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振り込まれてきた五百万円



「僕この方が轢かれた日に近くでいました。そして僕が救急車の手配をさせて貰いました。

まだ生きて居られて痙攣されていました。可哀相に。憤りを感じます。」

その言葉が全てであった。


「吉野さん私の車に乗って、共に戦って頂けないでしょうか?」

川村源次郎は、にっこり笑って吉野の手をつかみ、更に両手を被せて、その手を何度も何度も握り締めながら振り続けた。



吉野がもし大和高田の伊貝兄弟にマークされるような事に成っても、川村源次郎とくっつけば誰も手を出せないだろうとその時気が付いた。。

もし九州鹿児島発で動きがあれば、それは危険な動きになる事が考えられ、直接川本ゆかりと話していない吉野には、九州へ行った事が不安な出来事であった事も結果として確かであった。


選挙カーに乗せて貰う事に成った吉野は、投票日の前日になった時川村源次郎より直接声を掛けられた。                        


「吉野さん貴方の考えで良いから有権者に直接訴えて頂けませんか?あの事故の第一発見者として」

「僕がですか?旨く言えるか分かりません。川村さんにご迷惑かけてはいけません。」

「いえ貴方なら必ず有権者は注目する筈です。力強くお願いします。皆さんにぶつけて下さい。」

「分かりました。」


橿原神宮前駅正面出口に車を止めていた。


《有権者の皆様、川村源次郎がご挨拶に参りました。いよいよ明日は投票日です。でも選挙が終われば皆さん関心が薄れ、今までと対して変わらない生活が又始まるのです。


詰まり誰が成ってもそんなには変わらないのです。市長、それに四十名の市会議員、そして七百名の市の職員。この人達がみんな頑張っているから市政は何ら問題が無いのです。


川村源次郎は長年大手商社で勤務して参りました。

世界中を飛び回っていました。今世界では一握りの米、また一かけらのパンを食べる事も出来ず命を落とす子が沢山います。

一杯の水を飲むために三時間、危険な肉食動物が暮らすサバンナ地帯を歩いて水を汲みに行かなければ飲めない国もあります。戦火の止まない国もあります。平和と言う言葉を忘れた国も沢山あります。笑うことさえ忘れた国もあります。


しかし日本はそんな国ではありません。豊かな国なのです。

そんな中で川村源次郎がこの度市長選に立候補させて戴きましたのは、一人の若い女性が遥々大阪から橿原市に来られて、車で轢かれ殺されたと言う悲しい事が起こり、そして未だにその犯人が捕まっていない事に憤りを感じたからです。


これではいけないとご自身の一人息子さんも交通事故で亡くされている事もあり、満を持して立ち上がったのです。

世の中幾ら豊かに成っても、犯罪が頻繁に起こったり、自殺者が多かったりするようではいけないのです。

川村源次郎は、明るく安全で豊かな未来の在る橿原市を作るべく事を目指して、立ち上がったのです。


犯罪や暴力や自殺など全く無い街に為ることを願って。幸せな人が幸せと言わなくても良い、しかし幸せでない人が全く居ない町にしなければならないのです。


川村源次郎はなまじっかな考えで立候補していないのです。命がけで立ち上がったのです。どうか川村源次郎の心を読んであげて下さい。

では本人が最後のご挨拶を申し上げます。》


吉野が成れない経験で、マイクを持つ手も声も震えながら話し続けていた。

その横で川村源次郎が涙を滲ませながらその声を聞いていた。川村源次郎は若者吉野忠助を心より礼賛した。


《有権者の皆様。ありがとう御座います。

こんなにお集まり戴きまして心より感謝申し上げます。今前座を務めてくれた彼は、轢き逃げ事件が発生した時に救急車を手配され尽力してくれた青年です。

私の心いきに感動して戴きまして今回助けて貰っています。


初めてなのに立派に話してくれました。この選挙に立候補した事が、今改めて良かったと心の底から込み上げて来ます。

私は現役時代は世界中を飛び回っていました。鉄砲の弾が飛び交う所も何度も出かけました。

仲間も銃弾で倒れています。


日本と言う国がどれほど素晴らしいか計り知れないのです。

でもその日本で、更に橿原市で人が殺されたのですから、そしてまだ犯人が捕まっていないのですから何とかしないといけないのです。


悪質で非常識な者が居ない世界を作らなければならないのです。

橿原市に於いても奈良県に於いても、勿論日本中でも、晩節を汚すような者は断固として排除しなければならないのです。


誰もが安心出来る街でなければならないのです。

私は公約がどうとかと言う事より、落ちこぼれや幸せで無いと感じるような人が全く居ない街づくりをしたく思っています。くどくは言いません。明るい橿原市に向かって、豊かであり幸せとみんなが感じる理想の橿原市に向かって邁進させて戴きます。


命がけで頑張らせて頂きます。どうか川村源次郎を・・・》         


 溢れるような拍手が近鉄橿原神宮前駅の正面出口に響いた。          

満願の思いで選挙戦を閉じた。

明日は投票日である。 吉野は途中からの参加であったが、スタッフからすこぶる好印象の中に包まれていてそれを快く感じていた。


早翌日になり投票が始まり、夜になり、九時ごろに開票率四十パーセントの結果が発表された。

川村源次郎は二番手につけていたがトップとの差はかなりあった。


トップを走っているのは現職の里林太郎で、三期目を満了したバリバリである。

更に川村には市の施策がと言うより、轢き逃げ事件が中心であったから万全ではない。それも承知で戦っていたから現役が実績を口にすれば勝てない事も判っていた。


現役が不祥事でも起こして全てが新人ならともかく、新人に共通した厳しさであった。

それでも最後まで川村は食い下がり、最終的には僅差まで詰め寄っていた。


それでも負けた。


ただ吉野はこの選挙で、もし轢逃げ犯が存在する事を同時に公表すれば、日本中に伝わりマスコミを動かせ、選挙自体が騒乱の起爆になる様に思えて来て、思いのほか僅差の選挙結果が吉野の心に火をつけていた。


もし次期にこの候補が同じ事をして同じ思いで出馬すれば、四年後は轢き逃げ事件も風化しているから、なお更インパクトがあると思えた。


《四年前から一人で突き詰めて参りました。しかし今犯人に辿り着く事が出来ました。

この選挙期間中に犯人をまほろば警察署に差し出す事をお約束致します》とか締め切り前に演説すれば間違いなく川村は一躍有名になり、大きな渦が起こる事が吉野の頭には予想された。


それも可能である。間違いなく可能である。


吉野には喉まで手が出そうな思いであったが、それは策略であり、川村源次郎の意に反するものかも知れないと尻込みする事にした。


選挙が終わり、飲み会を再開した三人はその選挙の話で場が持った。              

「吉野さん。俺見に行っていたのを知っています?橿原神宮へ、良かったですね。どちらが候補でも可笑しくないように俺には思えましたよ。」

「まさか。川村さんにあの日突然言われて、僕焦って、震えてくるし、汗が出てくるし」

「でも良かったですよ。」 

「そんな事がありましたか?私も見たかったなぁ吉野さんの晴れ姿を」             「いいえ、とんでもないです。僕何も分からずに・・・只あの人は、大手商社上がり兄が国税庁上がり、父親が警察官僚、みんなキャリア組って言う奴かも知れません。

そんな経歴だから、例え大和高田の伊貝が県会議員でも市会議員でも一目を置く事が予想されますので、言わばバリアーを張ったと思っているのですよ。


お二人が鹿児島へ行って来られた事は大きな成果があった訳ですが、あれからと言うものは見えない何かを警戒している事も確かで、少々神経質に僕は成っているのかも知れません。」     

「当然です。私も寧ろ私が先頭に成って事を仕掛けたのですから、正直心中穏やかではない事は事実です。」


「それはみんな一緒でしょう。だから気を引き締めていかないと、実際誰かに攻撃でもされたら、今は既にそのような状態だと俺は思うな。」

「そうですね。でも僕今回の選挙に端くれでも参加させて貰って良かったと思うのは、川村さんのような人が我々以外にも居られる事を知った事だけでも大きかったと思いますよ。

展開次第ではあの人を仲介して警察に直談判する事だって可能だし、危険に成ったらその時は決して敵にはならないと思いますよ。         

僕はほんの僅かですがあの人に貸しを作っています。だからこれからも一緒にやっていかないかと言ってくれています。



【安心が第一橿原市民の集い】とかの名前で発足すると言っていました。 でも僕は所詮そんな善良な市民ではなくあんち警察をスローガンにしている男です。」 

「それは私も同じ事」 

「俺はどうでもいいよ・・・」


三人は久し振りに笑った。 

「今日はこの話を止めて、岩村さんの力で盛り上げて下さい。」        

「よし解かりました部門長。」


久し振りに楽しい飲み会と成ったが、近鉄八木駅で二人と別れた吉野は、直ぐこの前の選挙の事を思い出していた。

おそらく大和高田の伊貝兄弟の元に、川村源次郎の事が情報として入っている事が予想されたのである。

伊貝兄弟はおそらく、見えない吉野たちの脅迫に苦しめられ、警察官僚を父に持つ男にいびる様に小路回され、さぞうんざりであろう心中を思うと可笑しく成って来た。吉野が最終的に到達する概念であると思えたから実に快良かった。



天誅であると思った。苦しんで、更に苦しんで地獄を見れば良いのにと思った。

伊貝隆司が地獄を見た時、あの轢き晒しにされていた花村貴美が浮かばれるだろうと思えた。


また二十代の頃、草むらから生草をちぎって、点数稼ぎに邁進して飛び出して来た警察官の、あの獲物を捕ったような勝ち誇った顔が頭に浮かんで来ていた。


「貴様らの名誉も権力も、その狡猾な根性も、勘違いしたおごりも全部剥ぎ取ってやるからな!」


夜風に晒されながら吉野はいつの間にか、握りこぶしを空に突き挙げていた。


それから二ヶ月が過ぎ新年を迎える頃に成っていたが、何一つ変化の無い時間が流れていた。通帳の残高も問い合わせると全く変わっていない状態であった。


伊貝隆司が年間で受け取る議員報酬と同じ程の額を振り込んで来ているから、吉野たちも更に振り込ます事は考えていなかった。

勿論振り込ますと言っても決して脅迫でも悪質でもないのである。伊貝に訴えられる筋のものではないのである。


あくまで情報を買い取りませんかと言う仕組みであるから何ら問題など無い。

轢き逃げを見かけたのなら、国民として警察に報告すべきだと言われても、決して見た訳ではないのである。だからその一連の流れに誰も文句など言えないのである。まして振り込んで来たお金は、吉野でも岩村でも野坂でもない、佐藤準一と言う訳の判らない男なのである。




吉野も岩村も野坂も年が替わってからも、小雪を見つめながら小休止するようにこの二年近くの過ぎた日を思い出していた。


お屠蘇気分が抜けきらないそんなある日、吉野は久し振りにパチンコをしたくなり、ホールへ向かっていた。

久し振りのパチンコは派手な台が増え、目が痛くなる演出に少々疲れて来る有様であった。

かなり頑張っていたが対して思う様に成らず、苛立って来たので休憩室で小休止する事を決め、ソファーに腰を下ろしてパチンコの専門雑誌を手に取った。

直ぐに隣のソファーに座った五十あまりの歳の男が、


「私聞かせて戴いていましたよ。」と言ってにこっと笑って吉野の目を見た。

鋭い目であったが思いっきり笑っていたのでその印象を和らげた。

「選挙ですよ。橿原神宮前で」と言って更に笑った。

「あぁそうですか?僕も突然言われまして。川村さんに」

「突然?それにしては随分お上手でしたが・・・」

「いえ、とんでも御座いません。全くの素人で」

「そうですか。確かに声を震わせていましたから、そのように思う時もありましたが、でもそれが良かった。新鮮味があって、真面目さが際立っていて、貴方が話されたからあの場で相当数の票を掴んだと思いますよ。」

「それなら嬉しいですが」

「ええ間違いなく」

「ありがとう御座います。」


「ところで失礼な事をお聞き致しますが、川村さんとはどのようなご関係なのでしょうか?

お歳も離れていますからちょっと気に成りましてそれはあの轢逃げ事故があったから・・・貴方が救急車を手配した様な言い方をされていましたね。川村さんが・・・」


「ええその通りです。」

「ではその時もしかすると第一発見者なのですか?」

「かも知れません」

「では何かを、犯人が何かを残してないか見られたのじゃないのですか?」

「いえ私は何も」

「そうですか。そうでしょうね。何かを見ていれば警察に言わなければいけないですしね。」

「ええあの時警察に知っている事は全部言いましたから」

「そうですか。すみませんいきなり。早く犯人が逮捕される事を願っています。是非今度も出て下さい。私も応援させて頂きます。

あんなに接戦になったのですから当然又次回は出るのでしょうね。」

「さぁ僕には判りません」

「そうですか。では失礼致します。私も台に玉を入れたまま放っていますから、店員に叱られるかも知れませんので。」


そう言ってその男は吉野の元から去って行った。

吉野は見知らぬ人に声をかけられ少し緊張気味であったのか、トイレに行きたく成って歩き出した。窓の外に先ほどの男が見えた。


颯爽と歩いている。やがて車に近づいてライトを点滅させた。真っ白なトヨタセルシオであった。

吉野は思わずその車のナンバーを頭の中に叩き込んでいた。

その車は吉野に見送られている事も知らずに、その儘駐車場から消えて行った。

西方面に走って行った。それは大和高田に向かう道であった。


パチンコをした気配など時間から言ってもなさそうである。台に玉を置いた儘にしていると言ったがそれは嘘である。


吉野はその事をあくる日に会社へ行って岩村と野坂に緊急連絡でメールを流した。

「いよいよ迫って来ましたねぇ吉野さん。気をつけて下さいね。あの日から、橿原神宮駅前で演台に立った日から、付けられている可能性もありますよ。当然吉野さんの自宅も。」

「そうですか・・・ある程度は解かっています。

ねぇお願いがあります、二人にこのナンバーの車誰のか調べて貰いたいのですが。今僕は動けないと思いますから」


「いいですよ、俺その様な事前に何か関係した事があったから見つけられると思う。」

「では私も何とか調べてみます。」

「多分僕はあの男や他の誰か分からない者に、監視されているかも分からないですから、これからは動けないと思います。当分飲み会も自粛するほど良いのかも知れません。」

「そうですね。下手すりゃ一網打尽なんて困るからね。」

「ええその通り。私も考えます。飲み会は別な場所で。それも暫く様子を見てから。それに最近会社に入って来た者が居ないかそれも気にしていないと物騒ですから。」

「お願いしておきます。」

「そう、これからは野坂さんが俺に遠慮なく指図してくれればいいですから」

「指図だなんて生意気な事出来ませんが」

「いいや指図して、吉野さんもそれで良いでしょう。」

「ええ二人でお願いします。只あの選挙があってから、三人で何回も会っているでしょう。皆気をつけないと。だからこれからはメールで済ませるものは済ませましょう。」

「そうですね。」


それから僅かの内に岩村から吉野にメールが来た。パチンコ屋で出会った男は、金融業のヨシオカススムであった。

吉野たちが作っている銀行口座佐藤準一へ、昨年の大和高田市会議員選挙の後、三百万円を振り込んで来た男である。


吉野は岩村から送られて来たスマホのメールを見ながら、押し寄せてくる何かを感じずには居られなかった。

色々な事が繋がれば繋がるほど、それが現実であり大人の社会である事が、拳を挙げたのも自分でありながら怖さも倍増して来ていた。



組織や権力、さらには組織にまつわる跋扈の連中、さらには狡猾な企み、籠絡な者たち、それら全ての【悪】を相手に回す訳である。

先日のヨシオカススムなど、正にその筋の映画に出てくる様な風情を醸し出している男であった。

弱い人達を言葉巧みに籠絡に裁き、夢も希望も命でさえ奪い取り、悠然と立派な車に乗って生きているのである。


誰が許そうこの男を。

それから吉野は何故か川村源次郎に逢いたく成って来て川村宅を訪ねていた。  


「よく来てくれました。

あれからご無沙汰したままで、一度も二度も貴方のお宅にお邪魔しましたが、何れもお留守であえなく帰って来ました。只気に成っていましたからいよいよ電話でも入れさせて頂こうと思っていた所です。」

「僕の家にですか?」

「そうですよ。あんなにお世話に成ったのに。

ですから・・・あぁ、この前で三回目に成りますお邪魔しましたのは。」

「へぇー申し訳ありません妻も働きに行っていますし、子供も一人居りますが保育所へ。そうでしたか申し訳御座いません。」


「いやぁ、貴方のあの時の神宮駅前での前座は素晴らしかったと、後援会の方に何度も言われているのですよ。出来れば当選したかったですが申し訳ない。」

「いやぁ初陣であの結果、素晴らしいですよ、大健闘ですよ。」

「でも選挙は通らないと駄目ですから」

「いえ、当選も大事ですが、出ようとする意気込み程大事ではないでしょうか?

