真夏の悪魔
夏が嫌いな主人公———僕のひと夏の出来事。
物語は父の書斎で見つけた一枚の写真から始まる。そこには仲良く映る男女の姿があった。
父や「彼女」とのやり取りを経て、何もなかった僕の高校二年生の夏は一生忘れられない思い出になる。
※恋愛要素は薄いです。
――僕は、夏が嫌いだ。
源泉のように湧き上がる心情。
父の書斎の、社長椅子さながらの柔い革製の椅子に腰かけ、視界を埋め尽くす本の壁を眺めながら、僕は思う。
夏は自分には熱すぎる、夏は自分には眩しすぎる、と。
そんな僕にとって、外からの光の殆どを分厚いカーテンで遮断しているこの書斎は夏を過ごす場所として最適だった。一応電灯はあるが、灯りを点けずに薄暗い部屋でこうして本を漁るのが僕は好きだった。
時折、強い風が吹くとカーテンがふわりと舞い、室内に陽光が差し込む。これくらいの光量で充分なのだ。
そんなことを考えていた矢先、今日一番の風をカーテンが捉えた。白く霞む視界の端に、何やら光るものが映り込んだ。
「これは……写真だ」
端が少し黄ばんだ写真。被った埃を払い、手に取って確認する。そこには自分と同年齢程度の男女が仲良くブランコに乗っているのが映っていた。
「これ、うちの近くの公園じゃないか。映っている男は父さんかな」
はっきりとわかるわけではない、雰囲気がそれとなく父に似ているというだけだ。それに対して女は、顔の部分が掠れて見えなくなっていた。
「まあ、きっと母さんだろう」
その他の点は特にこれといって印象に残るものではなかった。
僕は写真をそっと机の上に戻し、部屋を後にした。
***
その日の夕食時、普段は無口な父が珍しく口を開いた。
「お前……今年でいくつだ」
その、たった一言。夕刊に目を通しながら、別にこちらを向くわけでもなく、父は低い声で問うた。
「十七……だけど?」
そのことに、僕は驚きを隠せなかった。続く言葉が紡ぎ出されない。長らくしていなかった父との会話、何をどう話していいのか全く見当もつかない。
僕が慌てふためいていると父は「そうか」とだけ言い残し、早々に席を立って自室へと姿を消した。
こうして再び、いつものがらんとした静寂が我が家に戻ってきた。
「久しぶりに父さんの声を聴いた気がする。いつからだっけな……うちから会話が消えたのは――」
僕は、古い記憶を思い返した。
それは、自分が小学生になりたての時期だった。それまで家庭円満に暮らしていた我が家に、大きな亀裂が入った。
「どうしてわかってくれないのよ!!」
木々さえも眠りについた真夜中。その静けさ故、母の声は痛いほどに我が家に響き渡った。僕はその声に驚き、目を覚ました。
幼いながらに、何か尋常でないことが起こっているということを察した僕は、布団を静かに離れ、居間に繋がる扉を少しだけ開け中の様子を窺った。居間から漏れ出した灯りが、寝起きの僕を包んだ。
「いいから、とりあえず落ち着こう。な?」
扉を隔てて聴こえるのは母を諭す父の、優しい声。そう、以前の父は、優しくて、落ち着いていて、僕の憧れの存在だった。
「別に……いいじゃないの、一緒に来てくれたって。どうして?私はあなたと一緒にいたいの」
半狂乱になり喚く母の声には嗚咽が混じり、掠れていた。
「俺だって一緒にいたいさ。でも俺はどうしてもこの場所から離れたくないんだ」
「それも『昔の約束』なの……?」
「それは……」
母の探るような問いに対して、歯切れの悪い父。当時の僕には、何が起こっているのか理解できなかった。この時の父に、母の他に思いを寄せている女性がいたという結論に至ったのは何年も後のことである。
「やっぱりそうじゃない! 早く目を覚まして、そんな人はいないの!」
「知ったような口を利くんじゃない」
低く、威圧感のある声。それは、父が母に対して感情を荒げた最初で最後の瞬間だった。
それから暫くして、二人は離婚し、僕は父の実家だったこの家に残ることになった。
