07
ルドルフの訪問を歓迎する宴は、それから数日後の祝祭日に執り行われた。
正式なものではなく、身内やジルヴェスト家に関わりのある人々だけが集められた内輪の会ではあったが、アルテイアの父でありジルヴェスト家の当主たるアーダルベルトは、オーエンドルフ公爵家の人間を迎えるに相応しい人数を集めるため、近隣の爵位ある人を全てかき集める勢いで豪奢な宴を用意した。ジルヴェスト家の親類縁者は全てが揃い、異教徒との境界の前線で戦っている騎士までもが呼び戻された。
侍女のマリアも、このときばかりは煌びやかな衣装を装い、夫と連れ立って侯爵家の夫人として宴に参加した。
とはいえ、仕事を愛している彼女はすぐにアルテイアの後ろに付き従うように控える立ち位置から離れようとはしない。そのため、彼女の夫はマリア本人よりも主人たるアルテイアの方にばかり目を向けることを耐えねばならなかった。
宴の中心となる大広間はタピストリーであちこちが彩られ、人々のきらびやかな衣裳に負けないほどの彩りを放っている。昼間から楽士や吟遊詩人の芸が披露され、人々は大いにワインを飲み、パンとスープを食べ、陽気に歌い、だれかれとなく踊った。
アルテイアも並々とワインの注がれたゴブレットの減りを気にすることなく湯水のようにワインを飲んで楽しんだし、アルテイアの家族もそれぞれ思い思いに宴を楽しんでいた。
アーダルベルトは主催者として、そしてジルヴェスト家の主人として、周りを見渡しては挨拶し、母コルドゥラもそれに続く。兄のハインリッヒと兄嫁クリスティアーネは酒気を帯びたためか、周囲の目を気にすることもせず少し離れたところで仲睦まじく愛を囁きあっているし、弟のディートリッヒはローザンヌの気を引こうと必死で口説いているのが見え、アルテイアはいつも通りの光景に吹き出した。
ところで主役たるアルテイアとルドルフはというと、主役らしく互いに揃いの衣装を身に着け、周囲の人々が見ればすぐにわかるほど婚約者然とした装いで宴に参加していた。
アルテイアは、ルドルフの翡翠の瞳に合わせたブローチとベルトを身に付け、ベロア生地のゆったりとした濃緑色のドレスで着飾り、長い髪は編み上げてリボンとレースで軽やかにまとめている。これは、侍女のマリア渾身の作である。ルドルフはアルテイアの落ち着いた色に合わせ、艶やかな臙脂色の貴族服を纏い、宝飾品はアルテイアの瞳の色と同じアメジストを選んでいた。
実はこの装いは、数日前にわざわざ宝飾品商人ギルドの人間を屋敷へ呼びつけて揃いで誂えたものである。
その日、アルテイアはただ商人がくるとのみ伝えられていた。実際に商人が屋敷を訪れたとき、まさか新興貴族であったはずの第二の婚約者たるギルバートが出てくるとは思わず、驚きのあまり目を見開いた。
アルテイアは直接彼から婚約の破棄の申し出をされたわけではなく、全ての手配は両親を通して行われていた。そもそも、本当に彼が婚約者だったのかどうかすら、朧気な記憶からは確信がもてないほどだったが、やはりあまり親密にはしたくないという気持ちの方が強かった。
ギルバートは宝飾品商人ギルドの総支配人で、国王から爵位を特別に与えられた両親を持っていたが、彼らの貴族としての生活はアルテイアとの婚約破棄によって断たれてしまった。ともあれ、ギルバートは現在はそこそこ名の知れた宝飾品を扱う商人として名声を得ているらしい。
「彼にはよくしてもらっているのです。宝石を見る目はたしかで、契約しているギルドの職人腕も良いので、贔屓にさせてもらっているのですよ」
「ルドルフ殿のご贔屓の商人がいると聞いて、まさかギルバート殿と出会うとはこれは驚いた。どうぞよろしく頼みますぞ」
アーダルベルトがそう声をかけると、ギルバートは少し青い顔をし、両親を怖がるように内股になった。それを見て、アルテイアは訝しんだが、事情がいまいちわからず、どうすることもできなかった。しかしこのようなはじめの懸念を余所に、アルテイアとルドルフのための買い物は恙無く進んだ。
ギルバート本人の性格や狡猾さはともあれ、商人としての才気は十二分にあったらしい。アルテイアも誂えた宝飾品の素晴らしい出来には大変満足していた。ルドルフとギルバートは、時折なにか小声でやりとりしていたが、おそらく勘定かなにかだろう、とアルテイアは判断してあまり気に留めることはなかった。
