これは現実か??:中
一言言おう。冬間近の屋上は死にに行くようなものだぞ田中くん!
しかし悲しい哉、いいですよ、でも屋上でも…という言葉を最後まで聞かずに飛び付いたのは私である。くそっ、ぼっち飯に慣れてないのが悪いのだっ……というか寒い!
階段を登る辺りでおや?と思っていたが、その時点でコートを取りに戻らなかった数分前の自分が憎い。寒い。でもおや?と思う前に寒くないですかと質問され、社内の温度だと思って大丈夫と返してしまっていた自分が憎い。風痛い。今度社長に女子社員もズボンを制服とするように直談判を考えるくらいには凍えてるっ。
申し訳程度にあるベンチに腰掛けて辺りを見回すが、私達のような猛者は誰一人居なかった。
今なら見知らぬ女子社員にコミュ障を発揮せず、ひたすら寒い寒いという単語だけで盛り上がれるのにっっ
もう何回寒いと言ったのか分からなくなりつつ、急速に冷え込んでいくぬるい味噌汁をスープジャーから飲む。恨みはないが若干固くなっているご飯に箸先を突き刺していると、ふわりと煙草の甘い香りが漂ってきた。金木犀やカモミールの様な仄かに甘い香り。
その香りに釣られてそちらを眺める。勿論この場所には私と田中くんしかいない。
そもそも、田中くんが昼食場所に屋上を選んだのは喫煙可能なエリアだからである。一応社内にもあるのだが、其処は狭く、おじさん達の人口密度と煙密度が凄まじいこととなっている。
そう考えると、案外喫煙場所としては穴場かもしれない。
田中くんはというと、落下防止のための2m越えの金網フェンスに凭れかかって青空を眺めていた。風が強く吹いてはその度に田中くんの髪で遊ぶが、一切気にせず空を眺めて煙を燻らせている。その立ち姿は背景も相まって涼しげである。
唯一温かさを感じさせる先端が、ジジッと朱く音を立てた気がした。
聞こえぬ筈のそれが聞こえたのは、以前目の前でよく吸われていたからだろう。
雄輔が好きだったのは七つ星で、幾ら雄輔が好きといえど苦い香りに私はよく退避していたものである。けれど寒がりの彼がよく吸う場所は室内などの温かい場所なので、結局私は何処に居ても一緒かと顰めっ面で近くに座った。
自室の中、逃げ場など無くていつも通り諦めた私を見て彼は笑って直ぐに煙草を揉み消した。私もそれが分かっていたから、敢えて大げさに退避したり、ぱたぱたと仰いでみせた。そして、離れゆく吐息に「苦い…」と「そっちは甘いの?」と呟けば、彼は甘くはないなとだけ呟く。その後に飲んだカフェオレが甘かったのか、顔を顰めるので、私は仕返しが成功したような気分になってその様を笑った。
ぼんやりと薄い灰色が見せる幻影を彷徨っていると、いつの間にか田中くんが近くに立っている。既に煙草の火は消されていた。マッチはもう売り切れてしまったようだと顔をあげると、やっぱり何を考えているのか分からない目と目が合う。
「煙草はもういいの?」
そう問うと田中くんは目を伏せた。
「はい、…煙が其方にいってしまってすみません」
返ってきた返事に私は感心する。今時珍しいほど律儀なものである。最初に一服する時も、一声掛けて了承を得てからわざわざ離れた場所まで行っていたのだ。風向きなど読めぬのが道理である、気にすることはない。
「気にしてないよ。ほら、それにその香り好みだし」
そう言うと田中くんは少し驚いたようだった。まぁそうかもしれない、煙草の香りが好きな女性は珍しい方だと思う。
「と言っても甘そうだからってだけで、他のは苦手だしどの煙草も吸う予定は今のとこ無いけどね」
念の為に付け加えると、田中くんは「そうですか」と眼鏡を外し、背を向けてレンズを袖で拭き始めた。
…埃が気になったのだろうか?こっちは生憎と風邪すら引くことが稀な丈夫な体である。というわけで視力は1.5だ。ちなみに家族は全員眼鏡族なので羨ましがられる度にどや顔している。…反面、いずれ下がる…突然来るんだぞ…と洗脳するが如く言われまくってもいるので、最近視力低下が起こらないか恐怖する日々である。
眼鏡者の苦しみは解らないが微妙な長さの前髪が視界にチラつく鬱陶しさは共感出来るので、眼鏡に付く埃も気になるよね…と仲間意識を多分に含んだ温かい眼差しを送っていると、拭き終わった田中くんはまた此方に向き直った。
あ、そう言えば田中くんの眼鏡外した姿レアだった
思い当たると見逃したことを惜しく思うのが人の性である。もう一度拭かないかと見上げるが、そう都合良く拭くこともなさそうだ。それでもレンズ越しに少し色素の薄いその目を見ていると、何故か田中くんは一向に座ろうとしなかった。
どうしたのだと思っていると、あっという間にふわりとした温かさが私を包む。
へ?と思う内に、寒そうな白いシャツのまま田中くんは隣に座って昼パックを袋から取り出した。
