08
今年も待降節の季節がやってきた。
司教たちはこぞって紫色の衣服を見にまとい、紫色のろうそくを毎日ひとつひとつ溶かしていく。ジルヴェスト家の当主であるアーダルベルトの所領の管轄地域であり、議長も務めている市参事会に程近い教区教会でも、人形の典礼劇とミサが盛んに行われている。
例年であれば待降節の時期は管轄下の教会近くで過ごすことが常であったが、ジルヴェスト家の人々とルドルフは、次の重要な待降節の祝祭日に行われるミサ敢行の折、ぜひ来て欲しいと少し離れた別の都市の教区教会に招かれていた。アーダルベルトの宮中での仕事仲間が統括する都市の教会で、アーダルベルトはその縁で誘われたのである。ちょうどジルヴェスト家に滞在していたルドルフも、アルテイアの婚約者であるため、家族の一員として参加することになっていた。
思わぬ小旅行に喜んだ一同だったが、アーダルベルトやハインリッヒたちジルヴェスト家に関わる貴族男性にとっては油断ならない出来事でもあった。というのも、彼らの政敵である、ブルーノ・ヴァルター伯爵も同じ場に招かれていたからだ。
ブルーノは宮中でアーダルベルトと似た部署で働いている。アーダルベルトは宮中の地図管理部門、ブルーノは財産目録の整理を担当していたのだが、事あるごとにアーダルベルトをライバル視してはいちいち難癖をつけてきていた。この前アルテイアとルドルフが利用したギルバートのお得意の顧客でもあり、さらに不幸なことに、ヴィルヘルムが亡くなる直前、ルドルフが婚約していたのがヴァルター家の娘アグネスだった。
アグネス嬢は勝ち気な性格で、負けん気が強く、小柄で可愛いといった方が良いアルテイアとは真逆の大柄で妖艶な美しい女性で、独特な雰囲気を持っていた。
ブルネットの豊かな髪を豪奢な髪飾りでまとめ、グラマラスな体型を惜しげなくさらけ出すその様は、古風な考えを持つ一部の貴人からの評判はあまりよくなかった。しかし快活でおおらかな彼女を慕うものも多く、ルドルフとの婚約もそのような評判を聞き付けて彼女に興味を持ったことからはじまった。
残念ながらルドルフとヴァルター家当主であるブルーノの派閥が異なり、両者ともに親から反対された婚約だったこと、そして高慢な性格のアグネス自身、ルドルフが他の女性とも時に親密に踊ったり話したりするのを許すことができなかったために、二人の婚約はものの数ヶ月でたち消えた。
アルテイアは社交界でアグネスを遠巻きに見るか、何度か挨拶をしたことしかなかったが、決して自分と相容れるような性格でないことは、親密な関係とならずとも予測がついた。
彼女とミサではちあわせることになることを、内心不安に思っていたアルテイアだったが、当のルドルフはどこ吹く風といった様子であったので、本人がこうであるならばどうとでもなるのではないかと、半ば諦めた気持でミサに臨んだ。
ミサ当日、待降節の礼拝ために派手に飾られた三廊式のロマネスク建築には、浮浪者を含む一般庶民から貴人、そして高位聖職者にいたるまで都市のほとんど全ての人が集まり、教会内部は人々の熱気で一杯となった。
シャンデリアのようにろうそくが取り付けられたマリア像は、爛々と火の光を反射しているし、普段は閉じられている祭壇も、その豪奢な祝日面がさらけ出され、優美で壮麗な受難の場面を人々の前に現前させている。
教会の二階の貴人席には、ジルヴェスト家の人々のほか、招待された多数の貴族達が集まっていた。ざわざわとした人々の話声による喧騒の中、わざわざアーダルベルトの横にブルーノが近寄ってきた。彼はいくらか世辞を述べたあと、わざとらしくヴィルヘルムの話題をアーダルベルトに振る。
「ヴィルヘルム殿も気の毒なことだ。ジルヴェスト家なんぞと縁続きになろうなどと考えてしまったがために、あのような惨事に巻き込まれたのだろう?」
ブルーノの言葉は半ば断定的な響きを持ってたが、ヴィルヘルムの死は表向きには野盗に襲われたことになっていたはずである。周囲にあえて聞こえるように声を張り上げ、意地の悪い笑顔でアーダルベルトをみつめてくるブルーノの意図は、明白であった。不快感を隠せなかったアーダルベルトは、苦虫を噛み潰したような表情でブルーノを睨んだが、声色は極めて冷静に答えた。
「一体どうやってそのようなでたらめな情報を仕入れて来なすったのか、皆目検討もつきませんな。たしかにヴィルヘルム殿のことは、アルテイアのこともあり、わたしも非常に心を痛めましたがね」
