01
昨晩のうちに交わされた二人の謀は、ものの見事に呆気なく、半日もたたぬうちに打ち砕かれた。
「お父様、わざわざ執務室にお呼びになるほどのお話とは、一体なんでしょうか」
密談の翌日、朝食を終えて私室に戻ったアルテイアの元へ、父親付きの侍従が呼びにきたのは正午前のことだった。
高貴な血筋を引くとはいえ、度重なる遷都に随行する貴族たちの邸宅は必ずしも大きいわけではない。
アルテイアの在居である屋敷はこぢんまりとしたレンガ造りにしっくいの塗りが施された白い二階建ての建物である。黒の木枠が白く殺風景な壁面に装飾的な要素を施し、屋根はするどい切り妻の黒い瓦葺きを有している。アルテイアは父親の生真面目な気質がそのままに体現されているようなこの住居を気に入っていた。
一階の角にあるにある父親の、小さな執務室に呼ばれたアルテイアは、熊のような風貌とひそかに噂される己の父親を、極めてにこやかにみつめた。
アルテイアの父親であるアーダルベルト・ジルヴェストは長身で貴族と言うには少々がっしりとした、騎士のような体格をしており、彼女と同じシルバーブロンドを短くカールさせ、趣味の良い最新の流行の衣類を身に付けその身を着飾っている。彼は持ち前の生真面目さと誠実さによって、帝国内のいくつかの都市の参事会員として活躍し、普段は宮廷の仕官として皇帝の統治を助ける仕事に就いていた。
彼がアルテイア一人を自身の執務室へ呼ぶことは滅多になく、その唯一の要件といえば彼女の婚約に関することであった。
「わたしの可愛いアルテイア、最近しばらくは塞ぎこんでいたようだったが、今日は随分と上機嫌だな。父から話と聞いただけで、内容がわかったのか?」
訝しげに話しかける自らの父親と向かい合い、自分の企みが上手くいったと信じきっているアルテイアは、得意気に頷いた。
「ええ、お父様。単なる予想ですけれど、おそらくわたくしの未来の婚姻に関するお話ではないでしょうか」
「そうか。では話が早いな。我が愛娘、アルテイアよ。お前に新たな求婚者が現れたのだ。父としても推薦に足る人物だと判断し、婚約を承諾する旨の手紙を出したが、相違ないな?」
「ええ、わかっております。わたくしに新しい求婚者が………は?」
「そうかそうか。三番目の婚約者の不幸のあと、ずっと塞ぎこんでいたお前のことを心配していたのだ。この間は修道女になりたいなどと言い出して驚いたが、お前ならなにも心配せずとも今度こそ結婚できるだろうさ。安心するが良い、お前の相手は公爵家の非常に有望な若者だ。これは我が伯爵家にとって願ってもない僥倖だぞ、アルテイア。よくやった」
思ってもいなかった話の展開に頭がついていかず、アルテイアは放心したまま父親の執務室を出た。どうやって自分が私室に戻ったのか、そもそも自分がどの公爵家の、誰のもとへ嫁ぐのか、などという仔細な説明も聞き漏らすほど、アルテイアは動揺していた。
「飲み物をお持ちいたしました。アルテイア様」
「マ、マリア……ちょっと聞いて頂戴」
「はい。アルテイア様。いかがなさいましたか?旦那様とお話をなさってから、ずっと心ここにあらずといったご様子でしたが」
アルテイアが私室に戻り、お気に入りのロッキングチェアに腰かけてなにやら物思いに耽っているのを、侍女のマリアは静かに眺めていた。
心当たりの出来事が首尾よく進んだのであれば、きっとアルテイアはもっと有頂天になるはずである。自らが仕える人物を本人以上に理解している彼女は、自分の推論が当たっていることを半ば確信しながら、ロッキングチェアの側にあるサイドテーブルにアルテイアの好物の香草入りホットワインを差し出したのだった。
「わたくし、わたしは!修道女になりたいと申し上げたのに!」
マリアの差し出したホットワインを一二口口に含んで落ち着いたアルテイアは、自身の侍女にことの次第をざっと説明すると、ほとんど吐き捨てるように一人ごちた。
「お父様にはもう結婚なんてしなくて構わないとすら伝えていたのに、相手が公爵家ともなれば断ることは不可能だわ。ああ、こんなことになるなら早急に第2案を採用するべきだった!」
「まあ、ご懸念はそちらでしたか」
