あらためて、自己紹介を
イリーナはアロマ・リズと名乗った少年を見て、「あ」と間抜けな声を漏らす。その声をきき、眉間に皺を寄せたヴァンが、躊躇うことなく大きなため息を吐き出した。
「まさか、職員室で話を聞いていなかったとはな…」
「挨拶はしたのよ、そのあと行くの忘れちゃって」
悪びれることなく手をふるイリーナに、「まったく…」とヴァンは呟きながら部屋を見渡した。
あらかた片付いた教室だったが、まだ机が横倒しになっている場所がある。ヴァンは更に眉間の皺を刻んだ。イリーナのことだ、きっと魔術で何かしたに違いない…きっかけはなんであれ、まさか初日からこんな状態にするとは…。頭を抱えたくなった。
ヴァンからの痛すぎる視線を浴びながら、イリーナはこれといって言い訳を並べることもなく、平然とアロマを教室の中へ誘導する。アロマはヴァンに軽く会釈をしてから、イリーナの横に立った。メリプールたち三人は、新たな来訪者を興味津々な目で見ていて、立ったまま動かないでいる。そんなメリプールたち三人を座らせてから、イリーナは自分の名前の横にアロマの名前を書いていく。
「それじゃあ、改めて自己紹介するわね。わたしの名前はイリーナ・フォルワント。今日からあなたたち専任の教師になりました。あんまり面倒なことは起こさないでもらえると助かるわ、よろしくね」
セフィールは舌打ち、クリスはそんなセフィールを見て苦笑して、メリプールは目を輝かせながら「はい!」と返事をする。ヴァンは扉に寄りかかりながら腕を組み、それが教師の自己紹介か、と突っ込みたくて仕方なかった。しかしそんなヴァンの気配に気づきながらもイリーナはそれを無視して、アロマの肩に手を置いた。もう一度お願い、と目配せをする。
「…アロマ・リズです。十六歳、です。…宜しくお願いします」
ぺこりと腰を折って、アロマは挨拶する。そしてそれに答えるように、メリプールが椅子から立ち上がった。
「僕も自己紹介するよ!僕の名前はメリプール・ハーニィ、十八歳。筆記より実技の授業が好きかなあ。得意なのは木属性の魔術だよ、どうぞよろしくね」
にこにこと屈託なく笑うメリプールの自己紹介を受け、アロマは小さく頷き、イリーナも一言「よろしく」と返す。そして視線だけセフィールに投げると、口パクで「次はあなたよ」と伝える。セフィールは片眉をつり上げたが、ヴァンも居る手前、抗うことなく口を開いた。
「…セフィール・ティオレッド。歳は十五。火属性の魔術が得意だ。よろしく」
淡々と並べた言葉には、感情が乗っていない。しかしアロマもイリーナも気分を悪くすることはなく、情報だけを頭に入れていた。そして、ゆっくりと椅子から腰を上げて微笑むクリスが口を開いた。
「クリス・ブランと申します。十九歳だから、この中では年長者かな?得意な属性は光です。困ったことがあればいつでも聞いてくださいね」
いちばん優等生らしい自己紹介だった。イリーナはクリスの常識人らしさにうっすら感動を覚えながら数度頷く。アロマも小声で「お願いします」と言っていた。
イリーナは扉のところで立っているヴァンを見て、「ヴァンはいいの?」と問う。一斉に集まる視線に、ヴァンは寄りかかった扉から背中を離した。
「ヴァン・イフリートだ。転入生以外はすでに知っているとは思うが、主に実技訓練を教えている」
「え、ヴァンってそんなことやってたの?知らなかったわ…」
「お前は人の話を聞かないからだろうが!…それと、マカラム様の補佐も勿論あるがな」
「へぇ…ってことは、ヴァン先生ってことか。……ヴァン先生。…っふふ、せんせい……先生って、あは、あははは!!」
ヴァンを指さしながら笑い出すイリーナを、メリプールたちは目を丸くして見ていた。あのヴァンを指さして笑っている…どれだけ恐ろしいことをしているんだ、という目だった。アロマだけはヴァンもイリーナも初めてみる人物だったために、ヴァンがどれだけの存在であるか知らなかったため、メリプールたちの思いを知る事は無かった。
「笑いすぎだぞイリーナ!お前も今日からそう呼ばれるのだ、人のことを笑っている場合ではないだろうがっ」