ちょうどアーダルベルトの背中の位置にに立っていたアルテイアは、この会話をはらはらとした心地で聞いていた。当事者であるアルテイアの存在を知ってか知らずか、このようなことを直接聞こえるように口に出すなど、ブルーノはなんと無礼な人物なのだろう。
アルテイアが不安になって隣を盗み見ると、ルドルフはアーダルベルト以上の不機嫌さで、まるでブルーノが親の敵であるように恨めしい顔で睨み付けている。
聞くところによれば、ルドルフとヴァルター家の関係は良好ではなかったというし、婚約者との縁を破談にされたことを憎く思っていてもおかしくないかもしれない、とアルテイアは想像した。
さらに間の悪いことに、そこにルドルフの元婚約者であり、ブルーノの娘であるアグネスがやってきた。アルテイアへの険悪な雰囲気を隠そうともせず、アグネスはルドルフに一言二言世間話をすると、アルテイアにも小さく声をかけてきた。
「可哀想に。あなた、わたしのお下がりの、しかもあんな男で満足しなきゃいけないのね。せいぜい幸せになってちょうだい」
喧騒に紛れ、ルドルフにも聞こえないよう、耳元で囁かれた言葉が信じられず、アルテイアは思わず硬直した。
すぐにアルテイアから離れたアグネスの表情を見ることは出来なかったが、一体、彼女がアルテイアに比べてどれほどルドルフについて知っているというのだうか。
アルテイアの方がアグネスよりもルドルフと婚約している期間は長く、たとえ昔の、社交界でのルドルフの姿をアルテイアが良く知らないとしても、アグネスが訳知り顔をして良いということにはならない。
しかも、もう婚約者でないにも関わらず、ルドルフの隣を陣取って時折なにか話しかけているではないか。なぜミサまで一緒になって隣にいなければならないのだ。嫉妬心をむくむくと育てたアルテイアは、憤慨してミサの直前まで腹をたてていた。
アルテイアの意識はなかなか浮上しなかったが、そうこうしているうちにミサが始まった。
壮麗な典礼音楽が奏でられ、聖職者達が朗々と聖書を朗読する。頭上のはるか高く、天井の交差ヴォールトに反射した歌声は、緊張感のあるその場の空気によってより神聖さを増している。
アルテイアは気を取り直して、神に祈ることにした。勿論、近くにいるヴァルター家の無礼な行いを報告することも忘れない。
儀式は厳かに、一見すると恙無く進んでいるように思われたが、聖餐式にさしかかると、なにやら階下が騒がしくなった。どうやら庶民の、それも浮浪者ではなく職人の間で騒ぎが起こったようだ。
ミサの最中で、ということは珍しいが、教会内部で信者同士が取っ組み合いの喧嘩に発展することはそう少ないことではない。
いつも通り、すぐに収まり、どうにもならないのであれば教会に所属する修道院騎士団などが対応するだろう。そう楽観的に考えていたアルテイアだったが、その予測は大幅に、それも悪い方向に外れてしまった。
事態を収束させようと護衛に控えていた貴族の騎士たちの一部が降りていくと、火に油を注ぐ結果にしかならず、荘厳なミサから一転、聖俗入り乱れての大乱闘となってしまったのである。
結局、パニックとなった人々の阿鼻叫喚で教会はひっくり返った。
聖職者達は誰よりも早く逃げ出してしまったし、入り口近くに並んでいた庶民達は出口へ殺到し、押しも押されぬ大混雑でなかなか出ることができない。押し合い圧し合いで出口に急ぐことで、さらなる喧嘩を生んで乱闘騒ぎを助長し、もはやすべての人にとってミサどころの話ではなくなってしまった。
あまりの恐怖に震えて階下を呆然と眺めるしかなかったアルテイアは、偶然倒れた平民の顔が血にまみれ、さらに腕があらぬ方向へ折れ曲がっているのを見てしまった。
「ひっ……」
小さく悲鳴をあげたアルテイアは、頭では早くここから立ち去らねばいけないことを理解していたにも関わらず、膝がガクガクとして言うことを聞かない。
貴人席は上階にあり、護衛の騎士たちを含む武道派の貴族も場に居合わせてはいる。しかし、このような騒動になってしまっては、身の安全が保障される状況であるとは言い難く、安心はできない。すでにほとんどの貴族達が唯一の出入り口である階段に駆け込もうとして、他の貴族と鉢合わせ、怒号が飛び交っていた。
「脱出だ! わたしを先に通せ! わたしはヴァルター家の当主であるぞ! ええい、言うことをきかんか!」
例の無礼なブルーノも、必死になって入り口へと進もうと道を掻き分けている。