どんちゃん騒ぎの宴も、夕方に近付くにつれ客人たちは自分のための娯楽に満足し、口々にジルヴェスト家とオーエンドルフ家の婚約を祝う言葉を大声で叫んで、若い二人を囃し立てた。
アルテイアはルドルフに導かれ躍りの中心へ躍り出た。そのまま数曲を周りに勧められるまま踊っていたが、早々にくたびれてソファーに逃げてしまった。
さらに夜になるとボードゲームが始まった。暖炉の火の光と少ないろうそくの火をたよりにしていたにも関わらず、数多くの人が寝室へとは戻らずにそこに留まっていた。一同に混ざってボードゲームに興じていたアルテイアだったが、昼間の疲れが残っていたのか、すぐに窓辺に退いた。
昼間同様に、後ろにマリアが付き従うのを見たアルテイアは、呆れたように話しかけた。
「まあマリア、あなたまたそんなところにいるのね。たまには普通に参加したらどうなの?」
「いえ、これがわたしの仕事ですので」
マリアは毅然とした態度を崩さず、むしろぴしりと居直して背筋を伸ばした。
「そう? ……ところで昼間はいらしたあなたのご主人が見あたらないのだけれど」
「明日の出発が早いのでとうに帰りました 」
「まあ! どうせまた喧嘩したのでしょう? エックハルト様もお可哀想に」
「あら、いつものことですわ」
端的に答えるマリアに、同情の念を禁じ得ないアルテイアだった。
アルテイアとマリアがそのようなやりとりをしている間に、ヴィンツェンツとルドルフがやってきた。
「お疲れのようですね、アルテイア」
それまでアルテイア嬢、などと気取って呼んでいたルドルフは、ヴィンツェンツの一件以来、アルテイアのことを呼び捨てするようになった。はじめこそ違和感が拭えなかったアルテイアだったが、そもそも気障たらしい態度に嫌気がさしていたので、すぐに慣れた。
すでにアルテイアはルドルフが近付きすぎることさえなければ、多少距離が近い分には不安感や不快感はなく、緊張もすることもないほどになっていたのだ。
「ええ、もう夜の帳が下りて大分立ちますもの。さしものわたくしも疲れ果てましたわ」
冬の夜は長い。濃紺の暗闇を照らすためのろうそくは窓辺にはあまり置かれていないためか、暖炉の火から離れるだけで暗く、窓際では目をよく凝らさねばほとんどぼやけてなにも見えないといっても良いほどだった。
アルテイアも自身、手に持ったろうそくがなくなってしまえば、おそらく歩くのすら困難になってしまうだろう。
「このような場所にいると、今夜の宴を忘れて二人きりであるような気分になりますね」
笑い混じりに声をかけられたアルテイアは、ルドルフにからかわれていることがわかったので、その声のする方向へ振り返ると軽妙に答えた。
「あら、ルドルフ様はこのような状況にも慣れてらっしゃるでしょう。だって、社交界の女性は全て、あなたの手にかかれば選り取りみどりだったのですもの」
「そんなことはないよ、アルテイア。社交界でもわたしを忌避する声があることはご存じでしょう。そもそも、今のわたしの婚約者はあなたしかいません。あなたの直接お会いしてからというもの、そのお人柄に惹かれ、あなたとなら良い家庭が築ける、そう確信したと何度申上げたことでしょう。そう疑り深いと悲しくなりますね」
からかい返したアルテイアの言葉に、思いの外ルドルフは丁寧に、至極真面目に答えたので、アルテイアは鳩が豆鉄砲を食らったような心地がした。
「でも」
さらにいい募ろうとしたアルテイアを遮るようにルドルフは近寄ると、ろうそくをわざわざ顔近くに持ち上げてにこやかに頷いた。
マリアとヴィンツェンツはルドルフの意図を察すると静かに後ろに控え、少し離れたところで談笑を始めたようだ。
「失礼ながら、あなたの幼なじみ殿のような顛末、つまりアルテイア、あなたがわたしの愛を疑っておられるならば、不本意ではあるが不名誉なことも含め、あなたには全てをつまびらかにする必要があるかもしれませんね。どういたしまして。ご安心ください。わたしの婚約は全てこちら側から真摯に懇願して成立したものですが、誤解が誤解を生んだ結果、もうどうにもならないほど向こうに拒絶されてしまったために解消されたのです」
