そして、出会う
ルシアーノ国立魔術学園、正門。
昨日、マカラムとヴァンを見送った後、イリーナはさっそく荷造りに取りかかった。とはいっても、彼女の部屋でまとめる荷物はそう多くはなく、鞄に詰め込まれたものはほとんどが書物や何を書いたか本人以外にはきっと分からないであろう紙の束。たいしたバリエーションもない衣服を何着かと下着、適当な装飾品程度だった。整頓して詰めた訳ではないため、留め具がなかなか締まらず苦労した。
太陽の日差しを手で避けて、イリーナは人の何倍も背丈のある門を塞ぐ柵を見上げる。黒い鉄でできたそれは鈍く光を反射していて、この場に不似合いな者を一切入門させないとでもいうような圧力があった。しかしイリーナはそんな柵などただの草つるで出来たものであるかのように、指先ひとつで開けてしまう。地面を削るような重々しい音が周りに立ち上がり、イリーナは顔をしかめた。
「まったく、メンテナンスも出来てないのかしら、お金ならあるでしょうに」
完全に開かれた柵の間を通り、イリーナは学園の校舎に通じる一本道を歩き始めた。
イリーナが門を過ぎ、のんびり校舎に向かって歩いている頃。
職員室では緊急会議のため、職員全員が集結し、膝をつき合わせて何事かを相談していた。
「ついに、あの女がやってくるのか…」
「ああ、マカラム様がどうやら説得してしまったようだからな…もう逃げられない」
「あのヴァン・イフリートと肩を並べるほどなのだろう?どれほどの力を持っているんだ…」
「…それもあるが、受け持つクラスがあのクラスだろう?本当に大丈夫なんだろうか…」
「生徒達の命が危険にさらされないよう、我々は見守るしか出来ないな…」
朝の健やかな太陽光はガラス窓を抜けて職員室を照らしていたが、しかしその場に満ちる空気は明らかに淀んでいる。教師らの話題は、これからこの学校で教師となるイリーナ・フォルワントについてだった。マカラムからおおよその話は聞いているが、実際のところ姿を見たことがある人間はいない。
数少ない情報として持っているのは、癖のつよいくるくるした肩までの長さの髪で、その色は樹木の栄養が流れているような茶褐色。ぱちりとした瞳は夜を映した暗黒色で、怒りに燃えると紅赤に変わるという。幼い頃にマカラムが目を付けて育ててきただけあって、魔力も相当なものらしい。使えない魔術具は存在せず、そのへんに落ちている小さなペンすらも、彼女に持たせると凶器の鎌になってしまうとか…。
どこまでが噂でどこまでが本当かは、残念なことにこの職員室にいる人間の誰もが知る由はなかったが、ただ言えるのは、得体の知れない強い女がやってくる、ということだった。
具体的な対策を練ろうにもマカラムの愛弟子である。この学園を取り仕切る重要人物であるマカラムの評価を落とすわけにもいかず、まずは状況を観察するしかなさそうだ、と一度結論が出たところで、日誌を胸に抱くひとりの教師が、ぐっと唇を引き結ぶ。皆さん、と瞳を光らせて教師たちを見渡した。
「とにかく我々は、生徒に危害が加えられないことを祈りましょう。なに、我らほどの術者がいるのです、きっと何もない…はずですが、万一ということはあり得ます。その時は…」
言いかけた刹那、職員室の出入り口がスライドされる。驚き振り向く教師陣は固まって、目を見開いた。
「どーもおはよーございまーす。今日からお世話になるイリーナ・フォルワントでーす。どうぞよろしくお願いしまーす」
緊張感のカケラもない声が職員室にこだまする。見渡す教師陣から返答がない事にイリーナは首を傾げつつも、それじゃ、と手を振って出ていこうとした。そんな中なんとか覚醒した教師のひとりが、「どこへ行く」と慌てて尋ねると、イリーナは持っていた荷物に視線を落とした。
「とりあえず荷物だけ置いてこようかと。わたしの居住部屋ってひとつ隣の棟でしたよね?」
