十
突然、肺を締め付けられたかのような息苦しさが、沙枝を、そして周囲の巫女達を襲う。未知の強大な圧力を感じておこったそれは、どんどんとひどくなってゆく。赤く脈動する光を強めてゆくのは、一振りの神剣。今やその存在は、神に等しかった。人間が手を伸ばしてはならないもの。人間に出来ることを遙かに超え、恵みと災いの両方を届けるもの。沙枝は突如として覚醒した目の前の神に対し、恐怖しか浮かばなかった。安易に手を伸ばしたことを、激しく後悔した。しかしその恐れで、体が動かない。小刻みに震えながら、手に持っている神がどんどん放つ圧力を増していくのを見つめていた。
「いかん!《炎花》が暴走する!水の中に戻すんじゃ、沙枝!」
大母巫女が声を絞り出す。沙枝にもその気持ちはある。しかし体は動かない。修練を始めて半年も経たない身では、土台無理な話である。圧力が強まる。光も強まる。もう目を開けていられない。限界だ。強大な神から、そして自分の命運から目を背けたその時、
横から無造作に、沙枝の手から《炎花》は奪われた。
その途端、身動きがとれなくなる程強まっていた圧力も、周囲の輪郭をとばしてしまう程輝いていた赤い光も、嘘のように消え失せる。巫女達の誰もが未だ動けない中、動くのは一人。どこまでも無造作に、《炎花》を水へ放り込んだ彼は、こちらを振り返った。
燥耶だった。
目が合った。しっかりと目が合った。光のない瞳は前のまま。しかし沙枝は、その眼差しに確かに意志を感じた。初めての経験だった。
やがて彼は無言のまま、部屋から立ち去る。残された巫女達が動き出すまでには、長い時間を要した。
沙枝は里に続いて部屋を出ようとしたが、大母巫女に呼び止められた。
「沙枝、ちょっといいかね。」
祭壇の前に向かい合って座る。部屋の中はとても静かだった。
「すまぬ、沙枝。わしの考えが浅かった。古来から《炎花》は、《遣い手》にしか触ることの出来ぬものじゃった。普通の人間が触ると瞬く間に焼け死んだと伝えられておる。しかし沙枝、お主は《守り手》じゃ。わしは《守り手》として何も開花していない今のお主なら、皆と変わらぬ結果しか出んと思っておった。じゃが血には抗えんようじゃ。どうすることもできない無力なお主が《炎花》を手にしてしまうという最悪の結末となってしまった。あそこで燥耶が来なければどうなっておったか…。想像もつかん。
今回のことは逆説的にじゃが、お主が《守り手》であるということが改めて確認されることになった。沙枝、お主何も言わんが、《守り手》であることへの自信がなくなっておったじゃろう?それで少し悩んでいたのではないかの?心配いらんぞ、沙枝。お主は確かに《守り手》じゃ。引き続き修練に励むがよい。」
そう言い残すと、大母巫女は部屋を出てゆく。沙枝もそれに続いて部屋を出る。振り返るとそこには、入ってきた時と変わらぬ様子で横たわる神剣。やはり美しさを感じずにはいられない。しかしその美しさには陰があった。神は恵みと災いのどちらをも引き起こす。その強大な力の前で、沙枝はあまりにもちっぽけだった。