丁寧に小さく千切って口に運んでいる。
「あ、ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
それっきり昼パックを口に運んでいるので、私も気が抜けてごはんにお箸を突き刺す作業を開始した。ちなみにおかずとごはんを一緒に食べ終えるよう計算する派である。も一つ言うと苦手な食べ物は先に食べる派だ。
最近のお弁当作りでの悩みは、自分で作っていると好きな食べ物や冷凍食品に頼ることが多くなってしまっていることである。
…お母さん今までありがとう…と、卵焼きを作る度に最近思ってもいる。栄養面でのこととか、毎日作ってくれてたこととか…、寒くなると朝起きるのが辛いのだ。
そういや…、とふと隣の席の袋の中を見た。中ではひらひらと風に煽られてパッケージの商品名が揺れている。
「それ、アボカドパンプキン味なのね。どんな感じ?」
「…ねっちょりですね」
何故買った
あまり美味しそうなコメントではないが、本人は涼しい顔で口に運んでいる。少し興味がそそられたので、自分の卵焼きと一口交換してもらった。
後悔した
濃厚と濃厚を掛け合わせるべきでは無かったのだ…。
流石田中くん、この味を一言で言い表していた。というより二つの意味で舌は大丈夫か?
スーツを返却し、ジャスミン茶で洗い流せぬ後味に涙目になりつつ風呂敷を包み直す。昼パック会社は何故か謎のコラボを生み出すが、毎度のことそのチャレンジ精神は凄いと思うのだ。しかしそれで採算は取れるのかと常に疑問も抱いていたが、田中くんの様なチャレンジャーが居るから大丈夫だったのだな。今日は長年の疑問が解けた昼休憩であった。
っと、そういえば忘れてた
「田中くん、はいこれ。いつものミント味だけど」
カサリと一つ銀紙に包まれたガムを自分の手の平に乗せる。渡すようになった切欠は些細なことで、普通なら気付かないような仄かな香りに気付いた私が、持ち合わせていたガムをこっそり渡したことからだ。
ちなみにこっそり渡したのは田中くんと煙草を吸うイメージが結び付かなかったからで、実際普段は人前では吸わないようにしているらしい。手渡すと少し驚いていたが、婚約者がよく吸うので敏感になったのだと言うと「そうですか」と納得していた。今考えると田中くん自身でもケアしてるのにエチケットの押し付けだったかなぁという気もするが、今の所本人は何も言っていないので何となく続けている。
まあ持ち合わせていたのは偶然でもなく、それこそ偶々ガムを持っていた時に「何か口に入れれるもん無いか?」と聞かれて渡したら「サンキュ」と褒められたが嬉しくて、馬鹿みたいにそれ以来持ち歩いていたからだけど。
中々会えなかった癖に、ほんと単純なやつである。
結局、今回は買ったまま封を切られてなかったミント味。
歯磨き粉以外のミント味は苦手なのだ。
そんなつもりも無かったが、これじゃあ尻拭いに付き合わせているのと同じかもしれない。
田中くんはいつもの様に小さく御礼を言って、手の平へと指を伸ばす。
ひんやりとした指先が手の平を撫ぜる。射竦めるかの様に見つめる田中くんにそんな汚い自分が見透かされていそうで、私は冷えるよねとどちらへともなく呟きながら、そっと視線を銀紙へと逃がした。
◇
「っと、これで終わりぃ」
パチンッと弾く様にEnterキーを押してぐいっと体を反らせば、お疲れ様ですと美華ちゃんが答えてくれる。とっくの昔に日はとっぷりと暮れ、もう完全に残業突入状態であった。明日は土曜なので出来た無謀かもしれない。
「先輩ぃ゛ー、ありがとうございまじだあ」
隣ではミスしてしまっていた後輩が平謝りしている。取り敢えず手を動かせとせっつき、もう少し効率的なやり方を後ろから教えていく。といっても後もう少しで終わりそうだ。
「美華ちゃんも田中くんも残業なんて珍しいけど、終わりそう?」
「あ、はい、こっちはもう終わりました。もう急に変更とか止めて欲しいです」
はぁ、と可愛らしい溜め息を吐きながらぱたぱたと飲み物を入れに行っている。田中くんの方はと目をやると、トントンと資料を纏めていた。此方も終わったようだ。
「先輩本当にすみませんっ、もう十分ですので先に帰って下さいっ」
「ここまで来たら最後まで面倒見るわよ。…、そこ間違ってる」
「ひぃっ」
焦ると余計慌てるタイプなのだろう。落ち着けと肩に手を遣り、何か飲み物でも入れてやるかと動こうとしたら、すっと美華ちゃんがココアを差し出してくれた。
気配りの出来る子、流石師匠である。
お礼を言って焦りのドツボに嵌っている後輩くんへと差し出す。美華ちゃんからよと言うと、後輩くんはお礼を言おうと美華ちゃんの方を向いて、そしてその慈愛の微笑みにヤられていた。
