エピローグ
アルテイアとルドルフの正式な婚約式と結婚式は、教会暦でちょうど四旬節を終えた頃に、厳かに執り行われた。
親族と限られた関係者のみが集められた結婚の義は、例外的に婚約式を執り行ったアーダルベルトの統治する教区教会ではなく、アルテイアの希望で彼女が尼僧として入ろうと考えていた修道院で行われることになった。
女子修道院は山奥にひっそりと佇んだ白亜の建築で、黒い森との対比がすばらしかったが、その立地ゆえに一部の交易、もしくは巡礼をするものしか知らぬ、知る人ぞ知る美しい建物である。
修道院で結婚式を挙げるのは、ジルヴェスト家周辺の諸侯の間ではあまり例のないことではあったが、もともとジルヴェスト家の寄進によって建てられたこの修道院で挙式することは、どうやら修道院長アーデルハイトの悲願であったらしい。
彼女は政治的な要因で仕方なく修道院へと飛び込んだ気の毒な貴婦人の一人で、男社会の教会の中で唯一の一定の権力を握ることのできる女子修道院長へとのしあがり、政治の世界へ返り咲いた人物でもあった。
幼い頃に聖書について教えを受けたこともあるアルテイアは、彼女を非常に尊敬していた。アルテイアが修道院にこだわっていたのは、なにも婚約が解消された無情感のためだけではなく、修道院長アーデルハイトに憧れていたことが遠因となっていたことは間違いないだろう。
婚礼のために誂えられたアルテイアの服装は、生花と刺繍の花で艶やかに彩られた赤いロングドレスに身を包み、一流の金細工師によって彫られた繊細な冠を被っている。髪は薄いヴェールで包まれ、アルテイアのシルバーブロンドの髪を優しく隠す。
ルドルフの服装も、同じく派手な濃緑の地に、金糸によって刺繍が施された衣装であり、ずいぶんと豪奢な装いを身に付けていた。
結婚式は修道院の礼拝堂の戸口の前で行われる。
アルテイアとルドルフは司祭の前で誓いの言葉を交わすと、互いに互いの指へ指輪を嵌めた。
周囲に集まった人々には、アルテイアの友人のカタリナや、ルドルフの友人達、そして互いの家の親族達の姿があった。
彼らは二人の結婚が正しく執り行われたのを見届けると、隣り合った人にげんこつや平手打ちを奮って二人を祝福する。
「やあっと姉上が結婚したんだ。待ちくたびれたが、次は私たちの番だとは思わないか、ローザ」
プロポーズの言葉としてはあまりに不躾なディートリッヒの言葉に憤慨したローザンヌは、密かにディートリッヒの足の甲を踏みつけると、否、と短く返事をする。
痛みから蹲ったディートリッヒを面白がって周囲の人がよってたかってげんこつを見舞ったのを見て、ローザンヌも溜飲を下げたようだった。
その後、修道院の礼拝堂で簡素ながら結婚のミサが行われ、ミサが終わるとアルテイアとルドルフは観衆に見守られながら修道院に埋葬されたジルヴェスト家の祖先の墓へ挨拶をした。
その間にも、修道院の戸口周りには、今日のために雇われた楽士たちが優美な音色を奏で、さらにその付近で結婚を祝う宴のための盛大な宴が二日の間、催された。
とはいえ、あまり周辺の集落のない地域のため、その内容としてはささやかなものではあったのだが。
近隣の平民達にも食事が振る舞われ、水汲み場には水代わりの葡萄酒が置かれて誰でも好きに飲むことが出来た。
「まあ、まあ、とても綺麗ね、素敵だわアルテイア。おめでとう。ヴィルヘルム様が亡くなったと聞いたときはどうなることかと思ったけれど、遂にあなたも結婚したのね」
親友のカタリナに声をかけられたアルテイアは、感動から涙を流して祝福の言葉を贈った。
隣でクリストフに葡萄酒を押し付けられていたルドルフは、アルテイアの方を振り返ってなんでもないようにこう口にした。
「ああ、ヴィルヘルムといえば、アルテイアにはまだヴィルヘルムの死の真相を伝え忘れていたのだったか」
「まあ、ルドルフ様、こんな祝いの席でそんな血生臭いお話ですか?」
酒の回った頭では思考も濁る。アルテイアはそうたしなめたが、好奇心ゆえに強く止めることはしなかった。祝宴で浴びるように酒を飲まされたルドルフは、不覚にも泥酔していらぬことを口にしてしまったのだが、酒の席だということもあって皆すぐに忘れたことは、不幸中の幸いであった。
