05
ヴィンツェンツの名を耳にし、あまりに舞い上がっていたアルテイアは父親の話を聴き逃していたのだが、アーダルベルトの言う『ルドルフがアルテイアの屋敷へ訪問する予定』というのは、冬前のことである。秋口に入ったばかりの今から計算するならば、しばらく先のことのはずだった。
翌日そのことに気付いたアルテイアはしばし落胆したものの、ヴィンツェンツに会えるという事実を心の支えとして早々に立ち直った。
すでにワンポイントの鷹とヴィンツェンツのイニシャルの刺繍は完成しており、アルテイアはこのハンカチの刺繍をより豪華にすべく、徐々に徐々に針を進めていた。
「王宮にか教会にか、奉納出来そうな豪華さですわね……アルテイア様……」
侍女のマリアは主人を慮って非常に控えめにコメントしたが、あまりに複雑で豪奢な刺繍におおわれているため、もはやハンカチとしての機能は薄れ、芸術品であるといった方が良いほどだった。
アルテイアの腕前に慣れているジルヴェスト家以外の人間がこれを見たとき、はたしてど う思うのか、という懸念が一瞬マリアの頭をよぎったが、上機嫌な女主人を前に何も言うことが出来なかった。
アルテイアが刺繍に励む間、特にこれといった事件は起こらなかったが、少なくともルドルフとアルテイアの間で手紙のやり取りが続いていた。
「アルテイア様、ルドルフ様からのお手紙が届いておりましたので、執事から預かって参りました」
「そう。ではお返事をしなければいけないわね」
家族やマリア以下、下働きの使用人も含め、ジルヴェスト家の人々はあまり意識していなかったのだが、ルドルフとアルテイアの二人が互いに宛てた手紙のやりとりは、アルテイアが想像していたよりもずっと和やかに続いていた。
半ば義務のような表面的なやり取りではあったが、全く意味がないように見えて、護衛騎士という新しい共通の話題を皮切りに、徐々にアルテイアにもルドルフに対するある程度の「情」らしきものが芽生えつつあったのだ。
はじめの手紙の内容は味気もない簡素なもので、まず季節の挨拶から始まり、体調を気遣う言葉のほか近況が軽く述べられている程度のささやかなものだった。
白々しい甘言が並べられた手紙を前に、やはりルドルフとの婚約は政略結婚の色が濃いのではないか、というアルテイアの疑念はすぐに確信に変わった。
どうみても自分に恋をしているようには思われない手紙へどう答えるべきか迷ったアルテイアは、どのような文面にしたものか、と毎度頭を悩ませていた。
しかし例の脱走事件で活躍した護衛騎士への丁寧な感謝の言葉は、そこにアルテイアの下心が多分に含まれていたのはたしかだが、どうやらルドルフの琴線に触れたようだった。以来、二人の間でもより砕けた温かいやりとりが増え、アルテイアの胃痛は緩和された。
さらに偶然にもルドルフから鷹狩りの話題が出たことで、二人の間にはじめて護衛騎士以外の共通の話題が生まれた。
アルテイアは鷹を愛している。
ジルヴェスト家の紋章は盾の形を模した植物文を背景に、盾と槍を持つ鷹とライオンが組み合わせられた架空の生き物が中央に配されたもので、猛獣のように鋭い目付きと逞しい身体を持つジルヴェスト家の人々を象徴するかのようなデザインである。
血が薄れたのか、突然変異なのか、小動物のように小さく可憐な風貌のアルテイアは、幼い頃から片翼を担う鷹に憧れていた。
というのも、兄のフリードリヒはジルヴェスト家に相応しいライオンのような容姿を幼少の頃より持ち合わせており、そのような兄の隣に堂々と並び立てる鷹のような気高い女性になりたい、というのがアルテイアの夢だったからである。さらに弟のディートリヒが生まれてからというもの、この志へのアルテイアのこだわりはより一層強まった。
アルテイアがハンカチの刺繍に鷹ばかり選ぶのは、なにもジルヴェスト家の紋章だからというだけではなく、そのような個人的な憧憬というものが大いに関わっていたのである。
ともあれ、鷹狩りの話題から一転して鷹の素晴らしさといった色気もへったくれもない話題で盛り上がるようになって以来、 好事家として名を轟かすルドルフへの猜疑心が晴れるほどではなかったが、 アルテイアは自分が想像していたよりもずいぶんと思いやりのある言葉を綴ることができたのだった。
