06
寡黙な大男、ましてヴィンツェンツのような騎士が女言葉を操るなど、誰が想像出来ようか。
アルテイアとマリアの二人も厩の入り口で立ち尽くしていたが、相対するヴィンツェンツも馬のブラシを片手に中途半端な高さで持ち上げて放心していた。
「な、なにかご覧になりましたか」
低く唸るように呟かれたヴィンツェンツの声に、身を硬直させていたアルテイアは捲し立てるように早口で答えた。
「いいえ、わたくしどもはなにも盗み見てなどおりません。ですが……その、風のいたずらで小鳥の囀りを漏れ聞いてしまったようなのです。わたくしたちは別に、そんな、ヴィンツェンツさまがお一人で……いいえ、決してなにも聞いておりませんわ。おほほほ……」
「ゴホン」
完全に墓穴を掘ったアルテイアは、顔をしかめてこれ以上ないほど呆れた表情のマリアに肘でつつかれた。
真向かいのヴィンツェンツは顔を真っ青にして、今にも倒れてしまうのではないか、と思われるほどだった。虚ろな瞳はぼんやりと地面の方を見つめていたが、しばらくしてため息をつくと開き直ったように無理やり笑顔を見せた。
「そう、完全にバレてしまったのならどうしようもないわね。そもそも、アルテイア様はルドルフ様の奥方様となるお方ですね。いつかはお話申し上げなければならないことだということは、わたしもルドルフ様もわかっておりましたもの」
ヴィンツェンツは努めて明るく事情を説明した。
曰く、幼少のころはとても小柄で天使のような風貌であったヴィンツェンツを猫可愛がりしていた彼の母、つまりヘンネフェルト男爵夫人が、小さなヴィンツェンツに女装と女言葉を強要したのだという。
隣国ではよく知られた男児を悪魔から守るために女児の格好をさせるらしい、とまことしやかに噂される迷信の類いを建前に、男爵家夫人として公然とやってのけたのだ。
ヴィンツェンツが成長しても言葉遣いの癖が抜けず、現在のような逞しい身体とは相容れぬ口調を、どうにも矯正することが出来なかった。幼い頃からの事情を知らない人々はその口調を知るや否や、やれ大男が気色悪いだの、男色の気があるのでは、などと心ない言葉をヴィンツェンツへ投げつけたらしい。
「騎士というのは、完全に男社会ですもの。女性らしさは男性として尊ぶべきもので、自分に身に付けるには相応しくないということなのですわ」
「まあ!そのような騎士道精神の欠片もない方々なんて、放っておいて差し上げればよろしいのよ」
アルテイアはそう答えたものの、実際はそう簡単に騎士道精神に乗っ取った正しい行いのできる人物は少ないことを、相次ぐ求婚者の醜態から経験上知っているだけに、苦々しい表情にならざるを得なかった。
幸運にもどれも未遂ですんだのだが、深夜にアルテイアの寝室に押し掛けようという輩や、不躾に両親に金品をねだったりなどは可愛いもので、密室に引きずり込まれて恐喝されかけたこともあった。
幸いなことに、ヴィンツェンツには言葉の暴力以外の実害はなかったようである。それは、単にヴィンツェンツが婦人方に配慮して事実を伝えなかっただけなのか、それとも優秀と名高い侯爵家に仕える彼のその実力ゆえにねじ伏せたからであるのか、についてはアルテイアとマリアの二人には預かり知れぬことではあったのだが。
ヴィンツェンツはその後無用な争いを避けるため、ルドルフの機転で発する言葉を制限し、寡黙な人物を装って口調を誤魔化すようになった。
普段普通に話せない鬱憤は、ヴィンツェンツの事情をよく知るものが同じ場にいる時か、彼が一人きりの時に思い切り発散することでバランスを取るようになったらしい。
アルテイアとマリアの二人はこの秘密はこれ以上誰にも漏らすべきではない、とするヴィンツェンツの立場を尊重し、固く口を閉ざす約束するとその場を辞した。
ヴィンツェンツとのこの出来事は、アルテイアには余りにもショックが大きすぎた。彼女は乗馬をする気分にも、サロンに寄って家族と歓談する気持ちにもなれず、すごすごと二階の自室に戻ると、内心の動揺を誤魔化すように刺繍に没頭した。
事情を知ってしまった以上、不憫なヴィンツェンツの辛い境遇には同情するが、見た目とのあまりのギャップに落胆を隠せず、アルテイアは刺繍の合間にも幾度もため息をついた。
恋い焦がれた相手の思わぬギャップを頭では納得していたものの、うまく飲み込むことの出来なかったアルテイアは、しばらくの間は食事も喉が通らないほどだった。
「はあ、まさかヴィンツェンツ様があのような口調をなさる方だったなんて、露ほどにも考えていなかったわ」