ルドルフは滔々と語り始めた。アルテイアはその言葉に驚いて、つい口を挟んでしまった。
「まあ、噂には聞いておりましたけど本当にそうだったのですね」
色男として名を馳せるルドルフだったが、その一途さでも知られていたのだという。婚約者が出来ると足しげく彼女のもとへ赴き、愛を囁いていたのだ。ただ、その間にも他の女性との付き合いそのものがなくなるわけではなかったため、女性の方が浮気ではないか、と疑心暗鬼になって毎回破談となってしまったのだと、アルテイアは社交界の事情に明るいカタリナから聞いていたのだ。
「ええ、もちろんです。それとも、第二の婚約者殿のように、財産のことをご心配なのでしょうか? これも問題ないと断言できます。わたし自身が公爵家の名を継ぐことはありませんが、それを差し引いてもジルヴェスト家の宝物など気にかける必要もないほどありあまっております。もともと、婚姻後は父の持っている伯爵位を戴く予定ですので、その点でも問題ありませんよ」
「あら、財産に関しては、わたくしだってなんの心配もしておりませんわ」
「そうですか、それはよかった。ところでヴィルヘルムへのお気持ちはいかがですか。あまり触れぬようにしていましたが、せっかくの機会です。なにか変化はございましたか」
そう尋ねられ、アルテイアはハッとさせられた。アルテイアはすっかり失念していたが、ルドルフとの結婚がすぐ執り行われなかったのには、アルテイアがヴィルヘルムへの思いを昇華させるための期間が欲しい、とそう懇願したからだということを思い出したのだ。
「……あらわたくしったら、うっかりそんなことを言ったことすら、忘れておりましたわ。もちろんヴィルヘルムさまのための祈りは欠かさずしておりますけれど、もはやそれはもう、家族への親愛のようなものとなってしまいました」
それを聞いて、ルドルフはわかりやすく喜んだ。
アルテイアはその様子をみて、自らがヴィルヘルムへもルドルフへも不誠実であったことを自覚し、その罪悪感と気恥ずかしさとから話題を変えようと過去のヴィルヘルムとルドルフの関係を質問した。
「ヴィルヘルムとは宮中で似た仕事を任された仲間だったのです。少しばかり危険がありますが、露払いはそろそろ終わります。今の進退窮まる状況も、もう少しの辛抱で脱することができましょう」
「え?」
驚くアルテイアは、思わず辺りを見回した。重要な政治的情報であるように思われたからだ。
「ヴィルヘルムは野盗に襲われたのですが、実はその山賊は訓練された騎士の偽装だったのです。ただ少々、調査に手間取りまして」
「いいえ、いいえ、ルドルフ様。それ以上おっしゃらなくて結構です」
さらに突っ込んで話そうとするルドルフを、アルテイアは急いで止めたが、ルドルフは意に介さず続ける。
「いいえ、残念ながらあなたのご懸念が晴れるまでは申し上げることにします。そもそも、わたしが放蕩と呼ばれるようになったのはこの仕事に由来することなのです。わたしは国王さまの影として情報収集のためにご婦人と……」
「ルドルフ様! それ以上は本当におやめください! ……それは、秘匿されるべき秘密ではないのですか?」
大声をあげてしまったアルテイアは、粗相に気付いて気まずげに小声で囁いた。
「なに。わたしが結婚し、父上の爵位を引き継いで領地に引きこもることにいたしましたので、国王陛下には随分とごねられましたが、このたびなんとか手元から離れることを許されました。それに、アルテイアの口は堅いと信じています。であるならば、なんら問題はないでしょう」
「……ですが、わたくしは口が堅いとは言い切れないわ。親密な方であれば、うっかり誰かに話してしまうかもしれないもの。例えばマリアとか……」
「ああ、マリアの夫君であるエッケハルト殿はこちら側の人間ですから、構いませんよ。アルテイア、あなたはとても素直な方ですね。本当にお可愛らしい。それで、納得して頂けましたか?」
特に反論の出来ないアルテイアは、しぶしぶながらも頷くしかできなかった。裏表のないアルテイアの態度を嫌がるどころか感心しきった様子のルドルフは、満足気に微笑んでアルテイアの胸をざわざわと揺らしたのだった。
