十
「明日軍の方に顔を出しにこい。詳細はその時に連絡する。」
そう言い残して、それ以上のものをその場に落として、夜継は大広間から去っていった。その場に座ったままの二人は動けない。沙枝は顔も上げられなかった。もはや心の内を満たすのは、怒りでなく悲しみ。夜継を目の前にして何もできない自分の無力さに。軍という新たな悲劇を生み出す一員になってしまったことに。神という存在が自分のこの《守り手》という役目を与えたならば、力を貸すなり助言をするなりしてくれればいいのに。今まさに私はそれを欲しているのに。理不尽だと思った。
「ごめん、沙枝。」
不意に聞こえたのは燥耶の声だった。
「何で燥耶が謝るの。謝らなくていいよ。」
「でも、…なんだか巻き込んだみたいになっちゃったから…。」
「私だって《流水の守り手》なんだよ?夜継が見逃してくれるはずないよ。」
「いやでも、もし俺がもっと強く沙枝みたいに色々言えてたら、また違ったのかな、って。」
「いいの。燥耶は悪くないから。そんなこと言わないで。それに、きっと燥耶がなんと言おうとこの結果は変わらなかったと思うよ。
それよりも、悪いのは夜継だよ。二人ともに脅迫まがいのことして、強制的に軍に組み込むなんて。ここまでやると、予想してなかったとは正直言えないけれど、それでも、…ひどいよ。」
俯き続ける二人の間に暫く沈黙が流れる。
「俺…、全然思うように口が動かせなかったよ。」
またも先に口を開いたのは燥耶だった。
「夜継様を前にするとさ、どうしても。どうしても、あの時が視界のあちこちにちらつくんだ。そしてそれが心に浸食してくる。もう無理だって何回も思った。もし沙枝が隣にいなかったら、逃げ出していたかもしれない。剣を振れって言われた時も、何も考えられなくて。…悔しいよ。こんな不甲斐ない自分が悲しくてしょうがない。なんで…、こんな…。」
燥耶の頬に一つ、光の筋が伝うのを、沙枝は見た。初めてだった。燥耶がこんなに顔を歪めているのも、涙を流しているのも。どうしたらいいのか分からない。ただ、燥耶のこんな顔、こんなところは見たくないという想いだけが確かだった。頭が真っ白になる。燥耶の方へ手を伸ばす。どうにかしないと。そういえば私、燥耶の身体に触れたことないんだな、とか場違いに頭に浮かんだ。頭で考える以前の次元のなにかに動かされ、俯いて目をぎゅっと瞑り静かに涙を流す燥耶に、手を、心を、近づけていく。その一瞬のはずの時間が、とても長く思えたーーーーーーー