「なによマリア、じゃああなたはなにが問題だと思っていたの?」
「いいえ、お相手がお気に召さないだけかと思っておりましたので……」
「相手?婚約の?」
「ええ。旦那様は公爵家の有望な若者、とおっしゃっておいでだったのでしょう?となれば、自ずとアルテイア様のご婚約者さまのご候補も限られてまいりますわ。わたくしの予測では、オーエンドルフ家のルドルフ様のことではないかと思うのですが、旦那様はなんとおっしゃっていたのですか?」
そこでアルテイアはやっと自らの過ちに気付いた。
「まあ、なんてこと!気が動転しすぎてお父様からのお話を聞き漏らすなんて!」
ルドルフ・オーエンドルフといえば、前途有望な若者として社交界に浮き名を流しながら、婚約者に逃げられてばかりであることで有名なのだ。
ルドルフは公爵家の次男で、家督こそ継がないものの、24歳の若さで宮廷の仕官として皇帝家の管轄する広大かつ各地に点在する領地の管理全般を任され、皇帝陛下の覚えも良く、その有能さで名が知られている。しかも、婚約者のない貴族女性達がこぞって婚約を夢見るほどの美男子なのである。
なぜそのような魅力的な男性がことごとく婚約者に逃げられ、24歳で未だ結婚が出来ていないのか。
それは彼が社交界一の放蕩息子と呼ばれるほどスキャンダラスな色男だからである。婚約こそ何度も結んでいるものの、相次ぐ浮気の噂に耐えかねた女性は数知れず。その美貌と才能、そして公爵家という血筋という有り余る魅力にも関わらず、彼は未だに結婚出来ていないのであった。
近頃は彼の外見に惑わされない未婚の女性も増えたのか、婚約の予定を噂されるほどの女性はいないようである。というのは、社交界に顔を出さなくなって久しいアルテイアにも耳に入るほど有名な話なのだ。
「なぜ公爵位を持つオーエンドルフ家から、我がジルヴェスト伯爵家に婚約の話がくるのかしら。お父様はなにか騙されているのだわ」
アルテイアはそう嘯いたが、婚約の破談に関しては負けず劣らずの自身の経歴を思い出すと、納得がいくような気もして、鬱々とした気分に陥ることを止めることはできなかった。
相手を選び放題の御仁が、嫁ぎ遅れのアルテイアをあえて婚約相手として選んだ。アルテイアにとって、これは自分の魅力が引き当てた婚約ではなく、貧乏くじが自分にまわってきたのだ、と考える方が自然だった。
この婚約を完全な政略結婚だと捉えるならば、二人の間に愛情の有無は必要とされない。たしかに公爵家が伯爵家に求婚すれば、ジルヴェスト家の当主である父親のアーダルベルトとの繋がりが強化され、オーエンドルフ家の帝国内での地位はより強固となるだろう。
しかし、いくらアーダルベルトが宮廷で仕官をしているといっても、オーエンドルフ家のように皇帝からの覚えが良いといえるほど有力な家ではないのも事実なのだ。
であるならば、わざわざ伯爵家を選ぶことのメリットは、嫁ぎ遅れのアルテイアであれば結婚を断らないだろう、という考えに違いない。放蕩息子の身を固めるための体のいい生け贄として、アルテイアは嫁ぐはめになったのだ。
「うろ覚えではあるけれど、今週末には我が屋敷におみえになるとお父様がおっしゃっていたの。こうなったら、噂が本当かどうか、見定めてやろうじゃないの。少しでも怪しいところがあれば、こちらから丁重にお断りして差し上げればよろしいわ」
落ち込んだ気持ちを奮い立たせたアルテイアは、それ以上考えることを放棄し、とりあえずこの問題を先送りすることを選んだ。
父親が公爵家へ許諾の手紙を出してしまった以上、おそらくは教会への申請を止めることはもちろん、離婚すら近親婚などよほどの理由のない限りは不可能なのである。いまだ貴族女性としての誇りを失っていないアルテイアは、ひとまずのところ相手の良心に一縷の望みをかけたのであった。
「そう、簡単にいくと良いのですが……」
「そうでなかった場合に備えて、例の件はきちんと用意をよろしくね、マリア」
「……承知いたしました。アルテイア様」
こうしてアルテイアの未来を決する結婚の問題は、ルドルフの到着まで持ち越されることになったのだった。