ルドルフの口からもたらされたヴィルヘルムの死の真相は、ルドルフの宮廷での仕事と、アルテイアとルドルフの結婚を決定付けたミサでの騒動との話とも繋がっており、アルテイアには途方もなく複雑で問題あるように感じられた。
そもそも、ルドルフの身内となった今でこそ伝えられるが、ただ婚約を約束した仲であったならば、ルドルフはアルテイアにこの事情を伝えることすらなかっただろう。
ルドルフとヴィルヘルムの仕事は、国王の領地管理、つまり国王自身の身辺管理も含む、国王の諜報機関ともいえるような部門を担う。
臣従礼をとっているにも関わらず、国王に対する義務を忘れ、謀反を企んでいる人間は後を断たないため、見付けては秘密裏に処理する必要があったのだ。
中央の表向きの社交の場である社交界での内情視察についてはルドルフが、物理的に離れた辺境で力をつけようとしている人物については辺境伯の息子であるヴィルヘルムが、それぞれ担当していた。
年齢が上がり、そろそろ身を固めようという気になったのはヴィルヘルムが先だった。
ある時、教皇推進派の強硬派として有名な有力貴族と親密で、不穏な動きを見せているブルーノ・ヴァルター伯爵が、なぜか不自然なほどに隣の部屋で働くアーダルベルト・ジルヴェストを目の敵にしていることを二人は探り当てた。
そうしてジルヴェスト家に興味を持ったヴィルヘルムは、ジルヴェスト家にアルテイアという一人娘が少し前に婚約者のギルバートが自身の不義理から婚約が破棄されたことを噂で聞き付け、ならば婚約によって調査を円滑にしてやろうと画策した。
幸い、アーダルベルトは敬虔なキリスト者であると同時に国王派であることを表明しており、信頼のおける人物であったことから、ヴィルヘルムからの求婚の申し入れは概ね問題なく進められた。
花の蕾のような可愛い婚約者が出来た、とのろける同僚のヴィルヘルムに嫌気が指したルドルフは、なかば自棄になってブルーノの娘であるアグネスへ近付いた。
はじめは仕事のためだけに近付いたルドルフだったが、気位の高いアグネスが時折見せる少女らしい気の弱さや、秘めたる政治手腕に目を付けた。
ルドルフは、このままヴァルター家に置いてこの少女を腐らせるべきではないと考えを改め、このままでは謀反に巻き込まれて大変なことになることを必死に伝えた。
ヴィンツェンツには変人好きと呆れられたが、なんとかルドルフはアグネスだけでも意識を変えようと何度も説得した。しかしアグネスには上手く彼の意図は伝わらず、両親のヴァルター夫妻にルドルフの素性を勘づかれてしまった上、アグネスの誤解を解けないまま婚約破棄となってしまったらしい。
調査を進めるにつれ、ギルバートがジルヴェスト家へ求婚の申し入れをしたのにも、ヴァルター家が関わっていたことがわかった。ギルバートの生家である宝飾品貿易の商人であったヴェンツェ家が貴族に召し上げられた時、便宜を図ったのがヴァルター家だった。
ギルバートはブルーノの命令に従い、ジルヴェスト家にやたらと文句をつけ、財産目録を盗もうなどという愚を犯したのだろう。道理で貴族としての株が急落し、商人へ戻った後も上客として優遇されるはずである。
どうやら、ブルーノはなにかしらの理由でジルヴェスト家を敵対視しているらしい、ということは誰から見ても明らかな事実だった。
しかし、それが遠回しに国王派の重要な貴族を追い落とそうという考えでのものなのか、単なる私怨によるものなのか、すぐに判明させることができなかった。
すでにアーダルベルトは宮廷の地図製作を管理する部署を統括する任を与えられている。地図製作は難しく、軍事的に重要な役割を担っており、すでに重要な機密に携わっているのは確かだ。しかし、水面下ではあるが、彼を国王派の人間としてより重要なポストへと押し上げようという動きもあり、もしやそれを嗅ぎ付けられたのではないか、という懸念があったからだ。
結果的に、ヴィルヘルムは自らの死によってこの謎を解明した。ブルーノは、おそらく背後の高位貴族の政治的な理由によって、ヴィルヘルムを殺すよう仕向けられたのである。ヴィルヘルムを襲った山賊を装った騎士のうち、複数人からヴァルター家と深い関係を持つ家のものとわかる物的証拠が見つかったのだ。