ああ、このような神聖な日に、なんという神への冒涜だろうか。天上の世界を体現する教会でこのような地獄絵図を見るはめになるとは。これだから入ることができる者が限られる修道院でなければ安心出来ないのだ。と現実逃避気味にアルテイアは考えた。
腰の引けたままの状態で、せめて自分も少しでも先に進もうと足を進めようとすれば、急に真横から腰をぐっと引き寄せられる。この力強い腕は、ミサの間でも相変わらず隣に立っていたルドルフのものだろう。
見上げると真剣なルドルフの表情が見える。じっとどこかをにらみつけたまま、冷静にアルテイアへ語りかけてくる。
「アルテイア、そちらはむしろ危険だ。壁側へ避けよう」
そう言われ、返事もする隙のないまま半ば強引に抱えこまれて壁際へ寄ったアルテイアは、比較的安全であったそこで、信じられないものをみた。
なんと帯剣した騎士の一部が、こちらに向かってきたのである。乱闘を起こしたのは平民のみ、貴族はただの被害者であるはずだ。ではなぜこちらに向かって来るというのだろう。混乱しきったアルテイアは知らず涙を流してしまったが、幸いにもヒステリックに大声を上げることはなかった。
自分たちへと向かってくる騎士達の様子を見て、より深刻となったのはこのような混沌とした状況に対応しなれぬ貴婦人方である。混乱した彼女たちは大声で泣き叫び、耐えきれなくなった者から次々に卒倒し、そばにいた家族に支えられるか、酷いことにそのまま脇に放置されている者もいた。
「ルドルフ様が近くにいて安心しましたわ」
誰も何も言っていないにも関わらず、アルテイアとルドルフにくっついてきたのは、アグネスその人であった。彼女の父親と母親は、すでに階段から出ていってしまったようだが、はぐれても大丈夫なのだろうか。気が動転していたアルテイアには、彼女の意図を上手く理解することが出来ない。
少し遠くを見ると、アーダルベルトとヴィンツェンツが襲ってくる騎士を相手取って活躍しているのが見える。ヴィンツェンツは複数いる騎士のうち、最も若くみえる騎士を相手に剣を振り下ろし、鮮やかに昏睡させた。
「ヴィンツェンツ様がいるならば、こちらは安心ですわね」
「そうも言っていられないよ。わたしから離れないように。わかったね、アルテイア」
ルドルフから忠告されたアルテイアだったが、彼の言葉がなくとも彼女の最も近くにいる人間のうち、この場ですがることの出来る人間は彼しかいないことは、すでに理解していた。アルテイアはすでに握っていたルドルフのマントの端を、ぎゅっと強く握り直した。
皆細心の注意を払っていたにもかかわらず、不幸なことに最悪の事態は起こってしまった。
ヴィンツェンツがうち洩らした騎士の一人が、なぜかまっすぐにこちらへ襲いかかってきたのである。避難しようと移動する人々の間を縫い、あるいは騎士によってそれらの人々は薙ぎ倒され、どんどん近付いてくる。
「アルテイア、壁沿いにこの先にいる兄上殿のところまで走りなさい! 早く!」
すがっていたルドルフに突然背中を押されたアルテイアは、まさかという驚きと恐怖に足がもつれて転んでしまった。見上げたルドルフは先ほどの騎士と対面し、アルテイアを背中に庇うようにして立っている。アルテイアには、二人の間から、腰が抜けて動けなくなっているアグネスが見えた。
「アグネス様、なにをしてらっしゃるの、早くこちらへ!」
アルテイアがなりふり構わずアグネスの元へ駆け寄ると、ルドルフが怒声をあげる。
「なにをしているアルテイア! 早く逃げろと言っただろう!」
あまりにも必死なその声色に、ぎょっとしたアルテイアは、声の方向を振り返った。
「まさか……そんな……」
隣のアグネスがそう力なく呟くのが遠く聞こえる。目の前には、先ほどまでルドルフと相対していた騎士が迫っていた。なんということだろう、彼らはアルテイアを狙っていたとでも言うのだろうか。一体、どうして。そのような思いがアルテイアの頭を過る。
騎士は容赦なく両の手に持った剣を頭上高く振り上げた。
ああ、もうおしまいなのだろうか、そう思った瞬間、ルドルフが騎士に体当たりをして騎士もろとも倒れ込んだ。
そのまま騎士と揉み合ったルドルフは、騎士が隠し持っていたナイフで腕を深く切りつけられてしまった。ミサのために宮廷の貴族服を身に付けていたルドルフは、もともと防具もなにも身に付けていない。
真っ赤な鮮血がその腕から滴り落ちるのを見て、アルテイアは立ち尽くす。鉄の嫌な臭いがあたりを覆いつくし、どこか遠くでガンガンと耳鳴りがする。
二人の闘争は、そのままルドルフの敗北で終わるかのように思われたが、すぐに合流したヴィンツェンツの助力によって、すぐに決着がついた。
