一
その日の朝、森の中で目を覚ました沙枝は何か違和感を覚えた。いつもより世界が明るいような、いつもより周囲の音がはっきり聞こえるような、そんな感覚。
〈炎花。〉
〈なんだい、沙枝。〉
〈もしかして…。もう近いんじゃない?〉
〈そうかもしれないな。何かいつもと違うものを感じるよ。〉
〈そうだよね…。〉
こんなことは初めてだ。期待に胸が高まる。と同時に、沙枝の胸中には不安もあった。いなかったらどうしよう。いたとして、取り返しのつかない程の容態だったらどうしよう。そして。再び会って、何を言えばいいのだろう。
ここまでただ燥耶に会いたくて進めてきた足が、今不意に鈍る。沙枝は纏わりついてきたかのような暗い思考を振り払うように、頭を鋭く振り、日課の剣の鍛錬を始めた。
〈お疲れ、沙枝。今日の分は終わりだ。〉
その声で沙枝は我に返る。いつもの通りだ。だが、その後がいつもと違った。
〈…ねえ、炎花。何か聞こえない?〉
〈…?…そうかな…?〉
〈うん。やっぱり聞こえるよ。〉
そのままふらふらと歩き出していってしまう沙枝。
〈あ、おい!沙枝!〉
炎花の声は、沙枝の耳にはもう聞こえていなかった。
沙枝は自分にだけ聞こえる音に従って歩みを進める。まるで夢の中かのように、現実感がなかった。
不意に視界が開ける。そこは水が豊富に流れる川。沙枝はその対岸に。
懐かしい人影を見た。
声が出せない。固まってしまった沙枝の耳に、後ろを向いて座る彼の呟きが届いた。
「沙枝…。」
その声は、二人の距離を超えて届く大きさではないはずなのに、沙枝にははっきりと聞こえた。沙枝の心の動きにつられるかのように、周囲に強い風が吹く。その風に背中を押され、沙枝の口から言葉が滑り出た。
「…燥耶。」
その声に、対岸の人影がこちらを向く。振り返る彼の様子が、あの戦の日と重なった。《炎花の遣い手》、燥耶は、あの日と同じ、笑顔だった。
沙枝は、自分の頬に熱いものが伝っていること、自分の顔が自然と笑顔になっていることをまるで他人事かのように感じていた。頭が追い付いていかない。
「燥、耶。」
本当にそこにいるのか。信じられない自分の心が言わせるのか、何度も燥耶の名前を呼ぶ。
夢ではないはずなのに、夢の中のような。現実で起こっていることのはずなのに、まるで虚構のような。長い間求め続け、そのために歩き続けた末の再会に、沙枝の頭の中は真っ白だった。
沙枝は無意識のうちに、一歩二歩と歩みを進める。そこは川の中。沙枝を包む流水は、彼女の味方だった。徐々に速度を上げる。急がなくても燥耶がいなくなってしまう訳ではないのに、もっと、もっとと足を進めるのを止められなかった。
燥耶の元にあっという間にたどり着く。燥耶は、瘦せていた。それでも、それは沙枝が追いかけたその人で間違いなかった。
「燥耶。」
燥耶は座ったまま、笑顔のまま、両手をそっと、迎え入れるように広げる。
「燥耶!」
沙枝はその胸元に、ためらいなく飛び込んだ。
「ありがとう、沙枝。」
すみませんが次回の更新は23日(日)となります。
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