ブルーノが単にジルヴェスト家への恨みから行動を起こしたのであれば、あえてヴィルヘルムを殺す必要はない。むしろジルヴェスト家に直接手を下した方が、よほどリスクも低いはずである。より不自然であるのが、なぜ失敗したギルバートは生かされ、直接関わりのないはずのヴィルヘルムが殺されたのかということだ。
おそらく、当初ブルーノは、単純にアーダルベルトが大事にするアルテイアを攻撃することで間接的にアーダルベルトに苦痛を与えようと画策したのだろう。しかし、そこに教皇派と国王派の対立という政治が絡んだ。
国王派の筆頭ともいえるヴィルヘルムと、成長中のジルヴェスト家が婚姻によってつながることは、あきらかに教皇派の陣営にとって大きな不利益となる。脅威とみなされたアルテイアとヴィルヘルムの婚約は、彼の死をもって幕が下りた。
ルドルフはヴィルヘルムのための弔いの代わりに、そこまで重要でなかったブルーノとジルヴェスト家を巡る一件の調査に本格的に乗り出した。
ヴィルヘルムの死の直前に書かれたと思われる血濡れの手紙には、アルテイアのことを頼む文言の他に、ギルバートに接触してブルーノの弱味を握るべきだという旨が記さていた。
ヴィルヘルムは死の直前、ギルバートと直接会って会談を終え、そこからアルテイアの家へと向かっていた。だから、アルテイアの両親の逆鱗に触れ、男性の尊厳を失ったギルバートが、彼のためになにもしなかったブルーノに対して腹をたてていたことを知っていたのだ。
このとき、ルドルフはちょうどブルーノから婚約破棄を一方的に告げられたところであったために、ブルーノに対して嫌悪感を募らせていた。ヴィルヘルムの死は、これに火に油を注ぐ結果となった。
ルドルフはすぐにギルバートに接触すると、彼を説得してギルバートを対ブルーノのスパイに仕立て上げた。あとは、アルテイアも知るミサでの襲撃事件である。あの事件で捕まった騎士の自白によって、ブルーノを追及する証拠はすべて揃った。
不正をむざむざ放置するほど、ルドルフもアーダルベルトも優しい性格をしてはいない。そもそも、罪人を事前に察知して断罪するのがルドルフの仕事だ。
仔細を国王に提訴したルドルフは、後に設定された神聖裁判による決闘で見事ブルーノを打ち負かし、ヴィルヘルムの敵討ちを果たした。
もちろん、当主を失ったヴァルター家は取り潰され、一家離散の憂き目を見た。可哀想なアグネスはというと、実はアーダルベルトの誘いを受けて今現在結婚式を挙げているこの修道院へ入ったらしい。
それ聞いたアルテイアは驚いて思わずあたりを見回したが、まだ修道女見習いである彼女が出てくることはないことに気付いて落胆した。
事情を知ってしまえば、アルテイアにさらなる危険が及ぶかもしれない、と危惧したアーダルベルトによって、これまでアルテイアへはなにも知らされることがなかった。アルテイア自身は疑問に思っていたすべてが明らかになり満足することができたが、酒の勢いとはいえ重大な秘密を聞いてしまった同じ場にいた人間は、大変気まずい思いをしたことに違いなかった。
さて、このような血生臭い話をよそに、アルテイアとルドルフに親しい周辺の人々は、思い思いに宴を楽しんでいた。
ヴィンツェンツは、つい先日に電撃的婚姻を発表した男爵令嬢と共に宴に参加していた。
彼女の家は有名な騎士の家系だったのだが、残念ながら男児が長生きするこ とがなく、彼女は建前上手違いで、しかし間違いなく意図的に、教会へ男として届け出られてしまった。
本来であれば、聖名を授ける聖職者が確認するべきことであったが、既に産布に包まれた子供をわざわざ母親から引き剥がして確認するほどの生真面目さはなかったのが災いした。
ヴィンツェンツはずっと、女言葉を操り、男という神から与えられた性に背く自分を認められなかったが、始まりこそ違うが似た境遇の女性騎士を見つけてこの苦しみから解放された。二人は互いに惹かれ合い、晴れて恋愛結婚を果たしたのだった。