負けてもいい。余計なお金が要ってでもみんなに伝えたい。みんなに知ってほしいと思う気持ちが、何れは市民の方に解かって貰えるのではないでしょうか。

僕は川村さんが何かをして頂けるのではないかと期待しているのです。


正直現市長は真っ白でしょうか?」

「あぁ色々聞きますね。でも力が在るし、才能がある。結果も残している、当然現役である。私なんかはこの様な現実と戦わなければならないのですからそれは厳しいのです。」

「だからそれが選挙で、大人の世界なのでしょうね。しかし僕の様な者でも色々聞いていますよ。今の市長のお父さんの事を。」

「ええ私も色々耳に入っています。」


「そうでしょう。それも実力って成った時、例え悪でも勝てば良いと成るのではありませんか。鮎の如く狡猾に潜り抜ける者が勝つと言う事じゃないでしょうか?


川村さんは決してその様な方ではないと思いました。心にも感じました。選挙の間は僅かの時間でしたが僕は何かを感じ、あの橿原神宮前駅の前で急にマイクを持つ事に成った時は、この人は間違いないと思いました。この人に任せば良いと思いました。


今日もまた実は感動しています。それはお邪魔するに当たって、多分豪邸で暮らしておられると思い緊張していました。以前の選挙中は事務所にお邪魔しただけですからご自宅の事は判りませんでした。。

あのような肩書きをお持ちですから、ましてお父さんやお兄さんも立派な人ですから、でも今こうしてお邪魔させて戴いたら、僕の家と然程変わらないですね。

大きさも特に立派な家具も見えないし、全く気飾りされない方だと感じ気を良くしているのです。

失礼な事を言って申し訳ありませんが、奥さまも聞いて戴いているのに、僕は余計な事を口にしまして。


でも川村さんが言われる誰もが住みよい街、犯罪の無い街、安心して生きれる街、そのような事が第一だと僕も思います。自慢するものが無くっても。」

「いやぁ吉野さん私の一番の良い所は、自分で言うのも変な話ですが、何も飾らない所かな。でもそれが一番であり続ける事って実は大変なのですよ。

みんな変わって行ってしまうのです。

私が会社勤めをしていた頃によく感じた事は、外国へ行っている間に同僚が出世して、帰って来た時は別人に成っているって事よくありましたよ。何年も行っていると。


しかし私のような者は砂漠でさそりと隣り合わせで眠る事だってあるから、何時まで経っても一平卒だから、格好なんか付けている場合じゃないわけです。 格好より水で、格好よりパンと成るのです。

それに銃口が此方に向いていないかとか常に考えないといけないですから。」          


「凄いですね。今度時間がある時、色んな話をお聞きしたいです。面白そうだから。」

「そうです。聞くのは面白いです。五十度ある砂漠の話を冷房が効いた部屋で聞くのですから。」

「全くその通りです。」

「でも橿原市の事も会社へ行っている時から、色々聞かされていましたよ。貴方はまだお若いから、興味など無かったかも知れませんが。

大阪の本社に最後は帰って来た頃、橿原から通っていた連中が口にしていた事は、その子らは私が口利きしてあげて我が社に入る事が出来たのですが、今の橿原市長のお父さんが大阪で区長をしていて、その時の噂が一杯在るって、あの子ら言っていましたね。


それと言うのも大阪は毎年区画整理をして道路の拡張などするでしょう。

まだまだ大阪も整備が必要な所が沢山ありますから、蛇が蛙を飲み込んでいるような所が。


それでお父さんが区長をしていて、何処とは言えませんが、勿論調べれば直ぐに判る事ですが、区画整理が水面下で決まった時点で情報が外へ流れていたようです。

そしてその対象場所に、それがアパートなら裏社会の人が住み着くわけです。

勿論可成の人が。そして立ち退き保障や移転保障を手にするのです。更に次に区画整理される所へまた替わる訳です。仲間を使って、


このようにして何度も保証金を手に入れる訳です。

勿論同じ人ならばれるのですが、人を替えるからばれないのです。


更にその煩い人達を纏めてあげると言う事で、大物が現れて更に高額に成ると言う事です。

この裏社会の連中に情報を垂れ流ししていた人が居ると言う事で、その張本人が市長のお父さんであると言う噂が流れた訳です。」        

「まさかその様な事が。僕も何かと良くない事を耳にしましたが」

「こんな事誰も知らないです。知っているのは市長派の者となるのです。でも知らないかな?ここまでのことは。


内の会社は大阪市役所と関係が在る会社だから、いろんな情報が入って来ますからね。

詰まり選挙とは正しい人が勝つのではなく、強い人が勝つのです。だから幾ら良い事を言っていても、勝てない仕組みに成っているのです。」

「でも川村さんはそれを分かりつつ選挙に出られましたね」

「ええ、仰る通りです。」

「だからそんな人も居ていると言う事なのでしょう。例え負ける戦でも、出る価値が本人に在るわけですね。 でも何時かはそれが誰かに解かって貰う様に成る訳ですね。そしてそんな人の輪が他の候補より大きく成れば当選と成るのですね。」

「そうですね。」

だから本当は今の市長は二代目です。大阪で区長をされていたお父さんが一代目なら。だから市長を語る有権者は、市長も立派だけどお父さんも立派な人であったと言うのが常の筈が、全くおかしいでしょう。その反対だから、反対の噂が立つのだから。」


「だから有権者ももっと勉強しなければいけないと思います。良い所しか知らないから有権者は、見ようとしないから。」

「そうでしょうね。誰かが打ち破らないと。それが川村さんかも知れませんね。」

「私の心は何時までも普遍です。未来永劫に。今までからそうだった様に。」

「じゃあ戦いますか?」

「それはまだ決めていません。貴方のような方を頼るわけには行かないから。一番頼みたいのは本心ですが。でもそれはいけない。若い人は他にしなければならない事が一杯あるから」

「でも後四年あります。そして轢逃げの時効が七年ならそちらも五年あります。」

「ええ」



「では僕はこれで失礼致します。今日は来させて頂きまして、良い話を聞かせて頂き有り難う御座いました。 でも選挙ってアメリカの様に、ネガティブキャンペーンも必要かも知れませんね。勝てば官軍なら・・・

川村さんが今日言われた事を言えば、可成違って来ると思いますよ。でも卑怯に成るのかな」   「私もそのように思う時がありますね」

「川村さん もう一度頑張りましょうよ。綺麗な心のあなたで戦いましょうよ。」

「はい」




吉野は川村源次郎の自宅を後にして帰路に着いた。僅かな時間であったが豊かな気持ちにさせて貰ったと思えていた。川村源次郎はそのような風情を持ち合せた真っ直ぐで大きな男であると思えた。

それが解かっていたから、今日このようにしてお邪魔をする事に成ったのである。


何時の日かこの男とタッグを組んで立ち上がりたいと思えていた。

それは権力や名誉を重んじる愚かな連中に立ち向かう事であった。


飲み会を自粛してから、テンポが狂いだしたのか三人共覇気が弱まっていた。

しかしその様な事は言っていられない訳で、何時誰かに襲われるかも知れないと思っていないといけないと吉野は常に警戒をしていた。


会社で二人の姿を見ると何とも無かった事が嬉しく安堵感で一杯に成る日が続いていた。

それほどまでに警戒する様に成っていた。具体的に何も起こっていないが、あのパチンコ屋で話しかけて来たヨシオカススムの笑顔が不気味でしょうがなかった。

彼らは行く所へ行けば、それなりの連中が集まって、ドスだの拳銃だのと威嚇し合うのであると思われるが素人では何も出来ない。


吉野はここへ来て自分が決して強くは無い人間であるかと思わされている毎日であった。

こんな事経験が無いと言うのが実情で、意気込んでいた今までの吉野に比べると結構メロメロに成って来ていて、川村源次郎の宅を訪ねたのも何か策を貰いたかったのかも知れないと思うのが現実であった。

春になれば今年は早速奈良県議会議員選挙が行われる。あの大和高田の伊貝直助も名を連ねるだろう。

そしておそらく大和高田市議会が推薦する事は間違いなく、弟の伊貝隆司も応援に没頭する気がする。


しかし吉野は今までの様に懲らしめてやろうとか、苛めてやろうとか、貶めてやろうとか一切思わなかった。

やはり大人を怒らせると言う事は、危険であると言う事が肌身で感じていたのである。ウラベマコトやヨシオカススムが懐にドスや拳銃を持ち歩いているかも知れない。

小さい子供のいる吉野には段々荷が重く成って来ていた。           

「吉野さんこのごろ元気ないですね。」

「吉野さんどうされましたか?」


二人に会社でそのように言われ、自分でも我を忘れた毎日に成って来ているのであった。

何が彼を消極的にさせているのかは、ヨシオカススムのあの柔らかい目に圧力があったからで、それは人はどのような怒り顔をしている人より、どんなに鬼のような怖い形相の人より、にこっと笑った笑顔で迫られる時ほど怖いものである。

冷酷さを感じる。ヨシオカのその表情が頭から離れなかった。


まだまだ寒さが厳しい時に、県議会議員選挙が火蓋を切って始まる事となった。

思い通り伊貝直助は大和高田市議会公認、葛城市議会推薦と言う押しも押されもしない塊に成って選挙戦を戦っていた。        

吉野は伊貝の選挙には目立たないほど賢明だと思って静観していたが、野坂由紀夫が伊貝の事務所に足を運んでいた。そこで野坂はとうとう伊貝の仲間で金貸しの男ウラベマコトの姿を見る事に成った。 しかしウラベは野坂の事など全く関係がないような素振りで、この時とばかり張切っていたのである。



間違いなく何もかもが繋がって、伊貝兄弟、ウラベマコト、ヨシオカススムが一直線上に並んだ事に成った。

野坂がその事を吉野に報告した。 

「吉野さん、野坂です。伊貝兄弟とウラベマコトそれにヨシオカススムが完全に一本の糸で繋がりました。

弟の伊貝隆司も当然選挙に来ていたから、まるで虫干しでした。黒幕が全員集合って感じで」   

「そうでしたか。終に役者が揃ったのですね。良くもそこまで踏み込んで・・・

僕は最近何故か消極的に成っていたから、野坂さんのような行動が出来なくて、だから今の情報はとても有り難いです。

僕は野坂さんや岩村さんに比べると、恥かしながらやや繊細で臆病かも知れません。

只余計な事を言うような気もしますが、急に気に成って来た事があります。


それは伊貝兄弟やウラベマコト、ヨシオカススムなどと比べると、同じような重要な立場に在る鹿児島の川本ゆかりの存在が気に成っています。

僕が直接彼女から何も聞かなかったからかも知れませんが、この人が口を封じられると伊貝の思い通りに成りはしないかと思っています。

あの轢き逃げ事件の唯一の目撃者は正に川本ゆかりではないでしょうか?

僕ら三人は何も判っていないのですから、実際事故を目の当たりに見た者は川本ゆかりだけなのですから」

「そうですね。部門長の仰る通りです。」

「だから川本ゆかりの安全は全く問題無いのでしょうか?」

「それは判りません。私はあの人に、もし伊貝に貴女から連絡を入れて、私が危険な目に遭わされるような事になれば、警察が直ぐに伊貝の元に走りますと伝えていますから、問題は無いと思っていますが、只こちらの状態から危機を感じ伊貝兄弟が刺客を送り込む様な事を発想した時は話は全然別問題ですね。


伊貝兄弟にとって川本ゆかりが生きている事は、命取りに成る事も考えられるわけですから、正に目撃者を失くす事に成る事は間違いないです。


野坂さん僕一度九州へ行って来ます。鹿児島で何もかもを詰めて来ます。いよいよ伊貝の犯行をぶちまける時が来ているのかも知れません。

あの橿原市長選挙に出られた川村源次郎さんとも話し合って、何もかもを表面に出し、伊貝兄弟に罰を受けさす様に進めようと思います。駄目でしょうか?」


「いや私は何とも言えませんが、まだ時期尚早と言う気も致します。その時期ではないのではないかと」

「野坂さんはまだだと言われますか?」

「ええ、吉野さんが今危機感を持っておられるのはよく解かります。だから何とかしたい気持ちも解かります。

でも今貴方が動いても、仮に川村さんの様な人を頼りにされているのなら、もっとあの人に接近されてお互いもっと信頼し合える状態に成ってからでも遅くは無いと思います。


川村さんの選挙用のパホォーマンスで一時のものなら困る事ですし、頑固に轢き逃げ事件を解決するまで一途な気持ちなのか、今の時点では判らないのです。少なくとも半年位は共に行動して、川村さんがこの事件の解決に汲々としている姿を見届けてからでも遅くは無いと思います。


私は次期の橿原市の市長選挙でも遅くは無いと思っています。

それまでに警察が犯人を探し当てたのなら、残念ですがこの話は無かった事にと成るのですが、でもこの轢き逃げ事件は迷宮入りしそうですね。まさかとは思いますが、伊貝兄弟が警察に働きかけているかも知れないですし、全く判らない事件に成っているのかも知れません。


只はっきりしている事は我々が事実を摑んでいると言う事です。

ウラベマコトもヨシオカススムも伊貝の指図で佐藤準一にお金を振りこんで来た事は、揺ぎ無い事実なのですから、ですからその事実を考えただけでも伊貝兄弟にとって余程不利か計り知れないと思います。


だから今動く事は、相手方を追い詰め過ぎるような気がして、寧ろ有利に立つより、今まで培って来たものが壊れはしないかと思われます。

小さな獲物に惑わされて大きな獲物を取り逃がすようなものです。


私は貴方が川村さんとタッグを組んで、今度の市長選で戦えば、何もかもが上手く捗る様に思えます。


それまでは時間があるわけですから、みんなで知恵を出し合い、強力な関係の我々を構築して大きな組織に仕上げるのです。

新聞やマスコミを利用できるものは全部利用して、堂々と怖がらなくてもいい方法で、しかも変に手出しなど出来ない組織にして、派手に戦えばと私はこのように考えます」


「野坂さんはさすがお兄さんが新聞記者だと仰っていましたが、正にそのような雰囲気が出ていますね。野坂さんの言葉を聞きながら、心の中でうずくまっていたものが取れて行くような気持ちに成ってきました。