冬に程近い、つんと凍るような朝に身体を縮こまらせる季節となり、ついにルドルフとヴィンツェンツか訪れる日がやってきた。
冬らしい透き通った高い空に、朝日がまぶしく降り注いでいるのを朝の祈りを終えて二階の自室で寛いでいたアルテイアは、窓からの眺めによって遠くからオーエンドルフ家の豪奢な馬車が周囲を従者たちに囲まれてジルヴェスト家の屋敷へと徐々に近付いてくるのに気付いた。
そこにヴィンツェンツの姿を確認するや否や、急いで支度を整えると完成した刺繍付きのハンカチを握りしめ、いやというほど叩き込まれたはずの行儀作法を忘れて階段下のホールへ駆け降りた。
ホールには、すでに旅人を歓迎するために屋敷の人間のほとんどが勢揃いする勢いでホールに集まっていた。ルドルフは数ヶ月滞在していなかったにも関わらず、屋敷の人間を魅了してやまなかったのであろう。ルドルフの思惑通りに踊らされる家族を見て、少々憎らしく思ったアルテイアであったがすぐに頭はヴィンツェンツでいっぱいとなってすぐに忘れた。
それからしばらくして、上質でつややかな光沢のあるウール地のゆったりとしたマントに身を包んだルドルフと、冬使用の暖かそうな鎧に身に着けたヴィンツェンツ、そして数名の侍従達が屋敷中央の正面扉を開けて現れた。
「ようこそ、ルドルフ殿。遠路はるばるよくぞおいで下さった。長く退屈な旅路でお疲れでしょう、すぐに客間に案内しましょうぞ」
「このような手厚い歓迎、いたく感謝申し上げます、アーダルベルト殿。なに、わたしの可愛い婚約者殿のためならこの程度の旅路は恋情を増すための道具にすらなりますまい」
前回と同様に丁寧すぎるほどの挨拶と気遣いに、アルテイアは舌を巻いた。
さらに悪いことに、この気障たらしいルドルフの返答をいたく気に入った様子のアーダルベルトは朗らかに笑うと、満面の笑みで客人をサロンへ案内した。
アルテイアは会話の間ずっと後ろに控えていたヴィンツェンツをみつめていたが、話が終わるとみると飛んでいってヴィンツェンツの手にハンカチを押し付けた。
「……これは?」
「ヴィンツェンツ様のイニシャルとジルヴェスト家の紋章の鷹を模した刺繍よ。この間、助けていただいたでしょう?ささやかですけれど、わたくしからの感謝の気持ちですわ。ぜひハンカチとして使ってくださいませ!」
差し出されたハンカチを凝視し、一瞬顔をしかめたヴィンツェンツはルドルフの方を一瞥したあと、アルテイアを見て納得したように頷いた。
「……ありがたく、拝受します」
アルテイアはその簡潔な一言にも頬を染めて恥ずかしがった。頬に手をあて熱を冷ますように身体を揺らしていると、後ろに控えているはずのヴィンツェンツの姿が見えなかったことに気付いたルドルフが近付いてきた。
「やあ、ご機嫌いかがかな僕の妖精さん。ヴィンツェンツとなにを話していたんだい?」
ことの次第をヴィンツェンツが簡単に説明すると、ルドルフは拗ねた様子でアルテイアに自分のハンカチはないのかとせっついた。
「……?ルドルフ様はハンカチが入り用なのですか?でしたら屋敷の使用人に用意させますが」
このアルテイアの言葉は明らかにルドルフの気分を害したようで、憤慨しきった様子で嘆いた。
「君のそういったつれないところは魅力の一つではあるけどね、意図しているのかいないのかわからないのが問題だろうね!」
へそを曲げたルドルフに困り果てたアルテイアは、しばらくルドルフの機嫌をとらなければならなかった。
説得の末、最終的にはヴィンツェンツが危機からアルテイアを救出したお礼として納得したようだが、最後まで自分のためにアルテイアが刺繍をするということにこだわっていたので、根負けしたアルテイアはあとでルドルフのために代わりの刺繍を贈り、しばらくの間はルドルフと共に行動することを約束させられたのだった。
「サロンでお茶でも以下がですか、婚約者殿」
翌日、交わした約束は反故になることはなく、アルテイアは有無を言わさずサロンへ連行された。せめてもの反抗としてアルテイアは、嫌々ルドルフの向かいに座ると、石の彫像のように下を向いて動かなかった。
「ジルヴェスト家のサロンはいつきても落ち着いていて素晴らしいね」
「……ありがとうございます。父もきっと飛び上がって喜びますわ」
言葉少ななアルテイアに対して、昨日ほどは気分を悪くはしていない様子のルドルフは、