そして、今に至る。
「ああ、嫌なこと思い出しちゃったな……早く風呂入って寝よう」
結局その後、父との会話は一つもなかった。
***
それから、一週間後。
僕は、課題を提出するため、煌々と照り付ける陽射しの元、よたよたと学校へ向かった。これといって知り合いにも出会わず、特にやることがなかった僕は、学校に着くなり真っ先に目的地である職員室の扉を叩いた。
「失礼します」
扉を開けると中からの冷気が優しく肌に当たった。
「課題の提出に来ました」
「そこらへんに置いておけ」
「はい」
指示された場所へ行くと、仕事机の上に提出用の箱と提出日を記録するカレンダーがあった。僕は鉛筆を手に取り、八月十四日の日付にしるしをつけた。
そして用事が済んだので足早に退室。これまた誰とも出会わず、何事もなく帰路に就く。
***
「そうか、もう八月の十四日か」
夏休みに入ってから今まで、最低限の課題をこなす以外は全て書斎で本を漁っていた僕にとって、夏の思い出と呼べるものが未だ何一つとして無かった。何もしないうちに夏休みも折り返しに差し掛かるところまで来ていたという事実に、僕は焦燥の念を抑えることができなかった。
「確かに夏は嫌いだ。だけど本当にこのままでいいのかな?」
いや、貴重な青春の一ページを無下にはできない。
などとくだらないことを考えながら歩いていると、いつの間にか家の近所まで来ていた。正確に言うと、僕は家の近くにある公園の入り口に立っていた。
いつもなら気にも留めない、ブランコと滑り台しかない小さな公園。
しかしその時の僕は不思議と吸い込まれるようにして公園へと入っていった。
この公園はその周囲を垣に覆われており、外からでは内部を窺えない造りになっている。この造りが公園を外界と完全に切り離し、公園内は辺りの住宅街とは全く別世界を作り上げている。
公園に足を踏み入れると、今までの猛暑がまるで嘘であったかのようにひんやりと涼しい空間が広がっていた。
「ここってこんなに涼しかったっけ」
特に日陰という訳でもない。寧ろ垣に囲われているため風通しは他の場所よりも悪いはずだ。なのに、何故……?
「こんにちは」
僕が入り口で茫然と立っていると、背後から声がかかった。
「あ、こ、こんにちは。すみませんこんなところに立ってて。邪魔でしたよね」
後ろを振り返ると、そこには丁度僕と同い年くらいの少女が紅い浴衣姿で立っていた。全体的に整った顔立ちに細長い手足。そして腰あたりまで伸びる艶やかな黒髪と雪のように白い肌が見事な対比を作り上げていた。可愛いというよりは美しいといった印象だ。
「いえ、大丈夫です。それより、私たち以前にどこかでお会いしませんでしたか?」
目の前の少女はお淑やかに問いかける。僕はその光景をどこかで見た覚えがあったが、どうにも思い出せず。
「たぶん直接会ったことは無いと思います」
そんな曖昧な答えしか返すことが出来なかった。
「そうですか……すみません。人違いだったようです」
「誰か探しているんですか?」
悲しげに俯く彼女に、僕はそれが無粋とわかっていても聞かざるを得なかった。
「探している、というよりは待っていると言った方が正しいのかもしれません」
「待っている?」
「ええ、私はずっとこの場所で待っているのです。あなたにとてもよく似た少年を」
遠い昔の話ですけどね、と付け加える彼女。その立ち居振舞いは年に合わず妙に大人びていて、違和感を覚えた。
「力になれなくてすみません……」
「大丈夫ですよ。時間が無いわけではありませんし、お気になさらずに。それより、少し世間話でもしませんか」
浴衣の彼女は僕にそう告げると、着物の裾をたくし上げてブランコに腰かけた。錆びついたブランコが音を立てて揺れるたび、その黒髪がふわりと舞う。
「世間話ですか?」
「ええ、最近のことをよく知らなくて」