僕はこの前のパチンコ屋で出会ったヨシオカススムの残像に追い回されていて、少々参っていたから、考えが狂い始めていたのですね。

今貴方の考えを聞かせて貰っていて、それが判りました。 今は外を向くより中を見るべきだと言う事がよく判りました。」

「そうだと私は思います。だから吉野さんは川村源次郎さんに近づいて、あの方の心の中に飛び込む事が大事だと思われます。詰まりそれは橿原市の頭を取ると言う事に繋がると思います。」

                       

「市長選で勝つって事ですね」

「そうです。勝つ事によって多くのものを摑む事になるのです。私たちの一番の目的を思いますと吉野さんは何でしょうか?」

「それは以前にも話したかも知れませんが、権利のある人に対する怒りです。権力で我々の様な弱い者を牛耳っている連中に対して抵抗する事です。

そして権力を利用している連中に対する戒めです。僕の場合はこんな事が切っ掛けに成っています。」                      

「私も吉野さんと同じような気持ちです。私の兄は長いものには巻かれろと言ってはいましたが、決して汚れた記事を書くような人ではありませんでした。新聞屋でありましたが、凛とした考えや態度は誰にも負け無いような自負を持っていた人です。

その弟ですから、まして兄の事を尊敬していますから、正義魂が働いて私の心が動いているのだと思います。

公人が悪い事をしてそれを隠蔽しようとしている姿を、私たちは目の当たりにしているのですから、この現実は無にするような話では決してないと言う事だと確信します。                

戦いましょうよ。吉野さん、仮に我々にどのような罪が在るかは知れませんが、戦いましょうよ。 

今度私も川村源次郎さんの所へ連れて行って下さい。勿論岩村さんも。これからの四年間で皆で大きな輪を作って仕上げましょうよ。川村市長を囲む輪を」  

「ええ野坂さんは建設的な意見をお持ちで勇気付けられます。僕なんかは貴方のような力や知能を持たなければ成らないのですが、野坂さんのスケールには到底及びません。」

「いえいえ、そんな事は御座いません。でも何一つご心配なく。何故なら貴方はまだ三十過ぎ、これからなのです。今川村源次郎さんに力を注ぐと言う事は、何れ貴方も橿原市の市会議員と成り、やがては市長に成るのです。

そのような構図を頭で描いて望まれたらいかがでしょう。ヨシオカが怖いとかウラベマコトが気になるとか、そのような事言っている様じゃまだまだって事になりますよ。

暴漢に襲われるのも、暴言を穿かれて叱咤されるのも当たり前なのです。更には時には唾を掛けられる事も」                   


「なるほどね。そのようなものですか」       

「そうです。だから家族も同じように危険な思いや辛い思い、更には情けない事にも耐えなければ成らないのです。それが選挙であり政治と言うものです。人様から貴重な一票を戴くと言う事は」  「なるほどね。仰る通りだと思います。ただ僕に出来るかなど判りませんが」           「出来ます。今から鍛錬すれば成る様に成って行くでしょう。」        

「野坂さん。今度貴方も川村源次郎さんの所へ行って下さい。そして今後のプランについて話しましょう。勿論岩村さんも一緒に」         

「連れて行って戴けますか?それは嬉しい。私たちであの人を担ぎ上げましょう。面白く成って来ましたね。」                     


「野坂さんと話していて何か道が開けて来た思いです。何もかもが具体的に成って来る様に思えて来ました。」                      

「そうです。頑張りましょう。そして悪い奴らをぎゃふんと言わせて、失脚させて、更に天下をとるのです。」                       

「おもしろく成って来ましたね。万が一この轢き逃げ事件で警察の関係者が迷宮入りに裏工作をしていたなら、更に大きな問題に成るって事だから、僕としてはその方がやりがいがあるって事です。

それも可能性が在ると思いす。他所の県でそのような事があった事を覚えています。

交通安全教会に勤める元警察官が自分の子が交通違反をしたので、それをもみ消した話、それと全く同じ理屈になるわけです。ありえない事です。他府県と言え実に腹立たしい話です。」            

「部門長もだいぶ警察にご立腹なのですね。」

「ええ貴方もでしょう?」

「ええ、勿論。」                        

「僕は常に思っている事は警察官が何故新聞に載るか不思議なのです。何故悪い事が出来るか分かりません。僕のような者でも、今まで警察のお世話に成った事などありません。 あったのは本当に違反ではなかった状態にも関わらず違反と強硬に言われて処分された事位です。


これからもそのような場合を除けば、最低の理性でクリアー出来ると思えます。

でも警察官と言われる人はそうではないようです。ネットで今警察官不祥事と検索にかければ未曾有の如く不祥事が表示されます。これって何なのかと実に不思議な事に僕には見えます。


何故そのような人が警察官になるのか、又そのような人を採用するのか、

この裏にあるのは不正採用などが頻繁にあり、不適切な人物でも、圧力とか賄賂とか親戚であるとか、忖度とか他にも何かあるかも知れません、例えば県職のOBに頼まれたとかそんなこともあるようです。


そんな組織であるから不条理な考え方が存在するのではないでしょうか。

だからこの事件が表面化して多くの事が見えてくれば、市民が目を覚ます事に成ると思っています。

現市長を見る目も変わってくるでしょう。お父さんの黒い噂も冷静に受け取る人も多く成るでしょう。」 

「そうですね。それが何より私たちの最終目標ですからね。あの金融屋から振り込まれたお金は全く関係ない訳ですからね。使う気も手を付ける事も全く無いお金ですからね。」       

「ええ、そうです。だからこの話が面白いのだと思います。目の色を変えてお金に拘っているのなら、我々も単なる犯罪者に成りかねないですからね。

だって佐藤準一って通帳も印鑑も見せなかったなら、ましてお金を触らなかったなら、全く誰の物なのか判りませんからね。」  

「はっはっは、その通りですね。」             

「世にも稀な事件となるでしょうね。」

「それが我々の魂胆だと知らずに」


吉野は久し振りに心がスカッとして来ていた。

そして野坂由紀夫に解きほぐされた事が誇りにさえ思えて来ていた。

仕事だけをしていればこの様な彼の人柄も考え方もまるで判らないが、この様に懐の深い考えを聞かされて、野坂と知り合いになれた事がどれだけ人生においてプラスに成るかとほくそ笑んでいた。



吉野は早速今後のプランを立てる事にした。


平成二十八年十月と先ず書いた。


そこまでの永い一本の線にこれから書き入れるのである。

初めに書いた言葉は奈良県議会議員選挙で正に今繰り広げられている選挙である。

この間に衆議院選挙もあれば参議院選挙も在る。

何しろ一番遅いのが市長選挙である。約三年半の年月になる。この間で何か不祥事とか辞めざるを得ない事が起これば選挙は早く成るが、四期目に入った現市長だから、簡単にぼろなど出さないと思われる。                    

 しかも次期は五期目となるからかなり市民に浸透して手ごわい相手であると言う事になる。

救いは前回の投票で川村候補の獲得票が現職に接近していた事実である。

「敗軍の将、多くは語らず」と締め括ったが、川村候補には思いのほか手ごたえを十分感じていた事は言うまでもない。


吉野はその時の事を思い出しながら、体のどこかから湧き出てくる闘志の様なものを感じていた。

早速作り出したプラン表を片手に川村源次郎の自宅へ自転車をこいだ。

「ご免下さい。吉野で御座います。」

「あぁいらっしゃい。」

「今日は構わないでしょうか?お話がありまして」

「ええ、私はいつでも結構ですよ。何しろ時間はありますから」

「そうですか。それなら遠慮なく話させて戴きます。川村さんは選挙の後何かサークルのようなものを立ち上げると仰っていましたが、その後どの様にされたのでしょうか?」

「まだ具体的には何も決まっていません。」

「では調度良かった。実は僕らの仲間で応援させて貰いまして、具体化させて戴きたいと思っているのですが・・・


只すべて橿原市の者ではないのですが、今の時点ではそんな事関係ないと思っています。」

「ええそれは有り難い事で、思いは一つですから一向に構いません。

だから名前をどのようにするって言えば、やはり安全とか安心とか住み良いとかと成るのだと思っています。」

「では【安心と安全の生活を目指す橿原市民の会】このような感じでは如何でしょうか?」

「いいですね。それで良いと思います。単純ですが趣旨が伝わりますね。上手く考えて下さったさすが吉野さんですな。」            

「それで何はさておき解決しなければならないのが、川村さんが第一に訴えた轢き逃げ事件ですね。」

「ええ、その通りです。勿論警察に任せて置けば良いのでしょうが、我々庶民で助け合って解決出来れば尚更です。」

「実はその事で折り入って話が御座いますので、何れ話させて戴こうと思っている事があります」

「あの事故の事で?」

「はいそうです。とても重要な事をです。しかし今はまだ早く時期尚早ですから、でも楽しみにしていて下さい。」

「吉野さんらしくない発言ですね。一体何が在るのか尚更知りたく成って来ましたね」

「ええ何時かは必ず口にさせて戴きます。みんなが揃った時に成ります。」

「ほう皆さんが揃った時に」

「ええ極論から申し上げますと、それは川村さんが出陣を決意された時と言う事に成ると思います。

それまでに口にすると決して良くないと思われます。回りくどい言い方で申し訳ありませんが、今はこの様な言い方に成ります。」

「解かりました。この事はくどくは聞きません。」

「では川村さん。【安心と安全の生活を目指す橿原市民の会】で良いのなら、その名で始める事にさせて戴いても構わないでしょうか?」

「ええ貴方が言われる様に致します。お任せします。」

「それで川村さんが考えているスタッフは何人位でしょうか?」

「選挙の時に集まってくれていた人達だから、十五人ほどいていると思います。」

「それなら安心です。これから三年半掛けて作り上げていけば良いのですから何とかなるでしょう。貴方がトップに成れる事を可能にする事など案外簡単に出来るかも知れません。

僕の仲間には可成出来る人も居りますのでお役に立てると思います。」

「そうですか、それは楽しみです」




それから次の日曜日に吉野と岩村と野坂は雁首を揃えて川村源次郎の宅を訪ねる事にした。

「毎週すみませんねぇ川村さん」

「何を仰います。とんでも御座いません。強いては私の選挙が為にせっかくのお休みの日にご足労願って真に恐縮で御座います。」

「此方が岩村さん。そして野坂さんです。」

「はい私が川村源次郎です。この度はご厄介に成ります。」

「此方こそ」

吉野が挨拶を交わした全員に、

「僕ら三人で川村さんのお役に立つ事を考えています。しかしその心の底辺には、全ての許せない者に対してと言う事で戦わせて戴く事を思っているのです。

詰まりどのような立場の人であっても、それが悪い事なら心を改めなければ成らないし、罰も受けなければ成らないのです。


川村さんの選挙を通じて正さなければ成らないものも幾つも在るわけで、それをクリアーにしてこそ橿原市は安心で安全な住み良い街になるのだと思っています。

端的に申し上げますと、川村さんが市長に成って戴き、僕らは僕らで自分たちが持っているポリシーを叶える事に全力を尽くす事だと思います。」


「そうですか。私は何もかも全ては理解出来ていませんが、貴方たちが志を持って望まれる事に間違いや狂いは無いと思います。

吉野さんとはこれで何度かお話をさせて貰っていますが、立派な考えをお持ちで、何もかもをお任せさせて戴いても間違いが無いと思っているのです。

私が思う住み良い橿原市も、吉野さんに作り上げて戴ければ間違いないでしょう。お二人はそのお仲間なのですから、私も頼もしいお仲間が出来たと自負致します。」

川村が三人を賛美した。


「川村さん。この野坂さんはお兄さんも新聞記者で、この方も頭が切れる人です。お歳も一番上で何につけても冴えている方ですので、又何かある時は力に成って戴けると思います。

そして此方の岩村さんは、みんなを纏める事が出来る方で心の大きな方です。

だから岩村さんが側で居てくれているだけで、みんなが自然と和むような雰囲気を醸し出す方です。」

「このようにお見受けしていますと三人よれば文殊の知恵と申しますか、可成の難問でもこなしてしまうようなオーラが出ていますね。」

「その様に見えるでしょうか?光栄です。では頑張らないと、結果が出なかったら笑い者に成るだけですからね。」


「私は大和高田の住まいで、彼は田原本だから一票にはなりませんが、でも前回もあまり差は無く均衡だったようですから、今度は何としても勝つ事だけを目標にすれば必ず勝てるでしょう。過ぎる位応援させていただきます。」

野坂は十分熱意と自信を漲らせて口にした。

「野坂さんは選挙に関して随分経験されているのでしょうか?」

「ええ選挙は何回か経験が御座います。

当選した候補にも落選した候補に付いた事もあります。

勝つ為の手段も少しは解かります。」

「そうですか。それは頼もしい事で、私は前回が初めてだったので何分何も分からずに、只々八木駅近くで轢逃げされ亡くなっていた女性が可哀相で、それが第一の動機で選挙に出たよな次第ですから、選挙と言っても全くの素人で、しかし私は現役の頃は世界中を飛び回っていましたから、恐ろしく度胸は備えている積りです。


何しろ鉄砲の弾が飛び交う所で仕事をしていた事もあり、クーデターが起こった国で仕事をしていた事もあり、さそりと背中合わせに眠っていた時もあり、大変な事がありましたが、それでもこの様にして生き続けているのですから、これからも色々あるでしょうが、この命平和と安定の為に橿原市に捧げても構わないと思っています。


皆さん方の誰にも負けない闘志を、常に出し続ける男でありたいと思っています。」

「川村さん、力強いお言葉を聞かせて戴きました男、岩村丈二お力に成らせて頂きます。」

「ねぇ上手いでしょう。この人は。最後を上手く締めくくるのですから。」

みんなが笑顔に成って一段落した所に、川村源次郎の妻紅子が食事を運んで来た。

仏間から若くして亡くなった一人息子光一の姿を見つけて岩村は、

「あの方ですね。若くして亡くなられた一人息子さんは?」

「よくご存知で」

「はい前の選挙で、橿原神宮駅で吉野さんが話されていた時聞かせて貰いましたから」

「そうでしたか。生きていればお二人さんほどの歳に成っていたのですが・・・」

「残念ですね。悔しいですね。」

「相手の人は逃げたり等はしなかったのですが、でも所詮暴走族のような男で殺されたようなものです。


警察にも言えないしね。幾ら父が警察官僚だなんて言っても、だから逆に遠慮しなければならないなんて理不尽な話ですよ。全く。」

「へぇーそんなものですか」

「そうですよ、遠慮しなければ成らないですよ。しかし堪りませんでした。一人息子ですよ。たった一人の子が」

「辛かったでしょうね。悔しかったでしょうね。」

「ええ、とても。だから今に成っても、昨日の事の様に思い出すわけです。マフラーを改造した様な車を見かける時や、大きな音を鳴らして走るバイクや車を見かけた時も、それにジグザクに走る車を見た時も、とにかく常識に欠ける者には憤りを感じています。」

