四
「……ぼ、僕、沙枝に言わなきゃいけないことがあるんだ」
沙枝を呼ぼうとしていた声が止まる。声だけでない。燥耶の全ての動きが停止した。心臓でさえも、その動きを止めた気がした。
「……それって?」
「それは……」
間が空く。燥耶の脳が少しずつ動き始めた。しかし、ただ響夜の言葉を聞くだけの現状は変わらない。
「沙枝はこれから、危険に立ち向かっていく訳だろう?」
「うん。そう、なるね」
「すると、大けがをしたりするかもしれない」
「想像したくはないけど、そうなるかもしれないね」
「僕、今日の沙枝の様子を見ていて思ったんだ。正確には、横たわる咲と、その側について看病する沙枝の姿を見て、かな」
ああ。燥耶は納得した。響夜を決心させたものは、燥耶も感じているものだったからだ。響夜の方が別れが少し早かったから、その感情がより迫ってきたのだろう。沙枝には分かっていないようだったが、燥耶にはその後に続く言葉が容易に想像できた。
「……?」
「沙枝が目の前に横たわるのをただ僕が見つめるだけ、そういう未来が来てしまってもおかしくないんだな、って」
そう。まさにその通り。沙枝は俺が全力で守る。でも、全てが終わった時、沙枝が今のまま元気だという保証はどこにもない。
「それは……。そりゃ、そうかもしれないけど……」
「だから」
その声には、今までと違い強い意志を感じた。響夜の決心が、完全に固まった音に聞こえた。
やめてくれ。その先は……!
「僕は、今、沙枝に伝えておかなくちゃいけないことがあるんだ」
もう耐えられなかった。疲れはてていたはずの足が、今までとは逆方向に勝手に動き出す。今はとにかく、続きを聞いていたくなかった。二人の近くにいたくなかった。なるべく早く離れたかった。
歯をくいしばり、燥耶はもう一度走り出した。
気付くと、自分の家の前まで来ていた。我に返ると、身体が限界を迎えていることが良く分かる。毎日鍛えているってのに、なんて情けない。燥耶は自嘲した。門に背を預け、その場にずるずると崩れ落ちる。完全に座り込んでしまっても、上がった息はなかなか元に戻ってくれなかった。
「はは……」
何故か乾いた笑いが漏れる。分かっていたはずだった。いつかこういう日が来ることも、こういう気持ちになるであろうことも。今日だって、それを覚悟して沙枝を送り出した。それでも。実際に耳にしてしまうと、それは覚悟していたものなんて比べ物にならないくらい強く、燥耶の心を揺さぶった。沙枝が自分の隣にいることが当たり前ではない、当然のようにずっと続く訳でもない。気付いていても目を背け続けていたその事実を、目の前に突き付けられた気がした。
「でもな……」
この後沙枝が帰ってきて、今度は自分が気持ちを伝えられるかというと。俺には言えない。そう思った。響夜の必死そうな声を、聞いてしまったから。響夜の精一杯になった顔が、容易に想像できてしまったから。自分が気持ちを伝えようとしても、それらが頭に浮かんできて、冷静にいられなくなるのは確実だった。
「ははは……」
燥耶は座り込んだまま、乾いた笑いを発し続けた。