彼女の言葉に僕は疑問を抱く。最近のことをよく知らないとはどういうことなのだろう。暫く海外に滞在していたのだろうか。日本にいながら世情を把握できないほど隔絶された環境で生活しているのか。それとも――
いや、余計な詮索はしないでおこう。
「最近でしたら――」
僕は空いているもう一つのブランコに座り、ここ数か月の間に起こった主な出来事を思い返した。
***
時間というのは存外早く過ぎるものだ。気が付けば、太陽はその姿を半分ほど地平へと隠し、真っ赤な空が一面に広がっていた。
「そうなんですか、そんなことが」
「いやー僕もまさか本当にやるとは思っていませんでしたけどね」
「ふふ、面白いですね」
僕と彼女は公園のブランコに揺られながら、かれこれ数時間は他愛ない会話を続けていた。どこからか聴こえてくる蜩の鳴く音が、夏という実感を抱かせると共にどこか物寂しい雰囲気を醸している。
「いけない、そろそろ時間が」
公園の時計を見るなり突然立ち上がる彼女。杜撰な仕草のはずが、その容姿からか無駄に華麗に見えてしまう。それにしても物凄い話の切り方をするものだ。「いけない、そろそろ時間が」なんて台詞、昔の少女漫画の中でしか見たことが無い。
「では、私は失礼しますね」
そのまま去ろうとする彼女に、僕はふと、どうしても聞きたいことを思い出した。今聞いておかなければ絶対に後悔すると直感した僕は咄嗟に叫ぶ。
「あの! そういえば名前を聞いてませんでした!」
間一髪。僕の一言に、公園を出る寸前だった彼女が振り返る。
「私ですか? 私は――」
彼女が名前を言った瞬間、大型トラックが爆音と共に彼女の背後を走り抜けた。そのけたたましいエンジン音に掻き消されて、名前の部分だけが聞き取れない。彼女の口元が動いているのは窺えるが、何と言っているかまでは到底わからない。
「――です」
トラックが通り過ぎて発生した突風に彼女の髪が激しく靡く。一拍置いて止まっていた時間が動き出したようだった。徐々に僕の耳に音が取り戻されていくが、聞き取れたのは最後の一部だけだった。
僕の問いに答えた彼女は風で乱れた髪を手ぐしで整え、こちらを向き直り丁寧に一礼すると、そそくさと公園を後にした。
今思えば不可解極まりないのだが、その時の僕はブランコに揺られながら、彼女の背中が完全に見えなくなるまでただ茫然と見ているだけだった。
***
その日の夕飯時、僕は公園で起こった出来事の一部始終を父に話した。
「それで、結局その人の名前はわかったのか?」
新聞を読みながら、父。
「いや、それが丁度その時車が通って聞き取れなかったんだよね」
僕は父と目も合わせず、誤魔化すように笑った。父のことだ。きっと「何故聞き返さなかったのか」と問い詰めてくると思い、内心身構えた僕だったが父の反応は予想と反していた。
「やはり……同じだ」
「え?」
その予想外の反応に、僕は思わず目を丸くする。
「俺も、丁度お前と同じくらいの歳の夏、同じ経験をしたことがある」
語る父の目は遠く、古い過去を見ているようで、何故かとても悲しそうだった。そのたった一言に重みを感じ、胸が締め付けられる。
と、同時。父の過去について思い当たる節が一つ、心に浮かぶ。
「それって……昔の約束と何か関係あるの?」
僕は意を決して父の核心に触れてみた。父は一瞬だけ怪訝な顔を覗かせたが、読んでいた新聞を机の隅に置き、ゆっくりと口を開いた。
「……ある。ああ、今でもはっきり覚えてる。あれは俺が高校二年生の時だ」
父はまるで心の枷を一つ一つ外していくように、ずっと胸の内に秘めてきたことを僕に明かしてくれた。
僕が公園で見た彼女は父の幼馴染だということ。
彼女は父とあの公園で毎日のように遊んでいたこと。
歳を重ねるにつれ、段々とお互いを異性として意識し始めたこと。
そして、高校二年生の夏――彼女は公園の前で交通事故に遭い、不幸にも命を落としたということ。