「そりぁそうでしょうね。馬鹿な奴がいますからね」

「そんな馬鹿に突然殺される事もある訳ですからね。現実は。」

「だから私はこれからの人生で何かを訴えたかった訳です。車社会に警鐘を鳴らしたかった訳です。


勿論議会議員でも良かったのですが、出来るだけ目立ちたかったのです。それであのように轢逃げされた現場から選挙戦をスタートさせた次第です。」

「解かります。お気持ちは」



 三人は食事をご馳走に成り、川村源次郎の宅を後にした。

帰り道喫茶店に入った三人は今後の事を話しあっていた。

吉野が先ずこれからの事を口にした。

「僕の考えを言わせて貰います。これから三年半の間に川村源次郎さんとタッグを組み、市長選挙のお手伝いをして必ず当選に持って行こうと思っています。

それが為にも岩村さんにも野坂さんにも手伝って貰いたいのです。


 あの事故以来、僕らは一心同体だと僕は思っています。詰まりあの日の出来事が、川村さんが勝利する根幹であり起爆剤に成らなければ成りません。

橿原市民をアッと驚かせてみんなの目を引かなければ成りません。

川村さんの話では現市長の里林太郎の父親が、大阪でとんでもない狡猾な男であったと噂が流れているようです。

僕も少しは良からぬ事を耳にしましたが、川村さんによれば相当酷かったようです。

その息子ですから現市長は悪い噂など出ていませんが、親父の噂は決してプラスには成らないと思います。


アメリカのようにネガティブキャンペーンをすれば、可成の票をひっくり返せる事も考えられる訳です。汚い手段を使ってでも勝たなければ成らないのです。

それに僕らには大きな想像も付かない「玉」が在るわけです。正義と言う玉が。

あの日の出来事を川村さんの口でマイクを通じて訴えて貰うのです。轢逃げ犯人は誰であるかを、大きな声で口にして貰うのです。


すると慌ててまほろば警察署が飛びついてくるでしょう。只来なかったらそれもおかしな話で、既に警察には判っている話であると成ると、伊貝兄弟の警察に対する圧力で、双方で隠蔽工作をしたと成るのです。

 そのような事が無かったなら警察は緊急で伊貝に事情聴取するか、又は重要参考人として身柄を確保するでしょう。

勿論貯金通帳も見せるわけです。ここに犯罪があると成れば元も子もないと成るでしょうが、これからの三年余りの間に全てをクリアーにして、決して法律に触れないように策を練る積りです。


来るその時は、轢き逃げ事件が発生してから六年目。

 誰もが迷宮入りすると思う事さえ忘れている事件に成って来た時に、橿原市民が目を覚ますような事が起これば、誰もが注目する事は間違いないでしょう。



警察が解決出来なかった事を川村源次郎とその仲間が解決するのですから、市民は一気に振り向いてくれるでしょう。

必ず勝つ事を前提に進めて行こうと思っています。

川村さんも僕らの事を信頼してくれていますから、結果を出せると僕は考えます。お二人はこの考えにどのように思われます?」

「俺は吉野さんに任せておくから思う様に使ってくれればいい。でもおもしろそう。事件になるね。これが現実に成ったら。」


「私もそのように思います。天誅ですね正に、罪を犯した者は罰を受けなければ成らないって事ですね。只川村さんが一部始終を聞いた時、尻込みしないかと懸念される事が気になりますが」

「尻込み?」

「ええ、あの方の意に反しないかと」

「ええ、それは僕らがあの方にどのように持って行くかであると思っています。勿論この話はあの方が最終的に判断すればいい事で、表に出すか出さないかは全員が集まって多数決で決める事も一つの方法であると考えます。

勿論取り下げるほど良いと成ればその様に従います。」


「いやぁそんな事は無いでしょう。これだけのネタを嫌がるスタッフはいないと思いますよ」

「そうです。何も我々が悪い事を企んでいるのじゃなくて、橿原市民として一つの難問を解決しようとしている話ですから、殆どの有権者も理解してくれると思いますよ」

「では時期が来たら三人で話しましょう。川村さんに」

「ええ」




吉野の考えで何もかもが進む事になった。   奈良県議会選挙の投票日が遣って来て、伊貝直助は難なく当選を果した。不安な材料など微塵ともなく当選したのである。

しかし吉野は伊貝の心の内を察していた。

また今度は伊貝直助におめでとう御座いますと手紙を出してやろうかと思ったが、それを実行すれば彼自身も更に危険になることを感じていたので、結局何もしないで時間だけが過ぎていた。


 このまま何もアクションをしないで時が過ぎれば、轢き逃げ事件も迷宮入りに成って、世の中の多くの人の記憶から消えて行くのである事が、現実味を帯びて来ている様に吉野には思えていた。


銀行で眠る八百万円のお金は誰も手を付けられずに事件も時効になり、やがて吉野たちの物に成って、まるで何も無かったかのような終焉を迎える事になるのだろう。

しかしそれは甘い考えで、お金の振り込み先をウラベマコトやヨシオカススムが躍起に成って捜し当て、轢き殺されていた女の様に、吉野たちが何処かで殺されるかも知れない運命に成る事も考えられるのである。

裏社会にありがちな復讐である。


それはこれからも数年の内に色々な選挙が待っているからで、その度に伊貝兄弟が絡んで来て、その度に何かを意識しなければならない事になり、特に野坂由紀夫は地元大和高田市であるから何かと目に付く事に成る訳で、何もしない事が何よりであると判断して、それからは三人が特に何もせず貝になっていた。

実は伊貝一族が強気な野阪にしても相当怖かったのであった。

それゆえ三人は常に警戒しながら川村源次郎の事務所を訪ねる事を定期的に繰り返して三年の歳月が流れた。


吉野は三十七歳に成り、岩村は四十手前に、そして野坂は五十に成って、今までの様に飲み会を目立たぬようにして繰り返していた。

まるで何もなかったかのような三人に成っていた。

そしてあの轢き逃げ事件を思い出す事すら人前もあり避けるようにしていた。お酒の味が変わると思った事もあった。


それほどまでに事件そのものが風化していた。

衆議院選挙も参議院選挙もこの間にあったが、別に何の動きをする事無く時が流れていた。

吉野も野坂も何故そのような態度で気に成らなかったか彼らには判っていた。

次期の橿原市長選挙までエネルギーを溜めていたのである。

市長選では大きなうねりを引き起こし、その行為に至るには相当なエネルギーが必要である事が重々判っていたからである。


それは言うならば裏社会と戦うことでもあったから覚悟も要り気が抜けなかったわけである。



橿原市長選まであと四ヶ月に成った時、川村源次郎のスタッフは三十五人に膨れ上がっていた。

何れも心のどこかで轢逃げ事故に関心を持つ者の集まりであった。

その中には言うまでもなく川村源次郎の亡き一人息子光一の幼馴染みが名を連ねていた。


川村源次郎は裏表の無い大きな人物である事が吉野の心を引き付けた事もあり、その息子が同じような若者であったようで、同級生たちが名を連ねていたのである。

そして橿原市市長選の告示までに、あと三ヶ月を切ったある日、吉野の口からスタッフ全員に驚きの言葉が発せられた。


「皆さん今日は信じられない話をさせて頂きますので耳をほじくってお聞き下さい。

そしてこの話をどのように受け止めて頂くかは川村さんの最終判断にお任せ致します。

 

では始めます。この話は僕と岩村さんそれに野坂さんと話し合って、今日皆さんに報告させて戴く事に致しました。

皆さんが迷惑な事だと仰るなら、無かった事にして頂いても構いません。


そもそもこの話は四年前に川村さんが市長選挙に出られた時、あの轢逃げ現場からスターとされた事から初まります。


何故あの場所からと考えた時、御自身は一人息子を亡くされ、更にこの橿原市で轢き逃げ事件が起こり、心の内に憤りを感じられたから立候補された事もお聞きしています。

その川村さんに何故私が興味を抱いたかと言えば、あの事故の轢逃げ事故の第一発見者であったからです。

第一発見者と言ってもあの現場に着いた時は既に事故が起こった後で、女性の方が倒れていて痙攣をされていて気も失っていました。


しかし生きていた事は確かです。実はその事故の現場に行く数分ほど前に車を見たのです。只その車は全く違う所に止まっていたから、事故には結び付かなかったのですが、只我々もお酒を午前様まで鹿路ろくろで飲んでいて、夜明け前に帰ることにしました。ほろ酔いでまるで車が通る事が無かったのでふざける様に車道を歩いていました。

そして急に車のライトで照らされまして慌てて歩道によけました。

車は我々の前を通り過ぎて行ったのですが、運転していた男はなんかいかつい感じだったようです。

でも僕はその顔などはっきりは見ていません。

実はその時、野坂さんが車のナンバープレートを見て1234と言う珍しい番号だったので、そちらに気を取られていました。なにしろ大きな声でその事を言ったので、


 しかし野坂さんや岩村さんは運転していた人の横顔も、助手席に乗っていた女性の顔もぼんやりと記憶していたようです。勿論横顔で一瞬の間ですからはっきりはしていないですが。


しかしその後警察官に聞かれた時に僕が余計な事を言わないで置こうと言いました。

それはもし間違っていたのなら迷惑をかける事になり、又厳つい顔であった事も手伝って、みんなで黙りを決めた訳です。


あの日は殊の外風が強く春一番と思う様な風が吹いていて、取調べをしている時もブルブル震えて来て、逃げるようにして現場から去ったのです。


警察の方がタイヤ痕が在るからと言っていましたから、早い内に犯人は逮捕されるだろうと思いながら気にしていましたが、何ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、どれ位経った日だったか、ある日パチンコ屋へ行っていた時、その1234のナンバーの車を見かけた訳です。


珍しい番号だったのであの事故以来常に気にしていた事も確かでしたが、まさに青天の霹靂で、見つけた時は何故か背筋に氷水が流れる思いでした。

そしてその車の後を付け、大和高田市の伊貝隆司と言う男の車である事が判りました。伊貝隆司とはその兄に県会議員伊貝直助が居り、前の年に県議会議長をしていた様です。

今では六期目で押しも押されもしない大物のようです。


その弟で、嫁と二人暮らしでその後大和高田市の市会議員に成るのですが、ここで問題なのはこの男に我々三人で 在る事 をしたのです。


それは、

《三月二十日の事を全部知っています。あの轢逃げされた現場の事を。この情報をお買いに成りませんか?」と匿名で悪戯の手紙を出した訳です。そして受取人も匿名で銀行名と口座番号を記入して、金額は一切入れませんでした。


あくまで貴方の意思で情報を買われませんかと書いたわけです。


そして悪戯の積りでしたから、意味が判らないと言って捨てると思っていたのですが、思わぬ展開に成って、その口座に何と五百万円のお金が振り込まれて来たのです。


びっくりしたのは我々で、正に轢逃げ犯だけしか判らない事です。

そしてその後も再度、今度は本当に犯人であるかを確かめる意味もあり、

又《他の方も情報を欲しがっていますのでお買いに成りませんか?≫と手紙を出しました所、三百万円が振り込んで来ました。


 その振込み主は車の持ち主の伊貝隆司ではなく、伊貝隆司の兄伊貝直助の友人であり、仲間でも在る金融業の二人の男だった訳です。

先の分はウラベマコト、後の分はヨシオカススムと言う名の者からでした。

二人とも伊貝直助の知り合いです。


詰まりこの轢き逃げ事件は、その犯人は伊貝隆司であり、その兄の県会議員も関与している事が窺がえる訳です。


この事は誰も知りません。

間違いなく犯人である事は数々の事実から立証出来ます。

事故当時車の横に乗っていた女が居りました。それは我々三人が見掛けています。僕はあまりはっきりしませんが、岩村さんも野坂さんも見ているようです。


その女はまだ若くて水商売風の女であったと二人は言っています。

 実はその女が事故のあったあの後直ぐに九州鹿児島の実家に帰ってしまった様です。だからその事を知った我々は鹿児島へ行って来ました。そして事故の遭ったあの日に何があったかを聞く事が出来ました。


しかしその人は眠っていて、気が付けばあの場所で車が止まっていたと言っていました。

だから何が起こったのか知らないと、

只伊貝隆司が目が覚めた川本さんの顔を見つめていたと、それで車から降りる事もせず車を走らせたと言っていました。


そのやり取りは全部録音してあります。又万が一連絡を取り合い、伊貝が良からぬ事を考えてはいけないと思い、身に危険を感じたら警察に直ぐに言いますから余計な事はしないで下さいと女には口止めしてあります。


我々が九州まで行った事を絶対口にしない事を約束させました。


それから僕は河村さんの選挙で神宮駅前で表に出ることになり、その様子を見ていたのか、お金を振り込んで来たヨシオカがそのあと擦り寄って来て振り回されていた時期もありましたが、三人に何かがあれば直ぐに警察に行って事情を話す気で居りましたから、まして振り込んで来たお金は、一切手を付ける積りも無いですから、何故ならあのお金は僕らの間ではゲームに過ぎないからです。



どの様なゲームかと言えば、天誅ゲームです。悪は天誅に屈すると言うゲームです。以上です。


川村さんがこの話は迷惑だと仰るなら無かった事にしますが、しかしここまで多くの方の耳に入れば僕も只では済まなくなる訳です。

出来れば皆さんのお力と勢いでこの出来事を武器にして頂ければと思います。

この何年間の間、はっきり言って6年もの間この話を煮詰めていました。だから是非この機会に」


「吉野さん貴方の言った事は驚きでびっくり致しましたが、何故今までに警察に行かなかったのか、それが不思議ですねぇ。」


「ええ、元々彼ら二人の頭にうっすら残っている運転していた男の印象は、もみ上げをしていて怖そうな雰囲気の男に見えた気がしたらしく、また女も水商売風で真夜中であったこともあり、その思いが余計な事を口にするべきではないと思いまして、 その後も何度か警察と思いましたが、現に金貸しのヨシオカススムも近づいて来て危険さえ感じる日もありましたから、しかし疑問に思えたのは、我々のような三人が、この様にして犯人を突き詰めているにも拘らず警察は何をしていると言う事です。


 おそらくタイヤ痕が残っていた事は聞かされていますから、簡単に犯人を見つけると思っていましたが、今に至ってもまだ見つけられないのです。

お父さんが警察官僚の川村さんが居られるので言いにくいのですが、警察は既に犯人が判っていて、しかし県会議員の兄がいて、迷宮入りとか時効とかに事を運んで居ないのか気に成っています。まさかとは思いますが」


「もしそのような事があれば世も末ですね」

「だからまさかと思いますが、しかし僕が決して警察の事が好きでない理由に、このような事が繰り返されているからです。

 警察も血の通った人間だから仕方ないと言う発想です。ストーカー万引き 痴漢 殺人 隠蔽など警察官にあるまじき行為が起こっている事も確かなのです。

警察官の不祥事と検索をかければ未曾有の如く書き出されるのが現実です。


しかし僕たちは何十年も生きて来ましたが、その様な活字に成る様な事をしたかです。又これからその様な悪事をするかです。おそらく全ての皆さんがそんな事ありえないと思っておられる筈です。


だから僕は不思議に思うわけです。何故その様な人が警察官に成るのかと、又そのような人を採用するのかと、同じ様に何故轢逃げをするような人が市議会議員に成り、その轢逃げをする人を庇い、そして隠蔽してでも揉み消そうとする者を選挙で選ぶのかと実に不思議なのです。」