ヴィンツェンツによって叩きのめされた騎士は、駆け付けた教会所属の騎士によって縛り上げられると、猿ぐつわを嵌められどこかへ連行されていった。牢屋で拷問が行われ、彼らは黒幕を吐くか、死ぬまで解放されることはないだろう。
しかし、目の前で倒れたルドルフを目の当たりにしたアルテイアは、それどころではなかった。
「あ、ああ……ルドルフ様、どうして……わたしはなんてことを……」
恐怖と悲しみで止まらなくなった涙と嗚咽を押し殺すことが出来ず、アルテイアはその場にへたりこんでしまった。
襲撃者の凶刃に倒れたルドルフは、急いでジルヴェスト家がもともと宿泊する予定であった別荘へ運ばれた。
同じく軽い怪我をしたヴィンツェンツや、アーダルベルトも、そこで医師の治療を受けた。二人の傷は大したことはなく、軽く治療を施すことでやり過ごすことができた。
しかし不幸にもルドルフの傷は思ったよりも深く、彼は痛みから夜じゅう魘され、ベッドの上で暴れるために男たちが三人がかりで押さえ付けなければならないほどだった。
その様はまさに地獄さながらで、教会での乱闘騒ぎと同様、普通の貴人であれば、貧血で倒れてしまうほどショッキングな光景であった。
しかし、アルテイアはルドルフが倒れたことに自らの責任を感じていた。せめて彼が起きるまでは、と看病のために側から離れようとせず、甲斐甲斐しく額に濡れた絹地の布を乗せては取り替えて、辛抱強く様子をうかがっていた。だが、献身的な看病の甲斐なく、ルドルフはなかなか目を覚まさない。
「お父様……どうしましょう、ルドルフ様が、高熱で目を覚まして下さらないの。もしかしたら傷口に毒が塗られていたのかもしれないわ」
アーダルベルトはその言葉を聞いてハッとすると、急いで近場の医師へ頼みこみ、ルドルフの身体を再度診察させた。医師は有能だったが、しかしその場ではどんな治療もうまくいかなかった。
「申し訳ありません。わたくしどもの出来る範囲内で、最善の手は尽くしました。ですが、この未知の毒に対処出来るよう考えるには……異端の魔女であればあるいは……」
煮え切らない医師の言葉は、ジルヴェスト家の人々を落胆させるのには十分だった。
異端の魔女とは、平民達からは根強く支持され続けている迷信深い異教徒のことで、さらにいうならば民事療法を未だ続けている女性達、特に老婆のことを指す。彼女たちは単に異教徒であることも多かったが、教会では正式に認められていない異端を信仰している者もおり、敬虔なキリスト者の多い貴族達にとっては、忌避される存在でもあった。
医師の言葉は回りくどく、要領を得なかったが、簡単に要約するならば、医師は自らが知り得ぬ毒が使われているために、彼に出来ることはもうないが、もしかすれば異端の魔女の知恵の内に、なにか対処出来るすべがあるかもしれない、ということだった。
「たとえ異端の魔女殿に頼るのであっても、それでルドルフ様が治るあてがあるのでしたら……!」
今にも飛び出そうとするアルテイアを、異端の魔女と直接関わり合いを持つことを心配した母のコルドゥラや義理姉のクリスティアーネが留めようと必死になった。
「駄目よ。異教徒の言うことなんて、信用できるもんですか。だいたい、彼らは神聖なる神のお言葉すら拒否しているのよ。親切に助けてくれるはずがないわ」
「しかし、奥様、彼は……ルドルフ殿はもってあと2日といったところなのです。わたくしどもも出来る限りの対処はいたしますが……」
医師のその言葉を聞いて、気の弱いクリスティアーネは気を失って倒れてしまった。そのまま兄のハインリッヒに抱えられ、寝室へと消えていった。
アルテイアもちかちかと目眩がしたが、倒れたり文句を言ってはいられなかった。ルドルフが亡くなるかもしれない、と気落ちするだけでなにもしようとしないアーダルベルトやコルドゥラを頼ることは、もはやできなかった。
せっかく逃がそうとしたにも関わらず、余計なことをしたアルテイアを庇ったせいで倒れたルドルフとの婚約は、彼の回復を待ってすぐに解消されてしまうかもしれない。そうでなくとも、その場で恐怖に立ち尽くすしかなかったアルテイアは、ルドルフに幻滅されただろうことは間違いない。
しかし、彼女はルドルフから嫌われようがなんであろうが、今度こそ自分の婚約者をむざむざ手放すようなことはしたくはなかった。
ルドルフの傷は、なんとしてでも自分が治さなければならない。アルテイアはそう決意を固めた。