「事故が起こったのは花火大会の帰りだったんだ……。花火が終わると俺たちはあの公園に向かった。別にどちらかが言い出したわけでもなく、自然にだ。だが夜もだいぶ更けてきていた。俺はあの時無理矢理にでも彼女を
真っ直ぐ家に帰らせるべきだったんだ」
俯き、顔を手で覆い静かに告げる父。感情を表に出さない普段の父を知っている僕だからこそ、今の状況が如何に異質か理解できる。大きな手の中の表情はわからないが、さぞ辛いことだろう。
……いや、軽い気持ちで同情しては彼女に顔向けできないな。
「結局俺たちは公園のブランコで深夜まで話し込んでしまった」
僕の心配をよそに、父は続ける。
「時計を見た彼女は慌てて立ち上がって俺に言ったんだ『いけない、そろそろ時間が』ってね。はは、おかしいだろ。いつの時代の人間だって言うんだ」
無理に笑顔を作り、明るく振る舞う父。だが僕は、父の話と昼間の公園で見た光景の恐ろしいまでの一致に畏怖し気が気ではなかった。背筋が凍り、全身が粟立つのを感じる。
「彼女は俺に向かって大きく手を振ると『またね』とだけ言って公園を飛び出したんだ。そして――」
「もういいよ父さん。話してくれてありがとう」
その後、彼女に何が起こったかなど容易に想像できる。容易に想像できてしまうからこそ、恐ろしい。
「きっと彼女の時間は、あの日から止まったままなんだ。それより、恥ずかしいところを見せてすまなかった。俺はもう寝るよ」
そう言い残し部屋から出ていく父の背中は、いつになく小さく見えた。
一人居間に残された僕は今日起こった出来事と父の話とを整理していく。
「僕が今日出会ったのは彼女の幽霊だったのか」
幽霊などの非科学的な存在を信じる質では無かったが、今回ばかりは彼女という幽霊の存在を認めざるを得ない。偶然にしては出来過ぎている。
「とすると何かこの世に未練があると考えるのが妥当だよな」
『ええ、私はずっとこの場所で待っているのです。あなたにとてもよく似た少年を』
昼間の彼女の台詞が脳内で再生される。つまり彼女は、再び父が公園に現れるのを待っているのだ。しかしそれに父が気づかないはずがない。
「なんで父さんは彼女に会おうとしなかったんだ。会えばそれだけで全て解決するんじゃあないのか」
『やっぱりそうじゃない! 早く目を覚まして、そんな人はいないの!』
『知ったような口を利くんじゃない』
今度は昔、両親が言い争っている場面が思い出される。散らばっていた断片的な情報が徐々に組み合わさり、結論へと収束していく。
「父さんは彼女のことが忘れられないんだ。だから彼女に会おうとしない。会ってしまえば全てが終わってしまうから」
――だけど、そんなの悲しすぎるよ、父さん。
――このままじゃあ誰も救われないじゃあないか。
僕は、直ぐに父の後を追った。
***
「ここに居たんだね、父さん」
そこは、父の書斎だった。僕が扉を開けると、薄暗い室内で無数の本に囲まれながら、革製の椅子に腰かけ一枚の写真を見つめる父の姿があった。
「どうした? こんな冴えないおっさんに何の用だ」
こちらを見向きもせず、ただ茫然自失のまま何もない虚空を見つめる父。
「彼女のことか。俺は彼女には会いに行かないぞ。それに、お前には関係のない話だ」
それは完全に諦めている顔だった。父の無気力な対応が、僕の中で燻っていた何かを激しく刺激した。
「僕だってもう無関係じゃない! このままあんたは一生彼女に会わないつもりなのか!? それじゃあ彼女は救われない!!」
かつて、これほどまでに誰かへ怒りをぶつけたことがあっただろうか。ましてや、自分の父にだなんて。
握りしめた拳を本棚に叩きつける。古い木製の本棚が音をたてて軋み、何冊かの本が床へと放り出された。
「救われるさ、彼女」
「どこが救われてるんだよ!! あんたは何もわかってな――」
「わかっていないのはお前の方だ」
以前にも一度だけ聞いたことがある父の声。その声は、あの時母に向けられたものと全く同じだった。