「あら、恋する女性にとってお相手の男性の多少の欠点は、その方の愛嬌の一部のようにすら思われるようですけれど、アルテイア様はそうはお考えにはならないのですか?」
「残念だけれどそうね。こちらから勝手に押し付けてしまったイメージなのはわかっているわ。でも、もう少し……ええ、なんとかならなかったのかしら。何度思い返しても、なぜだかお父様が女言葉を使ってお話なさっているような気がして、とても残念な心地がするの……」
どんよりとした様子で一人ごちたアルテイアを前に、マリアは片眉を軽く上げるとおどけたように答えた。
「あらアルテイア様、残念でした。初恋は実らないものですよ」
不貞腐れたようにベッドに潜り込むアルテイアは、マリアにそう告げられ、憤慨した様子で手元にあったクッションの一つをマリアに投げつけたのだった。
心は立ち止まっていても、時間は容赦なく進んでいく。
数日後にはルドルフを歓迎するための晩餐会が予定されていた。準備に追われる家族に代わって、アルテイアは婚約者としてルドルフをもてなさねばならなかったのだ。
その日、アルテイアはルドルフに庭園の東屋まで散歩に誘われた。
「わたしの可愛い婚約者さん。わたしの騎士のヴィンツェンツと秘密の密会だなんてつれないじゃないか。ハンカチまで先に贈っているし、そんなに彼に義理立てする必要はないんだよ? いずれ君の家臣となるんだからね」
そう問われ、アルテイアは驚きのあまり声なき悲鳴をあげてしまった。なんと、ヴィンツェンツはすべてのことをルドルフに包み隠さず報告してしまうらしい。
アルテイアは勢いよく後ろのヴィンツェンツへと振り返ったが、ヴィンツェンツはばつが悪そうに顔をそらしただけで、なにも言わなかった。
侍女のマリアもアルテイアと同様に驚いて目を瞬かせていたが、もともとルドルフは事情を知っていたこともあり、すぐに納得したようだった。
「彼のような立派な騎士が、あのような口調をすると聞いて、驚いたんじゃないかい?」
「ええ、そうですね。まさかそのようなご事情があるとは思っておりませんでしたから。わたくしたち、全く気付くことが出来ませんでした」
無難に答えたアルテイアだったが、やはり口調への違和感を隠すことが出来なかった。アルテイアはとても素直な性格で、隠し事が昔から苦手なのだ。
「アルテイア、君の気持ちも察するけれどね、人は口調や見た目で判断できないとは思わないかい? こんなことをいうべきではないかもしれないが、君のこれまで出会ってきた求婚者のなかには、社交界では評判のいいものもたくさんいただろう。でも、君達ジルヴェスト家はその申し出を悉く断っている。それがどういうことなのか、賢い君ならわかるだろう」
ルドルフにそう諭されたアルテイアは、目の覚める思いがした。 求婚者とのトラブルだけでなく、時にアルテイア自身も誹謗中傷の憂き目にあったこともあった。
顔や評判で判断するだけではわからないその人の良し悪しというものがあるのだということを、その身を持って経験してきたのはアルテイア自身でもあったのだ。
アルテイアは納得し、ヴィンツェンツへの戸惑いの気持ちをほとんど克服することが出来た。
だが、二人のやりとりの一部始終を聞いていたヴィンツェンツは、やはり口調は直すべきである、と気を揉んでしまったらしい。それ以後、普段にも増して無口になってしまったのだ。
そんな折、 騎士見習いとしての訓練に勤しんでいる弟のディートリヒが、ヴィンツェンツに騎士として稽古をつけて欲しいと願い出た。
それまでヴィンツェンツに対してはルドルフの部下として程度にしか申し訳程度にしか接してこなかったディートリヒがなぜ急にこのようなことをいい始めたのかというと、ルドルフの歓迎のために次の祝日に行う予定となっていた宴が問題だった。
婚約者たるルドルフを歓迎するため、当主のアーダルベルトがジルヴェスト家以下親類縁者をかき集めた。もちろんそこにはディートリヒの婚約者で恋人のローザンヌも含まれていて、件のローザンヌはちょうど数日前、宴にかこつけて早めの滞在を始めていた。
つまり、恋する若者が恋人に自分の良いところを見せたい、と考えた結果であった。
「……構いません。狩りで、よろしいか」
ヴィンツェンツは快諾したが、通常以上にぎこちなく話すヴィンツェンツとディートリヒの関係は、もともとぎくしゃくとしていたものの次第に険悪な方向へと移っていってしまった。
ヴィンツェンツがきちんと話せないため、説明不足に陥り、説得力も必要な説明もないためにディートリヒは失敗を繰り返し、ローザンヌに良いところを見せるどころではなくなってしまったのだ。