「吉野さん良くわかりました。ところで川村さん肝心な所、貴方の吉野さんの話の感想を聞かせて下さい」

「はい。身が震える思いで吉野さんの話を聞かせて貰っていました。まさかと思いながら一つ一つが具体化されていて逮捕される伊貝って人の姿が眼に浮かんで来ています。

吉野さんたちが何一つ脅迫じみた事をしていないなら、例えば金額の請求とかをしていないのなら問題は無いと思います。


相手さんが勝手に判断をして勝手に振り込んで来た訳ですから、それも吉野さんたちには関係のない人の名前に成っているのなら問題は無いでしょう。

火の無い所に煙は立たないと思います。おそらくその伊貝って男が轢き逃げ犯だと思います。誰も八百万ものお金を振り込むなんてこと考えられませんからね。余程堪えたのでしょう。政治家にとっていや人間としても命取りになりますからね。


この話を詰めるべきであると私も思います。

私がこの選挙に掛けた情熱を後押しして下さる礎に成るような気も致します。


この話だったのですね。吉野さんが以前三年ほど前、話があるって言ってくれていた事は、成程これは私にとって凄い話です。

是非皆さん吉野さんの話を納得行くまで詰めて頂き、作戦の一部にして頂きたく思います。一部ではなく根幹ですね、これは。

警察がどのような態度で出てくるかなど判りませんが、万が一警察が何かを隠していたのならそれもひっくるめて虫干しをする積りで突っ走ればと考えます。如何ですかみなさん?」


「へぇー川村さんからそのような力強い言葉が飛び出すなんてびっくりです。」

「そうですか・・・いやぁ私は銃を持った連中がわんさか居るような所で働いていましたから」

「では吉野さんの言われた事を真剣に検討させて頂きます。」


このようにして吉野の言葉がきっかけで川村ブレーンは大きく波を打つ事になった。

その後告示まで二ヶ月に差し掛かった時、川村源次郎がチラシを打って世間を驚かせた。

それはあの轢き逃げ事件の事であった。


時効まで後一年

八木駅近くで起こった轢逃げ事故は既に6年近くの歳月が過ぎました。

しかし未だその憎き犯人は何処でいるのやら検討が付かないのです。

今頃何処かで悠々と暮らしている事も考えられ時効を待ち望んでいるでしょう。しかし私は決して許しません。新しい情報もこの四年間の間に可成戴いております。

四年前市長選挙に於いて、私はあの事故のあった八木駅近くの道、正に事故現場で第一声を挙げさせて頂きました。


轢逃げ事故など許せなく思い、それは我が一人息子が暴走族の男に轢き殺された事も手伝って怒りの決意でありました。

あれから四年弱私には多くの方から多くの励ましや情報を頂く事になり、心強い思いであります。

警察が犯人を見つける事が不可能なら私は多くの仲間で必ず犯人を捜します。

必ず捕まえます。

待っていろ!轢逃げ犯!



その大きく印刷された文字には、川村の魂が潜んでいるかのような怒りの籠った字であった。

橿原市全域にチラシは新聞紙に挟まれ配られる事に成った。

当然大和高田の伊貝隆司の元にもそのチラシが届いていると思った野坂由紀夫は、伊貝兄弟の動向を気にしていた。


伊貝には目立った動きは無かったが、只チラシを出した事がきっかけに成り、何か動きが在る事も予想された。それは行き詰って来た現状に、伊貝隆司が思わぬ行動に出る可能性も考えられた。

それは清算である。

何もかもを清算する事である。正にそれは自殺である、若しくは九州鹿児島で暮らす、轢逃げ事故の目撃者で生き証人の川本ゆかりの口を封じ首を取る事である。


吉野も野坂も既にサイが投げられた事を痛感して、引き戻す事など出来ない事も感じていた。


そして市長選挙告示までにはや二ヶ月を切った。

伊貝隆司は大和高田市議会議員選挙で二期目に入っていた。

見事にトップ当選を繰り返していたのである。

やがて伊貝直助が中央に進出すれば、伊貝隆司も県会に駒を進める格好が出来ていた。



 伊貝隆司に佐藤準一名義の口座番号を記入して送りつけて、その後ヨシオカススムから現金三百万円が振り込まれて来てから既に三年が過ぎていたが、この三年間は、伊貝兄弟にとって不吉な時が流れていた事であっただろうと、吉野も野坂も岩村にしても察していた。それは考えてみれば振り込まれたお金に対する反応を一度も見せていないからであった。


つまりそれは振込先がどこの誰かが判れば、即座に粛清すると言う裏社会の常識の様な意味が考えられた。おそらく彼らは情報より出処を消してしまいたかった事が考えられる。

 だからあっさり振り込んで来たと言うことだった。それは普通なら二度目は振り込まないのが常識である筈が、実際有無もなく振り込んできているからそれが怖かったのである。それは三人にすれは恐怖以外の何物でもなかった。




「ねぇ鹿児島へ行かなくても大丈夫ですか?」

「俺も同じ事思っている。狙われはしないかと」

「私も。もし今伊貝が早まった事をすれば大変な事になる事も予想出来る訳で、今度はれっきとした殺人事件に成る恐れがあると思われますね。」

「そう俺も思う。もしそのように成れば、川村さんが選挙演説で上手く話せるか、あまりにもリアル過ぎて逆に避けられるのじゃないかと心配ですね」

「鹿児島へ行って川本ゆかりに釘を刺しておきましょうか?伊貝が何かを言って来ても絶対話に乗るなと。

逃げなさいと。何しろ唯一の目撃者で証人に成る人ですから」

「そうですね。あの人に何かがあれば多くの事が闇に包まれる可能性もありますからね。」

「じゃあ行きましょう。急いで」



それから話は早く進み翌週の土曜日に結局吉野と野坂が九州鹿児島へ出向いていた。

三年ぶりの鹿児島であったが、野坂は二度来ているから直ぐに川本ゆかりの住んでいる場所が判った。


 相変わらず野坂は胸のポケットにマイクを忍ばせ全ての出来事を捕らえる積りでいた。

川本ゆかりが出迎えてくれたが、その顔には疲れ果てた感じが漲っていて、三年前に比べると野坂が思う川本ゆかりの印象には、程遠い容姿に変わっていた。


ただ幼い子供が側でへばりついていて、結婚したことがわかった。


「すみませんね。こんな所まで押しかけて。以前に話させて頂いた轢き逃げ事件の事で再度来させて頂きました。

 あれ以来私たちはあの件で警察も勿論他誰にも話していなかったです。だから警察もこちらへ来るような事は無かった筈です。

もし私たちに何か不吉な事があれば、すぐに警察へ話をさせて貰う事に成っている事は今でも変わりません。


過ぎた過去を思い出す事もいい加減嫌かも知れませんが、今一度話して頂きたいのです。


3年ほど前のあの時話された事は全部録音しています。貴方が嫌がったかも知れませんが、このようにする事も大切な事なのです。だから今一度あの時の事を思い出して頂きたいのです。」

「ええ解かりました。」

「私たちは貴方を攻める積りで来たのではありません。近い内に伊貝さんが警察に逮捕される公算が高く成って来ています。轢逃げで。しかし今あの人は焦っているかも知れません。

貴方と言う事故を目撃された生き証人がいるからです。貴方しか一部始終を見ていた目撃者が居ない可能性があるからです。


だから今貴方に一部始終を話されたらあの人は大変困るわけです。

そんなことで私たちは何はともあれ貴方の安全を確保しなければと思い、此方へ来させて頂きました。

伊貝さんが何かを言って来ても絶対に付いて行かない様にして下さい。勿論どんな話にも乗らないで下さい。

 出来れば安全な所で生活をして下さい。小さなお子さんも居られるようですので十分気を付けて下さい。


 伊貝さんは今追い詰められています。そして市会議員に再選されてまだ日にちが経っていませんから、今摑んでいる名誉も権力もそしてお兄さんの立場も何もかもを考えた時、最悪の道を選ぶかも知れません。窮地に追い込まれて、

そんな精神状態がこれから更に酷く成って行く事も考えられます。


ですから間違っても相手など絶対しないで下さい。又知らない人が来ても同じです。構わない事です。関わらない事です。あの人の仲間がお客さんの振りをして来る事も考えられますので、その点も十分注意して下さい。


あの人はもう逃げられない所まで来ている事を理解して下さい。」

「・・・」

「何かお聞きしたい事があれば言って下さい」

「伊貝さんは本当に逮捕されるのですか?」

「ええ轢逃げ犯人として」

「いつですか?」

「近日中です。遅くとも一ヶ月の間に」

「決まっているのですか?」

「多分としか言いようが無いですが、容疑は固まっています。」

「そうですか」


「貴方は伊貝さんを今どのような捉え方をしているかは判りませんが、今の伊貝さんは堺の女性に謝らなければ成りません。そして犯した罪を認めその罰を受けなければなりません。

その事実を貴方は目撃者として警察に伝えなければなりません。

でも今はその時期ではありません。先ず逮捕され裁判が始まり被告席に伊貝さんが立ってから、貴方の目撃者としての証言が始まるのです。

だから今その状態には成っておらず、伊貝さんから見て貴方の証言が命取りに成ると思えば、証言に立つ事が迷惑と成り、今の内なら貴方の口を封じる事も可能な訳です。

今現在警察は何も知らないのですから。」


「解かりました。いつの日か私が何かを口にしなければ成らなくなった時はお話致します。それまでは心を閉ざし誰をも受け付けない生き方をして行く事にします。遠い所までご親切に有り難う御座いました。」

「ではとりあえずお伝え致しましたから。貴方にとって伊貝さんはどのような人であったか私たちには判りませんが、でももう終わりです。あの人は。」





二人は鹿児島を離れ岐路に着いた。

「へぇーあんな子が居てるんだ。この前に来た時は伊貝に囲われてと言う噂だったから、興味津津だったけど、あんな子が出来ればもう意味が無いですね。」

「どうしたのです野坂さん。何故か物悲しいような感じですよ」

「いやぁ独身の私にはきつい話ですよ。綺麗な人が片付いて行く事が」

「何を言っているのです。ここは九州鹿児島ですよ。」

「そうでしたね。大人気ない事を。でもあの人の旦那さんって幸せでしょうね。あんな綺麗な人と暮らせるのですから」

「そうでしょうか?なんか疲れたような感じに僕には見えましたが」

「ええそれは随分痩せた事は確かです。以前はもっとふっくらしていましたから。

でもあれから三年が過ぎていますから体形も変わるでしょう。お子さんもできているし」

「かも知れませんね。僕は全く知らないから判りません。でも何か聞きたかった事があった様な気がしましたが、全く聞けなかった様に思います。


此方へ帰られて結婚されて子供が出来て、その事実を思うと今更何も聞く気がしなくて、だんまりを通してしまいました。」

「でもこれで良かったと思いますよ。あの人もこれから幸せに成れば良いのであって、伊貝は罪を認め罰を受け服役すれば良いのですよ。」

「選挙まで あっと言う間に一ヶ月足らずに成りましたね。早いものです。野坂さんに発破を掛けられて、その気に成ってからでも三年ですから、全く早いものです。

伊貝が苦虫を噛んで、わっぱを嵌められ、ふてくされたように警察官に囲まれて護送車に乗って行く姿が眼に浮かんで来ますねぇ。」


「面白いですねぇ。その様に思うと。私は何か権力のようなものに挑み、打ち勝っているような気がして実に快い思いです。」

「僕も。野坂さん以上に同じ思いでいます。いつの日か空に拳を突き出して、その様な事を思っていた日がありました。

権力を振り翳す者や理不尽な事をする者が居て、不公平で狡猾な仕組みなのか、生殺与奪の権利を摑んだ者の驕りなど、伊貝兄弟が育てて来た全てと戦いたいと思っていました。

それが今音を立てて彼らの城が崩れるように思えています。」


「私もこの何年間の間小遣いは全てこの関係に消えています。飲みに行く時も、何かをする時も伊貝の何かを追っかけています。

でもそれが自分にとって一番しなければならない事に思えていますから、全く後悔も反省しなくて済む訳です。

寧ろ清々しくしかもやる気一杯なのですから、実に有意義な時間を過ごしている事に成るわけです。新聞記者だった兄が志半ばで果てたその思いが私に乗り移ったのかも知れません。」


「僕も全く同じです。只野坂さんの様に経験を重ねていないから、その分余計な事を考えて気を遣わなければ成らず、臆病にも成っていました。

しかしあと一ヶ月、決して泣き言を言わず胸を張って頑張る積りです。」

「ええ吉野さんなら大いに川村さんの懐刀に成れるでしょう」

「それなら良いのですが、信じて頑張ります。」


とうとう待ちに待った橿原市市長選挙の告示日が遣って来た。前回同様四人の候補者が揃って激戦がスタートする事に成った。

現職の里林太郎候補、川村源次郎候補、猪田寅雄候補、八巻大輔候補が名を連ねた。

川村源次郎候補が作ったポスターは目を引く事に成った。


【四年間の追跡がついに実る事に成りました。投票日までにあの轢き逃げ事件の犯人を】と書き込んでいた。

誰もが疑う様な事を書き込んで、しかもマイクを持って、

「私はこの四年間一時も忘れる事無く轢逃げ犯を追い詰めて来ました。そして私たちの仲間でその犯人に間もなく突き当たる事が叶いそうです。」と口にした。

誰もがその川村の言葉に惑わされるように疑心暗鬼に成り、これが市長選挙かと思わせる内容であった。


二週間の間川村源次郎は轢逃げ犯の事を重点的に訴える様に口にしていた。

その姿はまるで鼠を追いかける猫のような強靭で毅然とした法の番人にさえ見えるほどの迫力で、いつの間にか川村源次郎の演説は橿原市民の心を取り込んでいた。



その姿はまるで一人の子を亡くした一人の男の執念や復讐を超えて神がかっていて、それはマスコミを動かすばかりか畝傍の山をも動かす勢いであった。


そして天変地異が起こる様に演説は佳境の粋で繰り返され轢逃げ犯をあぶり出す勢いであった。

その勢いは橿原市に留まる事が無かった。


どうした事か投票日の二日前に成って、轢逃げ犯がまほろば警察署に自首して来たのである。

大和高田市市議会議員伊貝隆司まさにその人であった。



橿原市民はこの奇跡の様な出来事に、誰もが声を揃えて川村源次郎の神の様な力に、我を忘れて心を躍らせて興奮しながら喜び、

川村源次郎はその勢いをそのまま投票日まで持ち続け、見事現市長の里林太郎に大差をつけ当選する事と成った。


新市長の誕生である。


 そしてその裏には吉野の働きが隠されていた。実は水曜日、投票日の五日前、吉野は伊貝隆司の自宅のポストに手紙を差し込んでいた。


【伊貝さん、今週の土曜日、橿原市長選で貴方の名前が大きく出る事に成るでしょう。それは貴方がご存知のあの轢き逃げ事件の犯人として

今ならそれを止められます。貴方が自首をする事を望めば曝し者になる事は避けられるでしょう。


しかし何もしなかったら、貴方の自宅を黒山の警察官が囲む事に成るでしょう。当然報道陣も、勿論貴方のお兄さんの自宅も。



よく考えて下さい。勇気を出して下さい。貴方は既に包囲されているのです。諦めて下さい。 最後に貴方の意志で自首される事を切に望みます。】


この手紙を読んで伊貝隆司は「年貢の納め時」と読んだのだろう。


だから吉野には伊貝隆司が自首をして来た事は不思議ではなかった。

それは彼が仕組んだ罠に伊貝隆司が嵌まったのであった。

しかし今更伊貝隆司が逃げ隠れした所で、絶対逃げ切れる事では無いと吉野には思えた。

あっけない幕切れに成った様なものであったが、伊貝にしてみればそれは相当な試練に打ちのめされ、悩みぬいた終着駅であったのだろう。




初めは五百万円ついた。二回目は三百万円払った。そして今三回目で何もかも失う事に成った。

あの時、平成二十三年三月二十日、花村貴美を跳ねた時、素直に人並みに救急車を呼び警察を呼び、人間として常識を守っていたなら、、晩節を汚さなかったなら、この様な結果にはならなかったのである。