間違いではないので教師はこくりと頷くと、イリーナを引き留めることもできないまま彼女の背中を見送った。伸ばし掛けた手が中途半端に宙に浮いている。
「…なんというか」
「…思った以上に、幼い顔立ち、だったな…」
それぞれが頷いたり短い言葉で返すことで同意し、イリーナの立っていた場所を眺めているのだった。
職員室で感じた妙な雰囲気に気づきながらも、イリーナは素知らぬ顔で歩いていた。ややくすんだオフホワイトの石で出来た廊下は、イリーナが一歩進むたび高らかに声を上げている。かつん、かつん、かつん。そんなに踵の高い靴でもなかったが、けっこう響くものなんだな、とイリーナは思う。
(まあ、何を話していたのかはだいたい想像がつく所だけど…)
自分のことをあまり口外しないで欲しいとマカラムやヴァンに言っていたのは、他でも無い、イリーナ自身だった。知らない所で詮索されるのも、名前がひとりで歩いてしまうこともあまり気分がいいものではない。左胸をさすりながら、イリーナは小さく息を吐いた。
(魅力的に思えたあの条件も、こうやっていざ現場にくると、帰りたくなってくるわね)
好奇の目に晒されたくなくて、あの場所で一人過ごしていたのに。
らしくもなくセンチメンタルに浸りそうな所で、ふっと思い出す。教師になると宣言したあの日、マカラムから提示された条件。大好きなはちみつを好きなとき好きなだけ食べ放題…それくらいのご褒美が貰えるならば、やっぱりこのまま頑張らないとだめか…思いつつ、たっぷりのはちみつを頬張る想像するだけでも、よだれが出てしまった。いけないいけないと、イリーナはごしごしと手首でそれを拭う。
また一歩踏み出す、楽しそうにくるりとカールする髪が軽快に揺れる。少しの間目を伏せて、イリーナふるりと首を振った。
「ま、なんとかなるか。さっさと終わらせちゃおうっと」
それからしばらく歩いた頃。ちょうどイリーナの過ごす部屋の前まであと僅か数メートルといった場所で、壁にもたれかかって座りこんでいる誰かを見つけた。訝しげに目を細めたイリーナは、足音をあまり立てないようにそろりとその誰かに近づいていく。
荷物が詰め込まれた鞄を脇に下ろして、イリーナは腰を落として膝をついた。肌にじかに触れた石は冷たく、少しだけイリーナの肌を粟立たせる。
うずくまる人物は、煙のような灰色を閉じ込めた髪をもった、おそらく男子らしい誰かだった。もしかして眠っているだけかもしれないし、と思い、イリーナは最初は小さく声を掛ける。
「もしもーし、聞こえますか?」
「……」
反応がない。しかし耳を澄ませてみるも寝息も聞こえない。寝たふり…というのも違う気がする。逡巡したあと、今度は先程よりも少し大きな声で問いかける。
「もしもーし?ねえ、聞こえてる?」
「……」
もしかしてすでに死んでいるのだろうか、と思ったイリーナは、数度肩を揺する。するとその男子らしき人物はぐらりと傾いて、イリーナに覆い被さってきた。
―――スローモーションにかかったような、感覚だった。
倒れ込んでくるたった数秒のあいだに、イリーナの瞳に映ったのは、非の打ち所がないほど整った顔立ちを持った人物だったのだ。いまは閉じられた瞳も、量も長さも申し分ないほどの睫で縁取られていて、薄い唇は儚い桜をのせたような淡い色。ゆがみなく通った鼻筋、真珠から造られたような透明度の高い白い肌…まさに「美人」とはこういう容姿を差すのだろう…ごくりと、イリーナは思わず息を呑んだ。
見とれそうになった隙にも、なんとかついた片腕で相手を支えようとしたが、その重量に耐えられずイリーナと美人は廊下にべしゃりと倒れ込んでしまう。色気もなにもないうめき声をひとつあげて、イリーナは立ち上がろうと腕に力を入れた。
その時、だった。
ぐぐぐううぅ…ぐきゅきゅううう~~……
イリーナ自身の肌にも伝わってきた音に、思わず言葉を失うと、倒れた美人はやっと一言、言葉を発した。
「…………おなか…すいた……」