それを見たローザンヌはディートリヒの不出来をからかうような言葉を残すと、ルドルフを誘って庭園へ散歩に出てしまったのである。
「たしかにわたしからお願いしたことではあるが、お引き受けくださった以上、最低限の会話くらい期待して良いのではないか。質問をしても答えてくださらないのは、いくらなんでも無礼ではないか!」
ローザンヌに幻滅された、と激昂して我を忘れたディートリヒが捲し立てるのを、ヴィンツェンツは眉尻を下げておろおろとした様子で立ち尽くすしかなかった。
同じサロンに同席したアルテイアは、事情を知るものとしてなんとかしようとした考えたが、上手い言葉が見付からず、どうしようも出来なかった。
こうなっては父親のアーダルベルトを呼ぶしかないのではないか、とアルテイアが思い始めた頃、ルドルフとローザンヌがその場に現れた。
ルドルフはディートリヒとヴィンツェンツの様子を見て状況を把握するや否や、すぐにヴィンツェンツをその場から退室させた。
ディートリヒに落ち着くよう声をかけると、そのままローザンヌとディートリヒの仲まで鮮やかな手腕で仲裁してしまったのだ。
アルテイアはことの顛末に驚くと同時に、無事その場が収まったことにほっと息をついた。
その場はしのいだものの、拗ねてしまったディートリヒが落ち着くまでの間をルドルフに任せることにしたアルテイアは、一人厩へ向かった。
予想通り、立ち去ってしまったヴィンツェンツその人はそこにいた。アルテイアはすぐに声をかけることに躊躇しかけたが、やがて心を決めて声をかけた。
「弟のご無礼をお許しください。ヴィンツェンツ様。事情を知らないあの子に悪気はなかったのだということをご理解頂ければ幸いです。そして、姉のわたくしから謝罪を申し上げること、ご容赦くださいませ」
そう言ったアルテイアに対して、ヴィンツェンツは申し訳なさそうな様子で首を横に振った。
「いいえ、不躾なのはわたしだ、というディートリヒ殿のお言葉は、間違いない事実……なのです。むしろ、こちらから謝罪申し上げることを、お許しいただける……かしら」
アルテイアは、不器用にも口調を正そうとするヴィンツェンツの姿に心を打たれた。そうして自然に心からこう答えることができたのである。
「ヴィンツェンツ様、ここにはわたししかおりません。あなたの事情を知る、わたしだけです。口調も気にせずお話くださって構いませんのよ」
その言葉に目を見開いたヴィンツェンツは、突然俯くと感動からふるふると震えだした。
ポタポタと地面に落ちる水滴を、アルテイアは見てみぬふりをした。ぐすりと鼻をすすったヴィンツェンツは、晴れやかな表情で笑顔を作って見せた。
「さすがはルドルフ様の選んだ奥方様ですわ。全く同じことをおっしゃるのね」
それから、アルテイアはいかにヴィンツェンツがルドルフに救われたのか、というような身の上話を聞いた。
実力のあるにも関わらず、口調のせいで騎士たちの輪から外れがちであったヴィンツェンツに声をかけ、わざわざ自分の家臣となることを勧めたのは、ルドルフその人だった。
なんでも、実力のある騎士の噂を聞きつけ、物好きにも「個性のある方が面白いのではないかい? そもそも、こんな実力者をなんの競争もなく配下に加えられることに感動すら覚えるね」という一言で片付けたという。
「そう……でも、そのような素晴らしいお方が、社交界で婚約破棄ばかりというのはなぜなのかしら。あえて悪いようにとるよう、相手の女性を誘導しているとでも……?」
小さく独り言のように呟いたアルテイアは、自分の失言に気付き、はっとして口元に手をあてた。
すぐにその場を取り繕ったが、ヴィンツェンツはそのようなアルテイアの様子をまるで気に留めていないようだった。
「ルドルフ様は特別なご事情があって、ご婦人たちには誤解されがちですけれど、懐に入れた人間にはとても情の厚い素晴らしい方なの。アルテイア様もきっと、すぐにルドルフ様の魅力にお気付きになるでしょう。わたくし共はそう確信しております」
ルドルフへの猜疑心を拭いきれないアルテイアには俄には信じられないことではあったが、付き合いの長く、関係も深いヴィンツェンツの言葉には説得力があった。もしかすると本当にそうなのかもしれない、とアルテイアも思い始めていた。
「鷹が大好きでやんちゃなお転婆娘と聞いておりましたけれど、思ったよりもずっときちんとしておいでなのですね」
明らかにヴィンツェンツのこの言葉は余計だったが、いくばくか寛容な心の余裕を持てるようになっていたアルテイアは、彼の心を慮ってこの無礼を不問として不満を飲み込んでやることにしたのだった。