実に悲しい生き方を、つい邪な心でした判断で取り返しの付かない道を選んでしまったのである。

吉野はそんな伊貝の生き方を嘆き、


それは警察官が何故悪い事を繰り返すのかと思う疑問と何故か似ているものがあった。

 まほろば警察署に自首し逮捕された伊貝は素直に自供し、その事が皮肉にも橿原市長選挙の結果と同じ日に新聞の地方欄に載る事になった。


【轢逃げ犯として逮捕された伊貝隆司の自白によりますと、当日助手席に愛人として囲っていたK子さんを乗せて、呑み屋から帰りにあの現場に差し掛かった時、女が道に飛び出して来て気が付いたら撥ねてしまっていた。

 悪いと思ったがお酒を飲んでいた事もあり、怖く成ってそのまま逃げた。真に申し訳ない事をした。


 そんな状態で何故選挙に出たのか?となるのは、既に兄伊貝直助から一年も前から出る様に言われていて断る事が出来なかった。断れば何故?と兄に逆にかんぐられる事が怖かった。

あの事故を起こした日からとても辛い日々の繰り返しであった。亡くなった花村さんには本当に申し訳ないと思っています。】


 この様な記事が新聞に掲載された。 吉野はその記事に目を通して、伊貝隆司が今溢れる水のような気持ちで猛省しているとは思わなかった。

最後まで逃げ続ける事に終始しているように振り返り思えて来た。もし本当に反省をしているなら、初めて車のワイパーにチラシを挟んだパチンコ屋の出来事で、伊貝隆司は自首するべきであると咄嗟に思われた。                  

伊貝は兄が全く関係ないような言い方をしている。お金の事もまるで触れていない。

選挙で言う連座制に当たる事実であるから、ウラベマコトのこともヨシオカススムのことも触れていない。詰まり兄伊貝直助は全く知らなかったと言わんばかりである。


 要するに伊貝隆司は卑怯である。しおらしい言い方をしながらも、今でも逃げ通したい気持ちが、あの男の心の中に潜んでいるのだろうと感じる内容であった。


吉野たちが伊貝からせしめ取ったお金の事は、いずれ警察から事実関係を迫られる事は間違いないと思いながら、その時はどの様な態度で出るべきかを三人で話し合う事にした。

久し振りに飲み会を執り行なった。


「岩村さんそれに野坂さん四年間ありがとう御座いました。お二人に助けて頂きまして、思いのほか大きな成果を得る事に成りました。

川村さんが市長に成れたのも我々の頑張りもあったものだと確信致します。


そして轢き逃げ犯を逮捕出来たのも、橿原市の歴史に刻まれる快挙ではないかと自負しています。

今日は以前お約束致しました通り、部門長手当てを全て差し出しますから、思う存分飲んで下さい。但し不足になった時は足らず分は割り勘で。」

「部門長ありがとう御座います。今日は飲ませて頂きます存分に。」

「岩村さん又貴方は午前様までと思っているのでしょう。でも私は先に失礼させて頂く事にしますから。最終電車で帰りますから。」

「野坂さんそんなぁ水臭い事を言っちゃいけません。付きあいってものが在るじゃないですか?」

「ええ、それは解かりますが、又前の様に轢逃げを発見したなら四年間同じ事をしなければ成らないと思うと・・・」

「そんな事ある訳無いでしょう。」

「ええ冗談です。飲みましょう。どんどん。吉野部門長、お疲れ様でした。よかった。よかった。本当に良かったですね。」

「ええありがとう御座います。僕は神経質な所が在るから、一時は随分心配しました。

ビビッていた時も在りまして。でもお二人が上手く切り抜けて下さって、随分助けて頂いた気がします。


これから警察が何かを言って来るかも知れませんが、何一つ怖がる事など無いと思います。

伊貝隆司が何もかもを警察に口にすれば、兄伊貝直助にも影響する事は間違いなく、あの男は警察でしおらしく自供をしているようですが、結構計算しながら話していると思われます。

本当に悪かったと思っているのならこの四年間の間が辛かったのなら、もっと早く自首するべきであった筈です。


とにかく最初に逃げた事が全ての始まりな訳で、そのような判断をした人間の受けなければならない天誅のようなものだと思いますよ」

「ええ正に天誅ですね。しかし伊貝隆司は何もかもを口にするのでしょうか?私は吉野さんが言われたように、兄伊貝直助に迷惑を掛けられないと、兄の立場に影響してはならないと、事によっては黙秘をして貝になるのでしょうね。

しかしそれで収まるのか疑問です。


ウラベマコトやヨシオカススムが浮上してくれば、何もかもが表ざたに成ると思われるわけで、兄の政治生命も脅かす事に成るでしょうね。轢き逃げ事件の隠蔽工作に関与した罪で。


しかしそこで総合的に考えてまほろば警察署が、この辺で手を打つ事にすればと成ったなら、兄もウラベもヨシオカも何らお咎め無しで、この事件は解決し終息と成るのでしょうね。」

「でもそれでは僕らの心に詰まっている嫌な物が、全て取れる事が無い、現在の世の中に蔓延っている禍根が続く事に成る訳ですね。

常に腹を立てて来た物が怒りのような物が。

権利や権力の横暴な振る舞いであったり、正に生殺与奪の権利の乱用であったり。」

「ええ公民たる者が当たり前の様に振舞って来た邪まな事実がある以上、許しがたいって事になるわけですね」。


「なぁお二人さん。あなた方はこれでは気が治まらないって言っていませんか?今日はその話はご法度ですよ。今日は部門長手当てで飲ませて頂く日なのですよ。第一この場所で伊貝の話はしないって事に成っているでしょう。」

「はいすみません。岩村さん。」

「さぁ飲みましょう。がぶがぶと。それとも二年後は吉野さんが橿原市の市会議員に成っているのじゃないのですか?」

「とんでもないです。只川村さんが同じ事を言うでしょうね。だから僕は嫌だから、僕と同じように頑張っている篠沢さん、あの少し頭が薄く成っている人、あの人を押す積りです。

只積極的にではなくて形だけで。何故ってお二人に迷惑に成るような事したくないですから。

余計なことをしてこの飲み会に欠席なんてしたくないですから。

この二年間あまりの間飲み会を出来なかった事は何より悔いが残りましたから。」


「そうですね。辛いでしたねぇ。」

「だからまだ言いたい事はありますが、一応これでピリオドを打っても良いのではないかと僕は思います。」

「そうですね私も。」

「じゃぁ飲みましょう。俺飲むからどんどん」



久し振りの飲み会で御前様になった三人は、同じ様に一番電車に向かって歩道を歩いていた。あの日に見た光景を思い出しながら。そして看板が取り外された事故現場に佇んで手を合わせていた。供えられた真新しい花が三人にお礼を言っているように思えた。                   


「ここで終わる人生もあれば、ここで酔いを醒ます人生もある。命の在る我々はこれからも嘘偽りの無い人生を歩み、美味しいお酒を飲み、楽しい毎日を暮らす事を心がけ、人生を全うしようではないかお主達」


「岩村さん中々いい事言いますね。酔っていても。」

「ええ、酔っているほど俺はまともかも知れないな」

「ごもっとも」


それから日が経つに連れ、正直吉野は気掛かりに感じる事があった。

それはまほろば警察署に逮捕された伊貝が自首したその罪を忘れて、自暴自棄になり何もかもやけくそに成って全てを口にしないかと気に成っていた。


 詰まり振り込ませたお金の事であった。しかし逮捕されてから何日も経っていたが、その話は全く聞こえて来ない事に神経を尖らせていた。

あの鹿児島の川本ゆかりの宅へもまほろば警察署は行っている事も当然考えたが、吉野も野坂の元にも誰も何も言って来なかった。

逆に何かがあっても不思議ではないと思っていただけに、何も無い事もまた不気味で気掛かりなことでもあった。



 伊貝隆司逮捕から一ヶ月を過ぎ様としていた時、とんでもない事が起こり、吉野だけではなく新聞を見た者誰もが驚かされる事と成った。


【奈良県橿原市で市長選挙が行われたのは調度一ヶ月前、その時現市長に成った川村源次郎新人候補が終始訴えていたのは、轢逃げ犯を見つけ出すと公約の様に言われていた事であった

ところがまさかと思う事が起こった事は皆様もよく覚えておられる事、

それは選挙日の二日前に犯人が自首して来た事です。

六年あまりの逃亡生活にピリオドを打って、事件が解決をしたのでしたが、実際は逃亡などしていなくて、驚くなかれ、皆さんもご存知の様にお隣の大和高田市で市議会議員に成って公人と成り犯人は悠々と暮らしていたのです。


しかし何があったのか、何故急に自首をする気に成ったのか分かりませんが逮捕された訳です。

 まほろば警察署が毎日汲々と取調べをしている所でありましたが、轢逃げ犯伊貝隆司が全てを供述する事無く一昨日入浴中に心不全で倒れ、そのまま息を引き取ったようです。

自殺ではないかと思われましたが、元々心臓に疾患が在り事件性はなく偶然起こった事のようです。


市長にもお聞きして居ります。

川村源次郎橿原市新市長の声、


「亡くなられた事はお悔み申し上げます。苦しんだ人生だったかも知れません。只あの轢逃げ事故の全容を知る事が出来ないのは残念ですが・・・

そしてあの犯人にも家族や親戚、更には先祖が在るわけです。勿論私のような子を暴走族に殺された被害者にも同じように家族があり親戚が在るわけです。

罪は憎まなければなりません。


しかし残された周りの関係者は加害者の身内であっても、被害者の身内であっても、何ら変わらないのです。共に辛い立場には何ら変わらないのです。

残された者がその経験を、人生の戒めとして又貴重な糧として教訓にして生きて行かなければ成らないと思われます。

そしてこのような事が二度と起こらない橿原市で在って貰いたいです。いえ、私がそんな街を造って行きます。罪を憎んでも人を憎まずなら事件の全容は解明できませんでしたが、取り敢えずご冥福をお祈りいたします。」


 川村源次郎橿原市長のコメントでした。】


轢き逃げ事件は被疑者死亡で幕を閉じる事になり、その後に及んでも何一つ真実は出てこないまま半年が過ぎていた。

吉野も岩村も野坂も振り込ませたお金の事で、まほろば警察署に何かを言われるような事も起こらないように思えて来ていた。


そしてあくまで佐藤準一は自分たちには関係ない人物であると思う事が、心の中に在る罪の様なものを軽くしていた。

吉野は気が付けば、二人目の赤ちゃんを妻幸代が宿していた。

久し振りのヒットと言うのか、とにもかくにもその事実にほくそ笑んでいた。

まだまだお腹がふっくらしては居ないが、二人目が出来る事だけでとにかく嬉しかった。


吉野の妻はやや太り気味で妊娠に至らない事が多かったようで、吉野は男として頑張って来たにも拘らず結果が出ていなかったので、今回のヒットは吉野にとって男冥利に尽きるものであった。

その事は直ぐに岩村にも野坂にも届いていた。

「良かったですね。私は一人者だからとても羨ましいです。でも本当に良かった。事件も解決して暇に成ったから出来たのでしょうね?」

「そう暇になったら男は。だから電気の無いような暮らしをしている所の人は、子沢山ですからねぇ。する事が無いから。」


「合っているかも知れないけど、そんな風にお二人に露骨に言われると・・・」

「でも部門長。良いじゃないですか。お目出度い話なのだから。又赤ちゃん出来たら今度は祝いに飲みましょう。」

「ええそれも良いですね。」

「でもちょっと問題がありまして。」

「何が?」

「ええ元々内の嫁は少々小太りで、それがこの所更に太って来て」

「それってお腹に赤ちゃんが入っているから、今までより沢山食べる様に成ったからじゃないのですか?」

「ええそうかも知れないですが、男の僕には判りません。只休みの日には外へ連れて歩ける程度の体形を保ってくれないとと思いまして」


「でもあの鹿児島で見た川本ゆかりはいただけませんでしたよ。まるで別人と思いましたから」

「川本ゆかりが?俺はっきり覚えていますよ。どのようにいただけなかった訳です?」

「ええ岩村さんと行った時と比べると相当細ってまるで別人でした。吉野さんと行った三年前のあの時からの間で、あれ程までに変わるのかと驚きました。」

「子供を産んだからじゃないのですか?」

「えっ川本ゆかりに子供が?」

「ええ三、四歳くらいの子が」

「それって結婚したのですね川本ゆかりは?」

「多分そうでしょう。彼女はまだ若い女性で、しかも綺麗な人ですから、九州へ帰ってすぐに縁談が在ったのでしょう。あんな大きな子が居ると言う事は。」

「そうでしたか。でも野坂さんはちょっとショックじゃなかったのですか?貴方はあの人の事が気に入っていた筈だから」

「よく覚えていますね岩村さんは」

「旦那と言う人を見かけていないのですか?」

「何故?」


「あの人の旦那だから格好良い人かもと思いまして」

「でも伊貝の女をしていた人だから何とも言えませんね。人の心なんて判らないから」

「でも野坂さん。今じっと考えて見ますとあの子供可成大きかった様な気がしません?

