向けていると、心なしじっとりとした呆れの視線を返された。田中さんはまたも肩を震わせて爽やかに笑っている。解せぬ。
「はっは、これは話で聞いていたよりも苦労しそうだな息子よ。私は女性の味方だが全力で応援しよう」
「いいですから早く行って下さい父さん。置いていかれますよ」
「はいはい、そう邪険にするな。ああ、それと小林さんに隣人として頼みたいことが」
「ええ、何でしょうか」
「実は引越し作業が途中で私も出立することになりましてね、よければ友人もいない息子を手伝ってやってくれませんか」
「上司の方に頼む人が何処にいるんですか。あとは仕分けくらいなので、気にしないでください」
前半は父に、後半は私に向けて言う田中くん。呆れた様な疲れた様な空気を、普段は涼しげな田中くんから引き出すだけでもやはり凄いことである。私はぽんと田中くんの肩を叩いて、気にするなと快諾した。これから仕事の調節を入れるとはいえ、帰ってからも引越しの片付け仕事では気も休まらないだろう。
田中さんは助かるよと人の良い笑顔を見せ、田中くんは眉根を寄せた。
っておい!そこまで迷惑そうな顔をするんじゃないぞ田中くん!白魚の如き乙女の心臓が傷つくからな!!
同じくじっとりと目を返していると、田中さんが軽く手を振り私達に背を向ける。あっさりとした雰囲気は、やはり親子らしいもので――
咄嗟に私は田中さんの背に声を掛けていた。
「田中さん、食べ方とかふとした雰囲気や仕草、私は何度も似ていると感じました。言われるまで全く気付きませんでしたし、それに田中くんは無理だったり嫌なことはきっぱりと断ります」
ええ、上司命令の飲みもばっさりとね
「ですから…、今一緒にいるのが答えなんじゃないでしょうか。部外者の勝手な意見ですが」
言い切ると搭乗へのアナウンスが流れる。田中さんは背を向け止めていた足をまた動かし、ひらひらと振り向いて手を振った。
遠かったので聞こえていないかもしれないが、少し前の質問でもない独り言に対して何か言ったのは、ただの私の自己満足である。それ以上でもそれ以下でもない。
嵐の様に強い印象を残して、雲を連れ去った後の気持ち良さの様にあっさりと見えなくなった姿を眺めていると、田中くんが隣りに立った。
「何か聞きましたか」
「ごめん、田中くんが田中くんになってからの話を少しだけ」
「そうですか」
それだけ言うと、くるりと踵を返して駐車場へと歩き始める田中くん。やはりこのあっさりさ加減は似ているなと、少し笑える。
「気に障った?」
「いえ、気恥ずかしいというのが正しいかもしれません」
気分を害してないなら良かったが、自分で気恥ずかしいと言いつつも別段変わりがある様に見えない。何だかぐいーっとその若い内からサボっている表情筋を引っ張ってやりたくなったが、ふと疑問に思うことがあって田中くんを仰ぎ見た。
奇しくも隣りを歩いていた田中くんも、同じように何か思い当たった顔で此方を見る。
私は先輩らしく先を譲ってあげることにした。視線が先輩ぶってるなコイツと言いたげな気がするが、今日は田中さんから引き継いだ慈愛デーなので多目に見る。
「何処まで聞きましたか」
「何処までとは?」
「そうですね…」
困った様に…、いや、この少し視線を逸らしているのは照れたからか。記憶でも思い返そうとしてまたしても微かに眉が寄っている。珍しく続きが出ない田中くんの様子を見て、私はこっそり笑ってしまう。これは面白い。
「例えばこっそり自分に掛かった費用を計算してノートに付けてたのを怒ったら、冷静に逆ギレされたとか? あれは絶対バレたのが恥ずかしかったからだよねと田中さん言ってたわね」
「…」
「他にも自分で決めたバイトが年上の人への家庭教師だったりとか? 誕生日プレゼントでまさか中古とはいえマッサージチェア贈られるとは思わなかったってね」
「…」
面白かったのでそのまま続けようとしたら、堪らずつい声に出して笑ってしまった。それまで無言で困っていた田中くんは、からかわれたと悟ってこれまた珍しく憮然としたご様子。
傍から見たら天然七三真面目一辺倒の田中くんだが、意外や意外、からかいがいがある。
「…小林さんは何か聞きたいことがあったのでは」
「ふっふふ…、ええ、そうね。確か田中さんが話で聞いていたよりもって言ってたじゃない? 私の話をしていたのなら、どんな説明だったか少し気になってね」
明らかな話題替えだったが、笑いを抑え、振られた話題に乗る。大分笑わせて貰ったので、少々意地悪く言われても許せるぞ田中くん。まぁ田中くんが人を悪く言うイメージは湧かないし、それに例え悪く言っていたとしても馬鹿正直に私に言わないだろうけれど。
すぐに答えは返ってくるだろうと思っていたが、しかし何故か無言で考え込む田中くん。
ふと考えてみると、反撃の機会を与えてあげようと聞いた質問だが、結局私に気を使うんだから反撃もくそもないかもしれない。あれ? となると、からかいまくった挙句に更に意地悪な質問を投げる陰険女上司ということになるのか?
思い当たって笑顔が固まる。
まだだんまりを決め込む田中くん。
段々と田中くんの顔色を伺う私。
ちくしょう、だから無表情わからんって!
「た、田中くん?」
遂に降伏宣言で恐る恐る声を掛けると、それまで無言で歩いていた田中くんが振り返った。
そして、微かに、本当に微かに仕返しが成功したと言いたげに唇を引く。
「秘密です」
驚いて思わず足を止める私に気付かず、また歩き始める田中くん。
…子どもの様なSっ気でだったのは何だか釈然としないけれど、
どうやら田中くんも笑うらしい
「幕間3:とある男の電話録」25日12時予約済み☆
短いので連日投稿いっきまーす☆