「知っているか?彼女にはな、本当の家族も、俺以外にろくな友達もいないんだ」
突如告げられた衝撃の事実に驚きを隠せない僕。それは一時的に燃えていた怒りを鎮静化するには充分だった。
「そう……だったんだ」
こういう時、どういう反応をすればいいのだろう。どんな顔をして、どんな声をかければいいのだろう。かける言葉が見当たらない。
僕が悩んでいると、父は優しく語り掛けるように話し出した。
「お前の言いたいことはわかる。確かに、このままでは彼女はずっとあの公園に囚われたままだ。彼女が留まり続けているのは俺が原因で、その俺が公園に行けば彼女は無事に解放されるというのも知っている」
語る父の、虚ろなその目に微かに宿る光は諦念でも悲哀でもなく、優しさに満ちていた。だからこそ、なぜ彼女が未だに父を追い求め彷徨わなければならないのかが僕には理解できない。
「そこまでわかっていて……どうして!?」
「さっきも言っただろう、彼女、本当の家族もろくな友達もいないって。まあ、どうしてかは俺も聞いていないんだが。普通の人が経験しているような人間の温もりとか人と楽しく会話することとかそういうやつをさ、生きている間に全然経験できなかったと思う。だから俺は、たとえ彼女が既にいない存在だとしても、あの公園で他の人と楽しそうに話している彼女を見守っていてあげたいんだ」
父は手の中の写真をそっと机に置くと、厚いカーテンを指先で退けて外を見やった。道路にある電灯には夏の虫が集まり、その光は辺りの家々を照らしている。そしてそれはこの書斎も例外ではなく、カーテンを開けた瞬間に外から入り込む光に僕は目を細めた。白く霞む視界の中で、柔らかに光を受けた父の顔は笑っていた。
「お前に頼みがある」
窓の向こうを眺める父の視線は、この書斎からは周囲の建物に阻まれて直接見ることはできないが、確かにあの公園に向いていた。
「頼みって?」
「明日だけでいい、彼女と会ってたくさん話してほしい」
「それだけ?」
予想外の言葉に僕は拍子抜けした。彼女と話すことを軽視しているわけではないが、改まって頼まれるほどのことでもない。それとも明日話すということが重要なのだろうか。
明日。日付にして八月十五日。終戦記念日、ナポレオンの誕生日、僕は思考を巡らすが、特に彼女と関連して思い当たる節がなかった。
「それだけだ。ああ、お前には言っていなかったか。彼女が現れるのは八月の十三日から十五日までの三日間だけなんだ。だから明日で最後、その次に会えるのは来年の八月十三日だから明後日でもいいだろうとか考えるなよ」
短時間で自分の知らない真実が次々と明らかになっていく。僕は頭に入ってくる膨大なまでの情報量に目眩を感じながらも、なんとか脳を回転させて整理し、父の話についていった。
今まで僕は、彼女を天国へ逝かせてあげることが正しいとずっと思ってきた。しかしここまで父の話を聞いてきて、それも一理ある、と考えてしまう。
「わかったよ。明日、彼女と色々なことを話す」
それが悩んだ末に僕が選んだ答えだった。正直、彼女にとって何が最適解なのか、僕は何をすればいいのか、全く見当もつかない。
「それに、彼女を幸せに天国へ逝かせてあげるなんて出来ないと思う。僕はやれることをやるだけだよ。人事を尽くして天命を待つ、ってね」
少し、格好つけすぎただろうか。我に返った途端、急に羞恥心に苛まれた。つい数秒前のなんてない台詞だが思い返せば思い返すほど恥ずかしさがこみ上げてくる。思わず顔が火照り、それを隠すため僕は俯き、机の上にある写真に目を向ける。
「天命を待つ、か。面白いことを言うようになったな」
父は僕の方をじっと見つめて笑った。
僕は目の前にある写真に写る彼女を見ながら、照れつつも父につられて笑った。写真の彼女は、当たり前だが、今日会った人と全く同じで。それはまるで時が止まっているかのようだった。相変わらず顔の部分は掠れて見えなくなっているが、それでも黒髪は艶やかに流れ、肌は夏に似つかないほど白くあった。父さんには勿体ないくらいの美人だ。既に幽霊なのだが。