その日の深夜、ルドルフの許可を得たと判断したアルテイアは、自室に戻るとマリアに事の次第を全て話した。
「最近、いつにもましてルドルフ様が近くって困るわ。ついドキドキしてしまうじゃないの」
「あらあら、まあまあ」
マリアはアルテイアの反応に満足気に頷くと、ニヤニヤとした表情を隠さず続きをただした。
「ルドルフ様はわたしのことをすぐからかわれるけど、ヴィンツェンツに対しての対応などから考えても、きちんとしたお優しい方だし、国王陛下の覚えもめでたくて、財産も爵位も十分に上等で……心配していた女性関係の問題も解決してしまったわ」
そこで一旦区切ったアルテイアは、一度深呼吸をして落ち着くと、恥ずかしさからか小さな声で付け足した。
「その、まるで小さな子供みたいに甘えていらっしゃるかと思えば、お父様のように厳格なお姿で頼りになる面もあるし……素敵な方だと思うの。ただ、なんだか探すと良いところしかすぐには見当たらないのが気にくわないわ」
余計なひと言をぼやくアルテイアに、マリアは片眉をあげた。
「まあ、そこまでおっしゃるならもはや修道院にはこだわらず、ルドルフ様とご成婚なさればよろしいのですわ。それともまだなにかご懸念がおありなのですか?」
そうマリアに問われ、アルテイアは思案するようにロッキングチェアの足先を見つめ、ゆらゆらと揺らした。
「ええ、ええ、そうね。たしかにそうかもしれないわ……」
どうにも煮え切らないアルテイアは、内心ではまだ、ルドルフのことを疑っていたのである。
あくる日、ルドルフから遠駆けに誘われたアルテイアは、鷹がみたいのでむしろ狩りなどはどうか、と言ってルドルフを困惑させた。少し悩む素振りをしたあと、快諾したルドルフだったが、生憎とその日は雪だったので断念せざるを得なくなった。
兄のハインリッヒがどんよりと落ち込んだアルテイアの様子を見て、呆れた様子で言った。
「お前はなんでまたそう、鷹にばかりこだわるのだ。女らしく花でも愛でていれば良いものを」
これを聞いたアルテイアは、ふてくされてサロンで香草のお茶を飲み干すと、マリアにおかわりを要求した。
「お兄様ったら、なんであのように素晴らしいお姿の鷹を見て、魅力に思われないのかしら。それとも女性がそのようなものに興味を持ってはいけないとでもおっしゃるの?」
拗ねたアルテイアにルドルフが微笑みかける。
「そうお転婆でお茶目なところも、わたしにはあなたの可愛らしさが引き立つ道具にしかなりませんよ」
「あら、20を過ぎた年増の貴族女性に可愛いだなんて、あなたさまの目は節穴ですか、ルドルフ様」
つれないアルテイアの発言に目を丸くしたルドルフは、突然肩を奮わせて陽気に笑いだした。
「このわたしを相手にして、そこまで辛辣なところもなんと面白いことだろう!愛らしいわたしの婚約者様、午後の散歩と洒落こんで、そのささくれだったお心を鎮め、あなたに恋い焦がれて喘ぐ若者を助けてはくれませんか」
気障たらしく答えたルドルフを見て、今度はアルテイアが動揺した。勢いよく後ろを振り替えると、後ろに控えていた従僕の二人に向かって叫ぶ。
「いやあ!マリア、マリア、いいえヴィンツェンツ!見ていないで助けて頂戴!この方、どうやら野蛮人か異教の民なのだわ。わたくしたち神聖なる神の民の言葉が通じないわ!」
「やれやれ、どこまでもつれないお方だ」
にやにやとした笑いをやめず、ルドルフはアルテイアの手を強引に取って腕に絡ませた。
その後もルドルフはアルテイアにことあるごとに話しかけては大笑いしてアルテイアをからかう。
「小さくて可愛い僕の妖精さん、あなたのご趣味について、あなたが恋しくて仕方のない可哀想な男に免じて教えてはくれないだろうか」
「趣味ですか?ええ、ええ、とっても簡単なことですのよ。聖書を読んでミサに足しげく通って祈りを捧げることですわ!」
ルドルフはきょとんとして、気障たらしい言葉を忘れて質問した。
「手芸は?刺繍がお得意ではないですか」
「手先は器用なので、それは特技というものなのです。趣味はもちろん、瞑想ですわ」
おほほほと高笑いで誤魔化すアルテイアだったが、すでに修道院へ行くつもりも、その必要もないことも重々承知していた。単に、慣れないお世辞に照れていただけだったのである。