「ごめんごめん…ああ~お腹いたい~~、やっぱり慣れない言葉がくっつくとだめね…笑っちゃうわ、おかしくて」
相変わらず肩をふるわせ笑っているイリーナに、額に筋を浮かべながらイリーナを説教するヴァン。そんな二人を交互に見ながら、アロマは首を傾げた。
「あの、お二人は恋人同士なんですか?」
「え?」
「な…っ」
突然振られた質問に、イリーナもヴァンも言い合うことをやめてアロマを見つめる。なんでそんな質問をされているのかさっぱり理解できていないイリーナと、少なくとも周囲にそういうふうに捉えられてしまったということに気づき始めたヴァンの表情はかなり対照的であった。何と答えれば納得するだろうか、とヴァンが悩みつつも何も言えずにいる間、メリプールは真剣な目つきに変わり、セフィールとクリスは驚きで口を開けていた。
しかしイリーナといえば、答えに詰まることなく、はっきりとアロマの問いを否定した。
「違うわよ。わたしとヴァン…先生は、まあ腐れ縁って関係かしら」
「腐れ縁…ですか」
アロマが復唱した所で、ヴァンははっと我に返ってイリーナに乗じた。
「そ、そうだ、そういうものだ。第一、こんな奴にそんな感情を抱くなど…」
噛みそうになりながらも、ヴァンは一切そんな関係ではないと、主に固まっているセフィールたちに向かって伝える。その言葉にようやく落ち着きを取り戻したセフィールとクリスが、それもそうか…と頷いた。
ヴァン・イフリートと言えばこの学園内で知らない者はいない程の上級魔術使いだ。実技訓練ではどんな生徒だろうが容赦ない鍛えられ方をされるため、影では「紅蓮鬼のヴァン」などと呼ばれている。そんなヴァンだからこそ、こういった手の話は殆ど聞いたことがなかった。一部女子生徒の中には、遠くから熱っぽい眼差しをヴァンに向ける者もいたが、ヴァンの方にはこれといった浮ついた噂すらもなく、まあ見た目や指導内容を見ればそんなものだろうと周囲が勝手に納得していたのだった。
静かにほっと胸をなで下ろしたセフィールは、ヴァンを同じ火の使い手としてヴァンを尊敬していたからこそ、もしイリーナとそういう関係だったら…と考えた時に理想が崩れそうだったし、クリスはヴァンに畏怖を抱いていたため、イリーナの身を案じたのだった。
メリプールは、ヴァンの言動やイリーナの態度を見比べながら、とりあえずは信じてもよさそうか、と寄った眉根をほぐした。アロマの聞いたことは、実はメリプールも気になっていた所だったため、一応の結論が出たことに少しの安堵を覚えたのだ。
今朝この教室へ来る前にあった事を、なぞるように思い出す。目が覚めて見えたイリーナの顔と、やわらかに問いかけられた声…アクシデントとはいえ、密着するような形でイリーナに触れたこと。くすぐったくて甘やかなにおい…そこまで思い返した時に、体の内側が熱を帯びていくのが容易に知れて、メリプールは首を横に振って、映像や感触を追い出した。
メリプールの動きに疑問符を浮かべたイリーナだったが、ずっと立ちっぱなしもなんだしと、アロマをメリプールの隣に着席させる。イリーナから見て右からクリス、セフィール、メリプール、アロマの順に並んだ席順。それを、備忘録として日誌の最下部にある枠へ書き込んだ。人の顔と名前を一致させるのに時間がかる…これで明日うっかり忘れても大丈夫だろう、とイリーナはひとり頷いた。
「…はあ、本当に大丈夫なんだろうな……」
イリーナの恋人などというものではない、という説明やらいろいろ重なって、ヴァンはまだ授業もしていないのに疲労を感じていた。なんの達成感もない疲労に、半ば帰りたい気持ちになっている。
そんなヴァンの疲れなど知る気もないイリーナは、そうね、と腕を組んだ。
「まあ、なるようになるんじゃない?先のことはよく分からないけど、一応最後までやるつもりよ」
心配そうに眉を下げているクリス、目を合わせようとしないセフィール、きらきらとした眼差しで見つめるメリプール、何を考えているか分からないアロマ…それぞれの生徒たちを一通り眺めて、イリーナは目を細め 笑った。
「王子だからって、遠慮するつもりはないけど ね」