彼女が結婚してそれから出来た子にしては、大き過ぎたような気がしません?」

「私は自分の子がいないから判りませんが、あの子はしっかりした足取りであった事は覚えています。でもそれを聞いて何を思うのです。吉野さんは?」

「まさかあの子は伊貝の子ではないかと思ったのです。年恰好を思うと、一番理屈にあっているのかも知れないですから」


「でもそうなら部門長は何が気に成るのです。」

「気に成るって事は無いですけど、釈然としない何かを感じますね。」

「又始まりですか、でもね、犯人が亡く成ってしまった事件ですから、警察も新しい生活が始まっている彼女に、何かがあったとしても目を瞑ったのじゃないですか。」

「岩村さんらしい纏め方ですね。」


「岩村さん。ではお聞きしますが、貴方と行った時あの女はふっくらしていた。しかし三年経ち吉野さんと行った時は相当痩せていた。まるで別人に成っていた。

これは何故だか貴方流で言ってみて下さい。」

「俺流で?それは三年前野坂さん貴方にきつく言われた事が一番堪えたのでしょう。

そして結婚して子供が出来て、それで男には解からないけど体質が変わったとか何かがあったのでしょう。


更に思い当たる事は伊貝やウラベやヨシオカに何かを吹き込まれるとか、脅されていたとか在ったのかも知れません。俺流ってそんな所です。」

「凄いですね岩村さんは。何もかもを掴んでおられる。貴方は凄いです」

「又そんな言い方をして野坂さんは」

「でも岩村さん貴方が言われた事全部合っていますよ。あの川本ゆかりに何かがあるのかも知れませんね」

「ええ吉野さん。」

「この轢き逃げ事件の全てを解決する為には、あの川本ゆかりがこれからは痩せ衰えた生き方をするのではなく、僕の妻のようにふっくらとした体に成って、のんびりと生きて行かせてあげたいですね」

「ええ私はあの人の両方の姿を見ていますのでその話よく解かります。」

「僕が思うにはあの川本ゆかりが余程何かを心に秘めていると思われる事です。


 彼女はあの事故の唯一の目撃者ですから、いくら眠っていたと言っても一部始終を知っているかも知れないと思うわけです。

眠っていて全く知らなかったと言い切っていますが、そして警察にも同じ事を口にしたと思いますが、更に伊貝隆司が人を轢いた事を認めたから、そこには何の疑う余地も無かった訳で、事が収まった事も確かですが、しかし野坂さんが驚く様に彼女は痩せ衰えているようですし、それは何かを隠していて気を使っているかも知れないと思うのです。


 だからまだこの事件は解決出来ていない部分が在るのかも知れませんね。」

「解決出来ていない部分?でもそれは犯人の伊貝が死んでしまったから、今更どうにもならないでしょう?」

「ええ多分。でも」

「吉野さんもう良いのと違います。終わりにしましょう。伊貝も死んでしまったのですから。それにお金も相当使っているのだから。」

「ええ・・・」

「まだ気にいらない何かがあるようですね。吉野さんは?」

「いやぁすみません。何しろ僕の嫁さんは長男が生まれた後急に太く成って、それからそんなに落ちる事なく次の子が中々出来なくって、既に今七歳に成っているから、結構二人目は苦労したものですから、あの川本ゆかりは何故野坂さんが驚くほど痩せてしまったのか僕には考えられないのです。


 普通実家の田舎に帰って落ち着けば誰でも少しは気が楽になり、体つきもふっくらする様に思うのですが、彼女は全く別の状態であるわけです。

三年前か四年前、野坂さんが社員旅行で行った時に彼女の家へ寄った時と、その後に岩村さんと野坂さんが行った時、そして僕と野坂さんが行って、最初は別にして、その後は行く度に野坂さんが結構強い事を言った筈です。


轢き逃げを目撃していたと彼女を追い詰めるように言った筈です。

それはその後行った時も。だから二回目と三回目の間に彼女はガリガリに痩せてしまったと言う事になる訳です。

結婚して出産して幸せな暮らしをしていたら、果たしてその様に成るのかと僕には自分の嫁を見ている限り考えられないのです。


 岩村さんは貴方の奥さんを見て来て、僕の感じた事に同調出きるものがありませんか?」

「そりゃ吉野さんの言っている事が一般的だとは思うけど、でも人はそれぞれだから何とも言えないですね。」

「吉野さん又会社の慰安旅行今年は九州ってのは如何ですか?」

「ええ、そろそろ良い頃ですね。又九州を提案しましょうか?」

「あーぁ吉野さんは探偵癖が付いてしまって困った事ですねぇ」                 

岩村の言葉を最後に吉野は口を噤んだ。     



それでも吉野にしてみれば岩村ほどおおらかでも寛大でも無い性格でしぶとく何かに拘っていた。

しかし岩村の態度や野坂の冷静で沈着な判断が吉野の心を冷めさせて、いつの間にか吉野の猜疑心は消えようとしていた。



やがて近鉄八木駅近くの国道で起こった轢逃げ事件について、誰一人として口にする者が居なく成りつつあった。


川村源次郎は市長に成って半年も過ぎた頃には貫禄さえ出てきて、まるで何期も勤め上げている様な風格さえ感じる様に成っていた。     

川村源次郎が何はともあれ訴え続けたスローガンが、絶対轢逃げを許すなと言う力強い言葉と、安全そして安心さらには明るい生活などであったから、その言葉の全てに「正義」と言う言葉が含まれている事が、彼を更に清潔で頼もしく立派に感じさせていた。


 彼の背中から父が警察官僚であった事も自然と匂わせていた。

吉野は川村源次郎が市長に成ってから、市役所を訪れた事は一回も無かった。

もし彼が市役所に行って川村氏に関われば、川村氏は吉野に気を遣わなければならない事が分かっていたのでそれが嫌だった。


川村源次郎にすると、右腕に成って活躍してくれた吉野に、市長の椅子を見せたかった事は確かで、全く姿を表さない吉野に寂しささえ感じていた。

 しかし吉野が元々川村に関わって興味を示したのは、川村が轢逃げ犯を憎んでいた事と、全く同じ人物に関心があった事が第一で、吉野が橿原市の将来の事を別に熟思したかった訳ではなかった。                            

 吉野は基本的には決して真っ直ぐでは無い生き方を選択して来た男であったので、案の定川村から次期の市会議員選挙に立候補者として名を連ねる様に言われていたが、全くその気は無かった。

そんな良い人には成りたくなかった。


そして伊貝兄弟の様な悪人にも成る積りも無かった。第一会社がそのような事をすれば許して貰えない事が解かっていた。一頃のような好景気の時代なら地域貢献と言う名目で収まる美談であったかも知れないが、そのような時代ではない。


まして本社が滋賀県で橿原市はあくまで生産工場であるから迂闊な事は出来ない事も事実であった。

 岩村も野坂にも説得された様に成って吉野は轢き逃げ事件の事を忘れ様としていて、いつの間にか彼自身も完全に忘れて来ていた。

 そして又今までしていたように休みの日には上の子の遊び相手になったり、パチンコ屋へ行って時間を潰す様な事を繰り返していた。


万が一以前の様にヨシオカススムのような男が近づいて来ても、あの時のような穏やかでない気持ちに成る事などありえないと、心が整理出来ていたので余裕であった。       


伊貝隆司は既に死んでしまったのであるから、お金を振り込んで来たヨシオカやウラベが今更敵を取る様に吉野を狙って来るとは考えられなかった。

それは兄伊貝直助が県会議員として今も無傷で現役であったから、その事が吉野が無事で居られる要因であると確信を持っていた。


もしあの伊貝隆司が自首をした時に、芋ずる式で伊貝直助の政治生命も粉砕する様に成っていたなら、吉野たちはどれだけ恨みつらみを被らなければ成らなかったかと成った訳で、命さえ保障されない事態に成っていたかも知れない。

ところが伊貝隆司が急逝したことが幸か不幸か多くの人の運命を決めた事になった。

だから吉野は久しくしていなかったパチンコを再開して、余暇を楽しむ以前の姿に戻っていた。

そして金曜日の夜は岩村と野坂の三人で飲み会をするささやかな生活を取り戻していた。




やがて吉野の妻幸代がいよいよお腹が大きく成って来て、待望の二人目が間も無く誕生する事と成り、久しぶりに吉野は興奮する歓喜の瞬間を間近に控えていた。

こんな時の男は手持ち無沙汰な時が多く成っていて、休みの日は時間を弄ぶ事に成る。それで気を遣いながら又パチンコに出かける事が多く成って来ていた。


しかしそんなある日良からぬ事が起こった。


パチンコ屋さんの店員さんがそわそわとしている姿が見え隠れして、小走りで走っている店員さんもいる。その内救急車のサイレンの音が大きく鳴り続けている事に気がついて、吉野はあまりにも気になり始めたので立ち上がってトイレに行くような格好で音の鳴る出口に向かおうとした。

女子トイレで多くの店員が群がっている。覗き込むようにすると、毛布を被せられた多分女性がタンカーで運ばれようとしている。


「まさか!」


それは病気でも、怪我でも無い事が翌々日のニュースで判った。

【一昨日パチンコ店のトイレで女性が首吊り自殺していました。

店員さんが定期的に点検されていて見つけた様で、発見された時は既に亡くなっていたようです。亡くなっていたのは大和高田の女性で、家族の話ではパチンコ依存症の様に成っていて、家族に黙って相当高利のお金に手を出していた事も判ったようです。年齢は三十代後半でまだ幼い子が居り大変痛ましい出来事が起こりました。


全国には無数にパチンコ店があり、ギャンブル依存症と言うある種病気に掛かっている人が相当数居る事が考えられ、節度を持って何事にも臨んでいかなければならない時代であると思われます。どうか皆様ご注意ください。家族や身近な人がその様に成っていないか気をつけましょう。痛ましい出来事が起こりました。】


吉野はこのニュースを聞きながら、あのウラベマコトやヨシオカススムと名乗る人物が頭に浮かんで来ていた。

特にあの籠絡ろうらくに慣れたおもむきのヨシオカススムの巧みな話術と笑顔を強烈に思い出す事になった。


あのヨシオカススムがパチンコ屋で乗っていた高級車は、二日前パチンコ屋からタンカーに載せられ運び出された女の命と、引き換えに成ったお金が含まれてはいないかと勘ぐっていた。

こんな事が起これば世間は広いようでそんなに広くはない。

まして同じ大和高田の金融屋に大和高田の主婦がお金を借りていたと言う事は、何処かで繋がっている事が間違いないと吉野には思われた。


結局この連中は合法も非合法も手を出す連中で、合法であってもそれが十八%の利息なら、借りている者にとっては致命傷である事は間違いない。

初めに借りたお金の利息を考えた時、その利息が僅かである事を意識するのであるが、そのうち借り入れが満杯に成り、幾ら返しても、返しても、借りた元金が減らない仕組みに成っているのである。

満額の九十パーセントを越す借り入れが常に在り、残された十パーセントの間で泳がされるのである。返しても返しても永久に減る事のない仕組みである。

そして死ぬ所まで取り続ける構図である事は明白であるが、その現実を先ず飴で、そしてやがて鞭で解からしめるのである。

それがウラベマコトやヨシオカススムの本当の姿なのである。


吉野は亡くなった女が、巧みに嵌められて行った金融地獄の様子を、鮮明に頭に浮かんで来たが、『可哀相に』などとは思わなかったが、『畜生!』と怒りさえ覚えた。 



吉野はそのような事があってパチンコまでが嫌に成って来ていて、同じくしていよいよ妻幸代のお腹が大きく成って来て、妻が実家に帰る事と成った。妻幸代の実家は滋賀県大津市で琵琶湖の麓で綺麗な街であった。


吉野が本社勤務の頃に見初めた経緯があり、大津は第二のふるさとで、妻を車で送ってから自宅に戻ったが、調度夏休みであったので長男も妻と一緒に行ってしまったので今は一人ぼっちであった。

インターネットでなんとなく格安切符を捜していて鹿児島行の切符を捜していると、二枚買える事が出来そうである。

しかしだからと言って買う気など無かったが、試しに野坂に電話を入れる事にした。       

「ええ、私も退屈していましたから、行かれるのなら是非ご一緒させて下さい。砂風呂でも入りましょう。」と成り、

思わぬ展開に成って吉野は自然と胸騒ぎがして来る事を感じていた。

妻幸江にその事を言ったが、妻も実家で自由と我儘がまかり通っていて心地良かったのか、決して小言など言わずに優しく承諾してくれた。  


「せっかくのお休みにすみませんねぇ野坂さん。」

「いいえ。どの様にして毎日を過ごそうかと悩んでいた次第で、独り者はその程度ですよ。

それに毎日が暑いから五十を越すと何もかも衰えて来るようで。」

「そんな事無いでしょう。まだまだこれからですよ。」

「いやぁどうですかなぁ側に葛城山もありますがたまには登ってもと思いますが・・・あなたのようにパチンコもしないから、涼しいところは知っていますが実に退屈しています。」


「ところで野坂さんは先日のニュース見られましたか?パチンコ屋で女の人が死んでいたニュースを」

「勿論橿原のですね。多分吉野さんはあのニュースで、高利のお金を借りていたと書かれていたので、ヨシオカとかウラベとかを思い出していたのじゃないのですか?私はあの記事を読んだ途端に吉野さんの事を思いましたよ。」

「さすが」

「そして今日に結びついたって事ですね。」

「ええ、図星です。正直僕はあの事件は、詰まり轢き逃げ事件ですが、未だに何かがあると踏んでいるようで、と言うか、こんな自殺をするような悲しい出来事が起こって、そこにヨシオカとかウラベとかが絡んでいると成ると、あの轢き逃げ事件が果して解決したのかと思われて来ている事も確かです。


心の中で何かくすぶり続けていてそれが今小さな火に成って燃え始めた気がしています。

ネットで格安航空券が無いかと調べだしたのも、心の底に潜んでいる何かがそのようにさせたのだと今では思います。」

「ええ、それは私も同じ事を言えるのですが、岩村さんの考えも実は正しくって、何もかもを忘れてさっぱりとして生きて行く事も大事で、彼はその様な考え方で生きているのでしょうね。

だからさっぱりしていてしつこく無くストレートだから、だからいざと言う時に私も吉野さんも一本取られるのでしょうね。 彼はその点が凄い人だと私は思います。尊敬もします。」         

「そうですか。岩村さん喜びますよ。あの人が居ない所でそのように言っている事を知ったら」

「でもあの人は結局照れて、誤魔化すのでしょうね。何時ものように」

「そうですね。それは言えますね。」


「ところで吉野さん。これからどのような段取りを組んでいるのです?」

「それは正直行ってみないと判らないです。むしろ僕より野坂さんが一番聞きたい事を、あの人にぶつけられる事が何よりでは無いでしょうか。

僕が一人ならあの人と話しながら切り崩す様に話す事を考えますが、野坂さんが一緒ですから、貴方が何もかもを聞かれる事が何よりだと思います。


僕が一番知りたい事は、なぜ川本さんが激痩せに成ったかって事で、それは僕では判らないのです。野坂さんだけが判る事なのですから」

「そうですか。それは私も気に成ると言えば気に成っている事は確かですから、私が何とか聞く事にしましょう。」

「それに子供の事も」

「子供?」

「ええ出来れば旦那さんの顔も見たいですね。」

「ええ、まぁ」

「今は落ち着いて暮らしていると思いますが、僕は今でも何かを気にしている訳ですから、こうやって行く以上はすきっとして帰りたいですからね」

「そうですね。吉野さんは何しろこの一連の出来事の総元締めですからね」



そして 二人が鹿児島に付いた時は昼を廻っていたが、慌てて食事を済ませて気になる川本ゆかりの家を訪ねていた。



川本ゆかりは海辺に無造作に置かれたベンチの日陰になった所へ二人を案内した。  

「川本さん。何度も来させて頂いて貴方に迷惑をかけている事も承知しています。

しかし我々が伊貝隆司を轢逃げ犯人として警察に自首させた事も事実なのです。彼は確かに轢逃げをした事を自供しました。貴方が助手席に乗っていて眠っている間に事故をした事も。


そしてこれから現場検証をして実証する事に成っていたその矢先に、彼は亡く成ってしまいました。でも私たちはそれで何もかもが終わったのかが疑問に思えているのです。

貴方が何かを知っていないかと思っているのです。それは、私がその様に感じるのは、貴方があまりにも激痩せされたからだと思います。



私も所詮田舎育ちの人間です。時たま田舎に帰り年老いた両親に会いお墓参りに行きます。その瞬間気が緩んで食事も美味しくなり気が付けば可成太る事があります。


誰でも同じ事が言えると私は思っています。 でも貴女は何故か鹿児島に帰られてから激痩せされましたね、私はこれで貴女にお会いするのは三回目、いや四回目に成ります。貴方に何があったのかを知りたいのです。何かがあったから、そして気を使ったからお痩せに成られたのではないのですか?