侍女のマリアは、相変わらず夫エックハルトとの喧嘩が絶えないようだったが、まさか結婚したアルテイアと共にルドルフと暮らすことは出来なかった。彼女と夫のエックハルトは、数年の時を経て、ついに夫婦間別居が解消されたのである。
「マリア・レクラム・リウドルフィンガー。これ以後あなたの侍女としての任を解きます。今後は同じ貴族としてよろしくね、マリア」
アルテイアが初めて現在の正しいフルネームでマリアを呼んだので、マリアは飛び上がって驚いた。実はアルテイアは先にマリアが結婚したのを根に持っていたのである。
長年を共にしたアルテイアと離れるのを嫌がったマリアだったが、やがてアルテイアとルドルフの新居がリウドルフィンガー家の領地と近いことを知ると、喜んで夫の元へ帰っていった。
「なんと素晴らしい教会だろう! 気に入ったよアルテイア。ぜひ、我々の墓もここにしたいものだ。もちろん、わたしと君は隣にさせよう」
「まあ、結婚したと思ったらもう墓の心配ですか? なんて気が早いんでしょう。ルドルフ様ったら」
「……様はもういらないんだよ、アルテイア」
自分がたしなめるつもりが、そうルドルフに返されたアルテイアは動揺してどもった。
「まあ、ええ、そうですわね……その、ル、ルドル……………ま、待ってくださいな。恥ずかしいのであと少しだけ……」
「いや、わたしは今日まで十分に辛抱強く待った。もう待てない」
ルドルフはそういって腰を屈めるとアルテイアの唇へとキスを落とした。それを見た人々から、歓声が上がったのは必然であった。
結婚式のあと、二人は馬車に乗って新居であり、ルドルフの領地にある屋敷へ向かう。
もじもじとしたアルテイアは、なにかを言いたげにルドルフを見つめているが、ルドルフは無理にアルテイアから聞き出そうとはせず、アルテイアがその気になるまで辛抱強く待った。
「ルドルフ、わたくし、あなたに懺悔しなくてはならないことがたくさんありますの」
そう切り出したアルテイアは、遂にルドルフに彼女のこれまでの心情の変化を包み隠さず伝えた。
まず、結婚をあきらめて修道院にいこうと考え脱走したことを、アルテイアは説明した。
そもそも、彼女が修道院に入ろうとしたのは、男性が信じられなくなり、その復讐に女子修道院長となって俗世の政治に首を突っ込み、政治を混乱させようと考えていたからだったのだ。
「でも、ただわたくしが自分に自信がないために、男性が信頼出来なくなっただけのことだったのですわ」
アルテイアの台詞にいくらか面食らった様子のルドルフだったが、余計な口を挟むことはなく、そのまま続きをただした。
それからアルテイアは、ルドルフと婚約を約束してから起こったすべての出来事で、彼女が何を考え、どう動いたのか、ルドルフへ話して聞かせた。
ヴィンツェンツに恋をして彼の秘密に衝撃を受けたこと、教会のミサでの襲撃でアルテイアを庇ったルドルフのために力を尽くしても結局自分の力ではなにもできず辛かったことなどを、滔々と語る。
そうして一頻り話したアルテイアは一拍置くと、隠し持っていた四角い布をルドルフへ差し出した。
「以前おっしゃっていた、刺繍が完成したのです。貰ってくださいますか」
それは、大きく分厚い正方形の麻布に刺繍された、鷹と薔薇の作品だった。オーエンドルフ公爵の紋章である薔薇をモチーフに、大きく羽ばたく鷹の配された、躍動感溢れる作品である。
ルドルフはその完成度に感嘆の溜め息をついた。
「なんと! こんな素晴らしいものを受け取らないなんて、そんな非道なことが出来る人間なんているものか。理由や経緯はともあれ、こうして結果的にお互いに幸せを手に入れることが出来たのだと考えれば、些細な行き違いも気になるはずがない。ありがとうアルテイア、とても嬉しいよ 」
「まあ、そんなに単純なように言われてしまったら、どうしようもないわね。でも、本当にそうかもしれない。わたしったら、難しく考え過ぎていたのね」
自分の為だけの刺繍を得て満面の笑みを浮かべるルドルフを前に、アルテイアは微笑んだ。
こうして結婚まで人よりも少しだけ苦労を重ねた二人は、諦念の末に遂に見つけたこの小さな幸せを大事に抱え、静かに寄り添って残りの余生を過ごしたのだった。