いや、彼女は幽霊というよりは。
「まるで天使みたいだ」
つい口から零れ落ちてしまった。どうやら僕の独り言は父の耳に届いてしまったようで、父は腕を組み、納得した様子で話し始めた。
「天使か、なるほどな。確かに彼女はきれいだもんな。だが俺が思うに彼女は悪魔さ。現に俺はこの年になってもまだ彼女のことを忘れられないでいる。夏になるたびに鮮明に頭に浮かんでくるんだ。これを悪魔の呪いと言わずして何と言う。本当、真夏の悪魔だよ」
「じゃ、じゃあ、僕はそろそろ風呂に入って寝るね」
久々に親子団らんを楽しむ機会に恵まれたが、返答に困った僕は額に伝う汗を感じながら、苦笑いで父の書斎を後にした。
そして入浴を軽く済ませ、布団に寝転がりながら今日の出来事を一通り思い返す。
「真夏の悪魔……か」
***
八月十五日。幸い天気は晴れだった。上を見上げれば爛々と輝く太陽があり、遠くには入道雲がそびえる。そんな夏を感じさせる風景は綺麗だが、同時に蒸せかえるような暑さもまた夏において避けては通れない。
「ああ、暑い。この調子だと彼女と会う前に熱中症で倒れかねない」
僕は公園でブランコに揺られながら彼女が来るのを待っていた。汗ばんだ服が肌に張り付き、とても気持ちが悪い。
「早く来てくれないかな」
僕の言葉は誰の元にも届かずに、澄み渡る青空へと消えていった。全身から滝のように噴き出す汗を拭いながら、朦朧とする意識の中。突然、周囲の温度が低下するのを肌で感じた。以前に彼女と会った時と同じ感覚だ。
「おや、あなたは昨日の」
声は公園の入り口からだった。主は当然、例の彼女。服装を含め、容姿は昨日と全く同じだった。僕が彼女の声に気づき顔を向けると、笑顔で手を振ってくれた。
「あ、こんにちは。今日も暇なので一緒に話しませんか?」
こちらへ向かってくる彼女に提案すると、彼女は目を輝かせた。
「ぜひ!」
彼女は僕の元へ駆け寄ると、すぐにブランコに腰かけてこちらを向いた。僕が話し始めるのを待っているのだろう。
「その前に一枚だけ、記念写真を撮りませんか?」
話を待っている彼女には申し訳ないが、僕はどうしても彼女との思い出を形として残しておきたかった。
「もちろんいいですよ。でも写真を撮ってくれる人がいませんね。待っていてください、今誰かを――」
「大丈夫ですよ。ほら、これを見てください」
公園の外へ人を呼びに行こうとした彼女を引き留め、僕はケータイの内カメラを起動した。
「まあ、これで写真が撮れるんですか。現代の技術は凄いですね」
ケータイを見て純粋に驚く彼女。相手が僕だったからよかったが、事情を知らない人間が聞いたら不思議に思うに違いない。しかし事情を知らない人間は彼女と写真など撮らないだろう、と自己完結。
「じゃあ、撮りますよ。はい、チーズ」
パシャ、という音と共に一瞬白む画面。僕は写真の欄を確認した。そこには満面の笑みで映る彼女と僕がいた。
「どうですか? ちゃんと撮れてますか?」
「うん、バッチリだ」
弾む声で聞いてくる彼女に画面を見せると彼女は「うわあ、よく撮れてます!」と感嘆の息を漏らした。
「さて、何から話そうかな。そうだ――」
何も無かった僕の高校二年生の夏休みは、彼女のおかげで、人生で最高の夏休みになった。
そして月日は巡り、今年もまた夏がやってくる。この季節が来るたびに僕は同じことを考えてしまう。きっと来年も、再来年も、そのまた先も、まるで心が囚われているようにいつまでも繰り返すだろう。
――僕は、夏が嫌いだ。
あの時の彼女を、あの真夏の悪魔を、思い出してしまうから。
そう愚痴を零す僕の机の引き出しには、二人で撮った写真が今も大切に仕舞われている――。
評価、感想などいただけたら嬉しいです。
今後の励みになります。