結婚されたからですか?旦那さんに気を使ってですか?あるいは環境が変わったから?お子さんを産んだからかな?」

「いえ、結婚はしていません。」

「えっ結婚?していない?」

「していません。」

「でも前回来させて貰った時にお子さんが・・・」

「あれは、あの子は・・・」

「あのお子さんは?」

「・・・」

「あのお子さんだったのでしたか?でも・・・」 

「・・・」

「まさか伊貝の?」

「・・・」

「そうなのですか?」

「・・・」 

「そうなのですか?」

「はい。」 

「では貴方が急遽此方へ帰られた時にお腹に赤ちゃんが?」 

「ええ」 

「伊貝はその事を知っていたのですか?」

「・・・」

「どうなのです?」

「・・・」

「まさか知らなかった。しかし伊貝は死んでしまったのですか?可哀相に酷い話ですね」

「・・・」


「待ってくださいよ。でも始めて来させて貰った時は、貴方はまだお腹が膨らんでいなかった筈。だからおろそうと思えばおろせたのじゃなかったのですか?伊貝は何れ逮捕される事は貴方には判っていた筈。お父さんやお母さんにも言われなかったですか?相談されましたか?」

「・・・」

「野坂さん僕にも質問させて下さい」

「はい」

「川本さん僕は吉野と言います。この前も来させて頂きましたが、貴方と話すのは初めてだから、 

 今聞かせて貰っていて子供さんは間違いなく伊貝隆司の子供なのですか?正直に言って下さい」

「ええ、そうです。」

「詰まり貴女が伊貝隆司の子がお腹に育っている事を伊貝隆司に言っていないのですか?それとも彼も知っていたのですか?教えて下さい。」

「・・・」

「どちらなのですか?それとも貴方から電話を入れて、お腹に赤ちゃんが出来ている事を伊貝にこちらへ帰ってから伝えたのですか?」

「・・・・・」

「このような事を繰り返していても、貴方がはっきり言って下さらなかったら前へは進まないのです。貴方がなぜ劇痩せしているのか、此方の野坂さんが気にしているのです。何度もお邪魔させて貰っていますから。心配しているのです。」   

「そうです。私は既に五十の歳です。今貴女を苦しめる事など考えていません。ましてや伊貝も亡くなってしまいました。

でも最近大和高田では又事件が起こっています。悲しい事件です。


女の人が自殺をすると言う事件です。その事件の裏に伊貝直助の仲間が関わっている様な気がします。これははっきりしていませんが可能性が十分あります。


伊貝隆司が急逝して半年も過ぎました。詰まり悪い事をする者は、迸りが醒めるとまた同じ事を繰り返すのだと言う事です。

貴方が何かを隠している様に思うのは、今何もかもを曝け出さない限り、又同じ事を繰り返す事に成るような気がします。何か話して頂けませんか?何かあるのなら?貴方を苦しめている何かがあるのなら・・・」 

「僕からもお願いします。貴方は警察に話さなかった事がありませんか?僕らはこのようにして此方へ何度も来させて貰っていますが、何も犯人を捕まえに来ている訳ではありません。



兄の伊貝直助の様に権力を傘に着て好き勝手している連中に逆らっている事が第一の目的なのです。

僕は今でも伊貝隆司が轢逃げして、人を虫けらの様に考えているような男では無いと思うのです。

何故ならあの男がパチンコをしていて、その時は勝ったのか満面笑顔でお金を握りしめて、子供のような顔をしていた時、まるで優しいおじさんでした。僕はそのように感じたのです。


それからも正直今から思えば兄直助に急き立てられ、市会議員に成った事は成ったのですが、本当はそんな事するより好きなパチンコをして親から貰った財産を使いながら楽しく穏便に暮らしたかったと思います。


貴女が今よりもっと若い時からあの男に長年世話に成っていたのも、貴方には彼の気性がよく判っていたからだと思います。

貴方は伊貝の事が好きだったのでしょう?

お金を貰えるからではなく、貴方はあの男に恋をしていたのではないのですか?

だからこの様にして此方へ急遽帰る事に成ったが、偶々妊娠をしていたけど、でも迷いことなく

赤ちゃんを独りで産む事を決めたのじゃないのですか?違いますか?    


貴方が言われた事を警察に言うなんて事は絶対無いのですから。僕は警察なんて大嫌いな方ですから。実は伊貝にあの自首をした二日前手紙を出しました。

そして貴方はもう逃げられないと自首する事を勧めました。僕が血も涙も無い人間ならもっと早く警察にちくっている筈です。

そして伊貝も選挙など絶対出られなかった筈です。貴女ならその事は十分お判りでしょう?


「川本さん、伊貝が刑務所で何かを言いたかった事判りませんか?貴方が唯一の目撃者なのですから、警察に行った時と同じように眠っていましたと言いますか?本当に眠っていたのでしょうか?しかし人を一人撥ねてしかもその人は死んだのですから、それで眠っていたでは済まされないと思います。

伊貝は死んでしまいましたが、生きていて現場検証を実際していたなら、眠っていて判りませんでしたでは済まされないと思いますよ。」

「・・・・」

「川本さん私からもお聞きします。何を気にされているのか言って下さい」


「貴方が何を気にされ、現にこの様にして痩せられているのか正直心配なのです。

正直この前来させて頂いた時より更にお痩せです。人の事は放っておいて下さいと言いたいでしょうが、多分、伊貝隆司も同じ事を思ったかも知れませが、結果的に気を使い貴方と同じように疲れ果て、そして死んでしまったわけです。


だから人間は思いの他、見えなくても重い荷物を掲げて生きて行く事がどれだけ負担になるかと言う事だと思います。

結果その為に伊貝の様に生き耐え朽ち果てる事もしばしばあると言う事だと思います。

僕らは何も警察ではありません。貴方が何を言おうとここだけの話に致します。約束します。正直に何もかもを話してもらえませんか?」


その時川本ゆかりは大粒の涙を頬を伝わせ口を開いた。


「解かりました。ここだけの話と言う事で。私も幼い子供もいます。もしここだけの話で収まらなかったら、私は遠くない日に新聞に載る事に成ると思います。その覚悟をする為にこの様にして痩せてしまったのだと思います。

それで宜しいでしょうか?」

「ええ、お約束致します。話して頂けるのですね?」

「ええ、話します。これ以上来られても今度はわたし位牌に成っているかも知れませんので」

「位牌に?」

「そうです。この鹿児島に帰ってから何度も考えましたから、死んでしまう事を」

「まさか?」

「いえ事実です。でも・・・でも・・・」

「どうされましたか?」

「いえ、とにかく話します。


 あの事故のあった日、伊貝さんと私は遅くまでお酒を飲んでいました。

それで夜明け前、店を出て伊貝さんが悪酔いしたと戻しそうになり、あの八木駅近くの道で運転を代わりました。私は無免許でしたが、時たま伊貝さんが運転を代わってほしいと言って、変わった事が過去に何度かあり、彼の車だけは運転が出来ました。


そしてあの事故現場に差し掛かった時に、いきなり女の人が飛び出して来てぶつかりました。その儘その人に乗り上げた様に成り車は止まりました。

それがスカートにタイヤ痕が付いていたと言う事だったと思います。


伊貝さんはびっくりして私の顔を見ましたが、その後車から降りて、「動いているから大丈夫」と言って慌ててバックをして私と運転を代わり、ライトを消して慌てて走りました。

信号で左折してライトを点けて高田に向かいました。



伊貝さんの言葉で私も大した事故でなかったのだと思いました。

そしてその儘走る事になりましたが、でも私はぶつかった時に可成音がしましたから怖く成って来て、車を路肩に止めて貰いました。


その時私は急にむかついて来てその時妊娠している事に気が付いたのです。

伊貝さんが、「お目出度?」と言って嬉しそうにし始めましたが、そのまま俯いて黙ってしまいました。ハンドルを持つ手は震えていました。 

      

「警察に言いましょうよ。あの人本当に大丈夫なの?」と伏せこんでいる伊貝さんに問い訪ねました。

『大丈夫だと思う。あんな所で酔っ払って車にぶつかって来たから仕方ないよ。』と決して死亡事故に成る様な言い方では無かったです。


そして伊貝さんが、 『もしあの人に何かがあれば、私が運転していて撥ねた事にして、ゆかりは横で眠っていた事にしよう。

それで私が万が一警察に捕まっても、ゆかりは私の子供を大事に育ててくれれば何もかも上手く行くから。いいねゆかり』と言われたのです。


そんな事いけないわ。伊貝さんは選挙に出る事は決まっているのでしょう。お兄さんに何時も言われているって言ったじゃない」と言うと、

『いいよそんな事は、だから今はあの人には申し訳ないけど逃げる事にするよ。大した事故じゃ無かったら良いから』と伊貝さんが言い切って車を走らせました。


 それでその後、あの人は私の体を案じて直ぐに鹿児島に帰る様に言ったのです。

そして私は鹿児島で誰にも何も言わず赤ちゃんを産む事を決意致しました。

とても淋しかったです。とても不安だったです。でも大好きだった伊貝さんの赤ちゃんだと思うと、そして伊貝さんが私の犠牲に成る覚悟で、身代わりに成って頑張ってくれる事を思うと、覚悟を決めて産む事にしました。



でも私のした事は・・・それから私が轢いた女性が死ぬ事に成り、どれだけ私は自首をする事を考えたかわかりませんが、お二人が来られた時も私は子供を連れて死んでしまおうと海岸で佇んでいた事もありました。

今も死んでほしいと言われれば死ぬ覚悟は出来ています。ただ伊貝さんが亡くなった事を知った時大きな罪を受けた様に思いました。


これで許して戴けるかも知れないとも思いました。


伊貝さんはいつでも警察で私の事を口に出来たのを、決して口にしなかった事が辛くもあり嬉しかったです。

生き続けられるのなら、私はあの人を誇りに思い、その血をひいているあの子を宝に思って育てようと思っています。

もし生きる事が許されないのなら、私はあの子を抱きしめて鹿児島の海に身を投げる覚悟です

どちらでも構いません。覚悟が出来ていますから


伊貝隆司さんは轢逃げ犯ではなかったのです。それは私なのです。あの人はあの事故の目撃者なのです。

私が一番悪いのです。許して下さい。いえ許されなくても構いません。

このまま痩せ細り、気を病んで朽ち果てて行く事が罰だと思っています。毎日痩せて苦しんで身を削る事で、心で病む事で、伊貝さんを偲ぶことで、罪をほんの僅かでも少なくしていると思っています。すみませんでした・・・」


「川本さん、川本さん、よく話してくれましたね。」 

「本当に感謝致します。」 

「いえ私に勇気がありましたら、こんな事にはならなかったのです。伊貝さんが死ぬ事も無かったと思います。」

「解かりました。貴方が言って下さった事は、ここだけの話ですから、それに貴方は大きな罪を犯したわけですが、今貴方はこの儘生きなければ成りません。

僕らには貴方を裁く権利など無いのです。今一番大事な事は、僕らが警察に行く事などではなく、貴方が伊貝さんの子供さんを大切に育ててあげる事だと思います。

これ以上痩せる事も、気を遣う事も、罪の意識を感じる事も取り敢えず忘れて下さい。」


「伊貝さんは奥様との間に子供が出来なくて私に望まれました。だから私が妊娠した時本当は涙を流して喜びたかったと思います。あんな事が無かったら、だからあの人に、『自分がどう成っても良いから、赤ん坊だけはきちんと産んでほしい』と言われました。

私は随分悩みました。警察へ行って警察の中で産む事も考えました。でも伊貝さんが嫌がりました。

 そしてどんな事があってもあの事故は伊貝さんが起こした事故であると言い張りました。

私にとってどれほど優しい人であったか計り知れない人でした。今私はあの人の所へ二人で行っても良いと思っています。

お二人がこのまま警察へ行かれて、今日の事をお話されても一向に構いません。覚悟は出来ています。」

「いえ、そのような事はありえません。僕らはそんなに警察が好きでも、役に立ちたいとも思っていませんから。

川本さん、もう随分苦しい思いをされたじゃありませんか。貴方のした事は決して許される事では在りませんが、僕は許します。僕なら不問にします。野坂さんはどうです?」     

「ええ私も、川本さんもう二度と来ませんから、勿論警察も来ませんから、今まできつく言った事をお詫びします。」

「又機会がありましたら一度で良いから、八木駅前の現場へ行って頂いて手を合わせてあげて下さい。子供さんが大きく成ってからで良いですから。」

「わかりました。お約束致します。」




 吉野と野坂が川本ゆかりと別れた。


「吉野さん。気が済みましたか?」

「ええ、すっきりです。」 

「では行きましょう。」

「どこへ?」

「何を言っているのです。砂風呂ですよ。今日は砂風呂に入りに鹿児島まで来たのでしょう?」

「あぁそうでした。他に何も用事が無かったですね。何かあった気がしましたが・・・」

「いえ何も無かったですよ。だから帰っても岩村さんにも、今日ここへ来た事も言わないでおきましょうね」

「ええ。何も無かったのですからね、正しく」

「さぁ早く砂風呂へ」

「ええ」




二人は古めかしいホテルの砂風呂に案内された。


「部門長、気持ちよさそうですね。」

「ええ、なんか大きな仕事が片付いたような気分です。」

「そうですね。私も肩に圧し掛かっていた荷物が取れて行くように思います。」

「ええ、実に・・・・・フフッ・・・フフフッ」

「どうしたのです部門長?何がおかしいのですか?何か思い出し笑いをされて気味悪いですよ?」

「いやぁ~この轢き逃げ事件も目撃者としての我々の役目も今日終ったわけですね。

それって言い換えればまほろば警察署が轢き逃げ犯を捕まえることなく終焉を迎えるってことですよ。」

「正しくその様になりますね。」

「つまり僕が若い時に、信号の無い交差点で草むらに隠れていた警察官が、ズボンにひっつき虫を一杯着けて道へ飛び出してきて、『一旦停止しなかった!』と言い切って、間違いなく止まっていた僕の反論する言葉に聞く耳を持たず、怖い顔を作って反則切符を切られた時の事を思い出したのです。


 草むらから飛び出して来て有無も言わさず白を黒と言ったのも、轢き逃げ犯を間違って目撃者を黒にしたのも同じ警察。


 この二つの事実ってどのように思えばいいのかとおかしく成ってきて・・・・・同じまほろば警察署だから余計に・・・」


「でもこれで部門長もその嫌な思い出は忘れられるでしょうね。」

「そうかも知れませんね。なんか温かくて眠くなってきました。」

「眠りましょうか?」

「はい。」

「おやすみなさい。」

「はい。良き夢を」

「あなたも良き夢を」

「いえ、僕はおまわりさんに追われている夢を見そうです。」

「まさか・・・」

「これで僕も少しは素直な性格になれそうです。ありがとうございました。」

「よかったですね。」

「はい」




   完結



(この物語はフィクションであり登場する

実存する全てとは一切関係ありません。)





  題名 目撃者

  作者 神邑 凌


お疲れさまでした。 他にも奈良が舞台の作品があります。


葛城山 葛城山を愛した家族の物語


さちとゆき 橿原市で住む若い男女が波乱の日々を経験する。


挽歌の聞こえる丘 奈良で住む若者が政治家になる夢を抱いた物語



完結です。

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