02
はたして、決戦の時はアルテイアの心中とは裏腹に、麗らかな陽気とともに訪れた。
屋敷の家令が来訪者の到来を告げるベルを鳴らしたのは、正午を少し過ぎ、屋敷中央にある居間に集まって食後の一家団欒をしていた時だった。
侍従に連れられて居間へと招かれたルドルフは、さっとあたりを見回して気の聞いたことをいくつか言うと、アルテイアの家族ひとりひとりに丁寧に挨拶をした。
アルテイアはこれまでルドルフ・オーエンドルフを社交界で少し盗み見る程度にしか見たことがなかったが、なるほどその美貌は聞きしに勝るものであると認めるほかなかった。
ハニーブロンドの飴色の髪は、品よく短く整えられ、すっとした高い鼻、翡翠のような瞳は輝きを放っていてまるで天使のようだ。すらりとした180センチを越える長身は、最新流行のゆったりとしたチュニカに包まれ、胴のベルトには遠目にも価値がわかるほど豪奢な宝石が散りばめられていることがわかる。
女性のなかでも小柄なアルテイアは、乳房こそそれなりの大きさを持っているものの、たっぷりとしたビロードのロングドレスを着ても、遠目には20歳とは思えないあどけなさが残る。
「なんてこと。これでは月とスッポンではないの」
そうアルテイアが小声でマリアに囁いたとしても、致し方ないことであった。
ジルヴェスト家の人々にとっても、ルドルフはお互いに社交界での顔見知りではあっても身近ではなかった。そもそも、公爵家の人間が伯爵家を個人的に訪ねるなどということは、巡礼の旅に出た巡礼者か、視察で各地を旅している合間に立ち寄るでもない限り、滅多にないことである。
アルテイアの兄嫁のクリスティアーネなど、恐縮しきってその子猫のような愛らしい体をきゅっと縮こまらせ、返事の声もところどころ裏返っている。アルテイアは、ライオンのように堂々とした体格の兄のハインリッヒが、気落ちした様子の義姉を必死で宥める姿を、生ぬるい気持ちで眺めた。
「お義父上、というにはまだ気が早いかもしれませんが、アーダルベルト殿にはいつも宮廷でもお世話になっていますね。将来あなたのようなお方と縁続きとなれることは、なんとも喜ばしいことです。この度は急なお話であったにも関わらず、こちらの不躾な求婚を承諾してくださり、ありがとうございました。アルテイア嬢は、わたしがきっと幸せにして見せます」
「期待しておりますぞ、ルドルフ殿。貴殿であればわたしも安心してアルテイアを任せられるというもの……」
頭上を飛び交う白々しい会話を右から左に聞き流しながら、アルテイアはうんざりとした気分で知らぬふりを決め込んだ。
そのまま団欒に加わったルドルフは、夕飯もジルヴェスト一家と共にとり、なんと家主であるアーダルベルトから数日の滞在の約束を取り付けた。
美しすぎる婚約者と数日をともにすると思うと、気が滅入るアルテイアであったが、ルドルフの持ち前の気さくさと快活な性質のためか、1日もないうちに家族と打ち解けてしまった。
さらに、ルドルフの身分を鼻にかけない礼儀正しい態度は、ジルヴェスト家の貴人のみならず使用人までもを魅了してしまったようである。
「もうそのままルドルフ様とご結婚なさればよろしいのではないですか」
と侍女のマリアが発言した時のアルテイアの顔は、教会に取り付けられ、苦しみに顔をしかめるどんな悪魔の彫刻装飾よりも深い皺がよっていた。
どうやら、社交界に浮き名を轟かす色男たるルドルフ・オーエンドルフは、 外面だけは随分と良いらしい。というのが、数日間を彼と共に過ごしたアルテイアが下した結論であった。
いつ化けの皮が剥がれるのか、アルテイアは虎視眈々と隙を伺っていたが、ルドルフはなかなか隙を見せなかった。
兄嫁などは完全にほだされ、微笑むルドルフに頬を染める始末。あたふたと慌てる兄を眺めるのはアルテイアにとっても面白かったが、ルドルフという相手の手強さには舌を巻くほかなかった。
「浮気されないように頑張ってくださいませ、お兄様」
一人庭園の東屋に腰かける兄に、アルテイアが声をかけると、拗ねた様子のハインリヒはひどく気分を害されたようだった。
「……余計なお世話だ。アルテイア」
少々意地悪をしすぎたと反省したアルテイアだったが、ルドルフに数回誘われた散歩での心労に比べれば安いものだ、と思わずにはいられなかった。誘われた散歩中、あまりに共通の話題がないため、アルテイアは数時間に渡って苦しい沈黙に耐えなければならなかったのだ。
次の日もルドルフから庭園へ散歩に誘われたアルテイアは、意を決してありのままの疑念をぶつけることにした。
「ルドルフ様、このようなことを直接口にすることは無作法である、とお怒りになるかもしれません。ですがあえてお尋ね申し上げます。なぜ、求婚相手にわたくしを選んだのですか」
アルテイアのあまりの率直さに、隣を歩くルドルフは驚き目を見開いたが、幾度か瞬きをすると落ち着きはらって立ち止まり、アルテイアの右手を両手でとった。