「なんだ、つれないなアルテイア嬢」
と声をかけると椅子を移動してあろうことかアルテイアの真横に座った。
アルテイアは不快感を隠そうともせず身じろぎしたが、ルドルフは意に介さずアルテイアの手を取ると手の甲を優しく撫でてくる。
透き通った翡翠の優しい瞳に見つめられ、アルテイアはうっかり胸をどきりと揺らした。
何でこの方はこんなにお美しくていらっしゃるのかしら。ハニーブロンドのお髪も、甘いテノールの声も、柔らかな物腰で迫られたらどんな女性だって意味もなくドキドキしてしまうじゃないの。これだから色男は嫌だわ。わたしを落とそうとしたって、そう簡単にはいかないんだから。などとぐるぐると考え込んでいたアルテイアは、ルドルフがさらに近付いたことにすぐには気付くことができなかった。
「この小さな手があのような立派で豪奢な刺繍を仕上げると思うと感動で胸が一杯になるよ」
優しく微笑まれたアルテイアは、その言葉に嘘を感じることは出来なかった。しかし、相手は百戦錬磨の策士である。いかにも心がこもった声をかけて乙女を籠絡しようとしているに違いない。
そう勇んだアルテイアだったが、美男子を間近にして緊張のあまり、小さく感謝の言葉をこぼすことしかできない。
「あ、ありがとうございます」
目の前に体温が感じられそうな程近付いたルドルフがいることに気付き、アルテイアはほの赤かった頬をさらに真っ赤にして俯く。
「アルテイア、君はヴィルヘルムにもハンカチを贈っていたよね。あんな豪快で雄々しい鷹が小動物のようにか弱い君から生まれているなんて、いまでも信じられないよ」
ルドルフは旧友との思い出を思い起こしたのか、そこで一旦俯いてしまった。しかしすぐにアルテイアの方へ向きなおすと、諭すように言った。
「無理にとは言わないが、叶うならここで、わたしの隣で刺繍をして見せてはくれないか?」
上目遣いで、小首まで傾げて美しい男性に懇願された生娘が、たとえそれがどんなに疎ましいと思っていた相手だとしても、その頼みを断ることなどできるだろうか。
アルテイアはそれでルドルフの視線と会話に煩わされることがなくなるならば、と自らに言い訳をして、自室から刺繍道具を階下のサロンへ持ち込んだのだった。
その夜自室に戻ったアルテイアは、疲れきった様子でいつものロッキングチェアに腰かけた。
「はあ、なんなのあのルドルフ坊やは!ことあるごとに甘えてくるし、なんだか身体がやたらと近いし、鬱陶しいことこの上ないわ」
「まあまあ、仲睦まじくて大変よろしいではありませんか。わたくしどもは見ていてほのぼのといた気分になります」
のほほんと答えたマリアの様子を見て、アルテイアはうんざりといった表情で答えた。
「あなたは当事者じゃないからそんな事が言えるのよマリア。あんな大きな子供をずっと相手にすると考えただけでも気が滅入ってしまうわ。気分転換に、乗馬でもしましょうか」
「まあ、最近のアルテイア様は運動不足ではないかと心配しておりましたし、ちょうど良いのではありませんか?乗馬服の用意をして参ります」
その後二人は支度をして屋敷の裏の厩へ向かった。
ジルヴェスト家の白亜の木造建築の裏手には、立派な狩り場と庭園が広がっている。屋敷の中央ホールから少し離れた離れに沿うように、狩り場に相応しい立派な黒々とした厩が建っている。
アルテイアは幼少の頃からこの厩が大好きで、かくれんぼと称しては馬達のために敷き詰められた藁のなかに潜り込んで叱られていたのだが、マリアにそのことを指摘されると憤慨した様子で足早に厩に駆け寄った。
「うふふ、可哀想に坊っちゃんのせいで随分と無理をさせてしまったわよね。さあおいで!ブラシをかけてあげるわ!」
すると厩の方向からなにやら大きな独り言が聞こえてくるのに気付き、二人は一体そこで足を止めた。
ここからでは厩の中は垣間見ることはできず、姿が見えない。声に心当たりもなく、二人は首をかしげた。
「女中の誰かでしょうか?」
「でもとても野太い声よ。明らかに男だわ。女言葉で話すおかしな下男なんて家の屋敷にいたかしら……?」
「ルドルフ様の侍従かもしれませんね」
厩に近付いて、ついに姿を見た二人は、呆然として言葉をなくした。
なんと、ヴィンツェンツその人だったのである。