…流石師匠である。
何故か私はその笑みに冷気を感じて背筋が震えているのだが、後輩くんは幸せそうなので私の気のせいなのだろう。
「終わったあーーっっ!!」
私も自分の分のココアを入れに行き、ほっこりしていると聞こえる声。それじゃあ帰るかと鞄を背負っていると、携帯が震えた。取り出すと母からの着信である。
ブーッ…ブーッ…ブー…
早く出ろよと急かすブザー音。出なくてはと思いつつも体は正直で、指先は着信ボタン一つ押せないでいた。
「先輩、出ないんですか?」
画面を見つめたまま動かない私を変に思ったのか、後輩くんが不思議そうに問い掛ける。
「あー…、充電切れそうだから後で掛け直そうかなって」
その場凌ぎにへらっと笑って鞄の奥底に携帯を潜らせた。
苦さを奥に押し遣って咄嗟に嘘を吐けば、後輩くんはそれで納得したようで。
元々そこまで興味も無かったのだろうが、上手く誤魔化せたことに安堵する。
ふつりと途端に静かになった携帯に、鳴っている時は早く切れろと思ったものだが、切れた途端とても悪いことをした様な罪悪感を抱いた。
何だかやってらんない
急に呑みたい気分になった私は、一人じゃ寂しいので誰か捕まえることにする。もう明日は土曜というだけで呑む免罪符になるのだ。結局、酔い潰れる程呑んだのはあの夜だけで、それ以外はちびちびと外で呑むかコンビニで買って帰って呑むかぐらいだったので丁度良いかもしれない。ちなみに普段はお酒にあまり手を出さないので、今月の出費に戦々恐々としてもいる。
まあ一人暮らしも長引いて27ともなると、外で酔い潰れるのは理性がブレーキを掛け無理なのでどっちにしろほろ酔い程度だが、一緒にじゃなくても誰かいる場で呑むという雰囲気が大事なのだ。あと誰かと呑むにしても相手が後輩というのも気楽なものである。元々あまり誘われる方ではなかったのだが、今は気を使われているのかお誘い自体がパタリと止んで誰からも誘われない。まだ日も経っていないので時期的に仕方ないのだろうが、後輩なら逸らせる話も先輩や上司相手であると濁すしかないので私的には有難い。普段から飲んだとしても一人のみばっかだけど、ぼ、ぼっちじゃないし。
だが一つ言うがセクハラ課長、お前はダメだぞ。別の意味でダメだからな。何故傷心の私の方が捨てられた奥さんへの謝罪やら昔の惚気やらを聞いて、最後には昔を思い出しておいおい泣く課長を慰めて介抱してタクシーに乗せてやらにゃならんのだ。そんなんだから誘っても皆から目を逸らされて涙目になる羽目になるんだぞ。後最終的に私に泣き付くのも止めてくれ。
何だか頭まで痛くなりつつ、一先ず近くに居る後輩くんから声を掛けてみる。
実は後輩くんとはそこまで交友を持っているわけではないので少し誘うのに勇気がいる。
…まぁ、なら何で手伝ってんだという話だが、パソコン前に死にそうな青褪めた顔した人がいたから声掛けたというだけである。周囲へも被害が及ぶ様なミスでなくて何よりであった。後輩くんの感じであると責任を感じて追い詰められて無理しそうな気がする。
「そう言えばこの後何か予定ある? どうせだし一杯一緒に呑みに行かない?」
後輩くんはまさか誘われると思っていなかったのか、ぱちくりとしている。かと思えば先程よりもさらに激しく平謝りしてきた。
「っす、すみませんっ! どうしても外せない予定がありましてっ。先輩には関係ないのにこんな時間まで手伝って貰って…、なのに俺…」
泣きが入っている。熱血系というか何というか、これが憎めない後輩というものなのだろう。愛すべき人柄である。
こっちも急に誘ったんだから気にするなと、終わって良かったお疲れ様、早く帰りなよと後輩くんが面白かったので笑って肩を叩く。そのまま出口に向けて背を押すと、ぺこりと頭を下げた後輩くんは、その時に確認した時計を見て悲鳴を上げて出口へと駆けて行った。
…慌ただしいが鬼彼女でも居るのだろうか…、誘って悪かったな後輩くんよ。ただそれなら彼女を大切にな、美華ちゃんにあまり見蕩れんなよ。
老婆心のまま見送って、では、と忙しい印象のある二人にも声を掛けてみる。丁度美華ちゃんが紙コップを捨てて戻って来たところだ。
「美華ちゃんはどう?」
「先輩が人を呑みに誘うなんて珍しいですね。勿論、一緒に行きたいです。場所は何処がいいかな…。確か駅の近くに新しい女性向けのお店が出来たらしいので、そことかどうですか? ふふ、楽しみです」
可愛らしいはにかみに釣られて私も照れながら、田中くんはどう…と聞きかけたところでトゥルルルと音が響いた。
美華ちゃんの携帯である。
田中くんと二人して美華ちゃんを見ると、美華ちゃんは画面を確認して…―――
トゥル―プツッ
笑顔で切った。
…美華さん!?