「アルテイア、ほとんど面識のなかったわたしがなぜあなたに求婚したのか、あなたが不安になるのはもっともです。ですが、あなたの愛らしさの噂を聞き及ぶも、全く社交界に顔を出してくださらないことに痺れを切らした若者がいた、ということで納得してはいただけないのでしょうか」
舞台役者が朗々と口上を述べるかのように流暢に話すルドルフに対し、アルテイアはうろんげな顔を隠そうともせずに答えた。
「そのような建前には興味がないのです。わたくしは本当のところを教えていただきたいのですわ、ルドルフ様」
この発言にはさすがの好青年然としたルドルフも眉をひそめずにはいられなかったようで、その場を取り繕うように咳払いを一つ落とした。
「……なるほど、あなたには砂糖細工のような甘い言葉は必要ないのですね。では、わたしも率直に申し上げなければなりますまい」
そこから一拍を置いて落ち着きを取り戻したルドルフは、アルテイアに落ち着いて聞くようにと前置きをして続けた。
「わたしはあなたの前婚約者であったヴィルヘルムと懇意にしていたのです。結論から申し上げるならば、わたしは親友であるヴィルヘルムの遺言書に従ってあなたに求婚しました」
曰く、三番目の婚約者であるヴィルヘルムが気にかけていたアルテイアがどのような女性であったのか興味を持ったことに加え、ヴィルヘルム自身に自分になにかあったら婚約者を頼む、という遺言書を託されたという。
ルドルフの言葉が正しいのかどうか、アルテイア自身には判断がつかなかったが、ルドルフが全くの嘘をついているようには思われなかった。
「では、同情から求婚なさったのですか?」
アルテイアがそう尋ねると、ルドルフは大袈裟に否定し、首を横にふった。
「まさか!喪があけてもそのまま社交界にも出てこないあなたをお慰めしたい、という気持ちはもちろんありましたが、本当のところ興味本意だったことは認めなければならないでしょう。でも、どうやらあなたは社交界にありふれた花々にはない強さを持った御仁のようだ。きっとあなたとなら穏やかな家庭が築ける。今お話してそう確信しました」
「まあ、それは……光栄ですわ。ただ、わたくしがヴィルヘルム様を忘れられないのは確かな事実なのです。どうか、わたくしを待っていてはくださいませんか」
アルテイアが白々しくそう答えると、真に受けたルドルフは神妙そうな顔をして頷いた。
「それは勿論。あなたの心が癒されるまでは、いくらでも待ちましょう」
この会話のあとも、アルテイアはルドルフに数度の散歩に誘われた。しかし、先の話題には一切触れられることはなく、またアルテイアが懸念していたような噂話の裏付けも見つけることは出来なかった。
アルテイアはルドルフへの不信感を募らせる一方であったが、反比例するようにジルヴェスト家の人々からのルドルフの評判は留まることを知らなかった。
ルドルフがついに屋敷を去ることになると、家族だけでなく使用人すら総出で見送りに出て、高貴なる若者の出立を惜しんだ。
母親のコルドゥラなど、感動から涙を流して父親に優しく宥められており、アルテイアのやさぐれた心はさらに悪化した。
その晩、私室に戻ったアルテイアは、部屋に入るなり甲高い声で叫んだ。
「なにかの間違いだわ!絶対にみんな騙されているのよ、そうに違いないわ」
感情が抑えきれないアルテイアは、芝居がかった大袈裟な身振りで後ろを振り返ると、アルテイアに続いて部屋に入ってきた侍女のマリアにそう主張した。そしてまるで周囲の目など気にならないとでもいうように、そわそわと部屋を歩き回る。
「アルテイア様のお辛い心のうちは、お察し申し上げます。ですが、とにかく一度お座りになられては如何ですか。そしてどうぞお気を鎮め、落ち着いてくださいませ。あまり大声を出すと他の侍従が驚いてしまいますわ」
あきれ顔のマリアにそう言われ、少し冷静になったアルテイアは、水を持って来るよう命じた。差し出された水を行儀悪く一気に飲み干すと、一度深く深呼吸をする。
そうしてやっと落ち着いたアルテイアは、いつものロッキングチェアに腰掛けると、目を閉じて静かにマリアに尋ねた。
「マリア、例のものの手配は」
「一応、整ってはおります。しかし、差し出がましい申し出かもしれませんが、アルテイア様、やはりこのようなことは旦那様の許可を得た方が……」
「わかりました。良いのですよ、マリア。善は急げとでしょう。それでは、わたしとあなたは今日、この晩、夜逃げをいたします。しっかり着いてらっしゃいね」
「……やはりそうなるんですか……」
重大な決意をしたように真剣なアルテイアを前に、マリアはそっと息を吐いて肩を落とした。
あくる日の早朝、静まり返る屋敷に、こそこそと動き回る二人の影が伸びる。
アルテイアは自身の寝室にあるベッドの上に一片の書き置きを残すと、二人分のいくばくかの私物のみ荷物に携えて姿を消した。