「だ、大丈夫? 誰からなの?」
先程母からの電話を無視した私が聞くのもあれだが、聞いてもいいのかと思いつつ恐る恐る伺うと、美華さんは笑顔でお昼のですと答えた。
お昼…というとあの若者か…、って、狙ってたお人ではないか
早い、流石師匠
「美華ちゃんどうしたの、恥かしがらずに出なさいな」
「いえ、そういうんじゃないんですけど、まぁでも先輩との方が大事なん―」
トゥルルル
「…」
「…」
頑なに出ようとしない師匠。もしかしたらと思い至った。
「美華ちゃん大事なお話かもしれないし、そうじゃなくても、またいつでも呑みに行けるんだから」
「…」
トゥルルル
「ほら、先輩に遠慮せずに行きなさいな。二人で女子会とか、取り敢えず今日は止めてまた別の日にしましょ」
美華ちゃんは優しいので先輩に遠慮していたのだろう。だが振られたからといって人の恋路を邪魔する程野暮ではないのだ。あとトゥルトゥル鳴く電話が段々物哀しく聞こえてくるので出てあげてねという気持ちである。
さあ美華ちゃん、頑張ってね
笑顔で電話を出るように勧め、人が居たら話し辛いかと思い田中くんを引き連れその場を去ろうとした。
一人残すのは心配だが、多分迎えに来てくれるだろう。というか美華ちゃん可愛いので迎えに来ないとか有り得ん!…若干贔屓してる自覚はある。
トゥルルル
…チッ
……ん…?
「はい、小島です。こんばんは、どうしたのですか?」
可愛らしく電話応対する美華ちゃん。漏れ聞く感じ、どうやら大丈夫そうなので安心した。一応で隣をそろりと見上げると、視線は交わらず、携帯の画面を見ている田中くんが居るのみ。
…なんだ、幻聴か
いやはや、田中くんの場合でも恐ろしいが、あの可愛らしい美華ちゃんが舌打ちなんてする筈ないしね!何を考えたんだか
まあ先程まで残業していたのだから疲れてたんだろう。うんうんと納得すると、少し心配になりながらもひらひらと見送る美華ちゃんに手を振り返して別れる。
疲れてたのでエレベーターを選択させて貰い、田中くんと二人乗り込んだ。
普段は運動の一環で、気付いた時に出来るだけ階段を使うように心掛けている。まあ朝は何歳になっても貴重な時間と言いますか、時間短縮のためエレベーター頼りだけど。
…あれである。階段もそうだが、ウソザップの様な真剣感がなくて、なあなあで運動しているから効果が現れないのかもしれない…。ハラニクとかモモニクとかニノウデニクとか…、奴等は直ぐに我等乙女を包囲しやがるのだ。
っと、そう言えば忘れていたと、綺麗に隣に立つ田中くんを見上げた。
「そう言えば田中くん、今日一緒に―――」
ブーッ…ブーッ…
マナー音がした。
「…」
「…」
ウゥィーン
ドアが開いたので、お互い無言でエレベーターから出る。
ブーッ…ブーッ…
な、なんだ、今日は音厄日か?あれ、そんな日あったっけ?
若干混乱しつつ、嫌な予感しかしないので引き攣り笑いをしながら電話に出ることを勧めると、暫くして戻って来た田中くんは珍しく罰が悪そうな、奥歯に何か挟まった様な顔、といっても少し眉が寄った感じなだけの顔で一言言った。
「すみません」と。
そうか母や、電話に出なかった罰を即日回収とか、ヤの付くお方よりも疾いですね
内心で私が崩折れたのは言うまでも無い。
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