教師、誕生
その日、辺境の地の奥に潜む小屋で、イリーナ・フォルワントはいつも通りの朝を迎えるはずだった。ぼさぼさの髪に櫛は通さず、床に落ちていたガウンをさっと肩から掛ける。起きた後のベッドには整えられることのないシーツやタオルケットがそのまま放置され、キッチンに行けば昨日の夕食後、片付けられることのなかった食器たちが諦めたように水を張られた桶に浸されていた。
そう、なにもかもいつも通りの光景だった。悪魔の手が叩くノックの音がするまでは。
朝食を摂るため、イリーナはカゴに積まれていたりんごをひとつとり、ナイフを器用に操って皮を剥く。たまには少女らしくしてみようとウサギの形になるように切っていき、耳がぴんとはねたりんごウサギが出来上がると、満足そうにそれを口に運んだ。透明なグラスに水を注ぎ、小指の先程の大きさをもった角砂糖を溶かす。朝だけのお楽しみ、砂糖水。イリーナはこの水を一口飲む時に、自分の前世はきっとミツバチかアリだったのだろうと推測している。
りんごだけでは空腹は満たされないため、棚に置いてあったパンを皿に載せた。お気に入りのはちみつを瓶からスプーン一杯だけすくって、とろりと掛ける。鼻をかすめる甘ったるい匂いに目を閉じながら、いただきます、と大きな口を開けた時だった。
こん、こん、こん。
キッチンから数歩でたどり着いてしまう玄関扉から、やや間をおきながら三回、ノックの音。
「誰かしら、こんな朝っぱらから…」
目の前のごちそうを一度皿に戻して、イリーナは玄関に向かう。そして立ったまま、神経を集中させて―――扉を開けず、キッチンに戻ろうと踵を返した。
そんなイリーナの挙動をまるで見通していたかのように、無遠慮に凶暴に、扉は開かれてしまった。
「こンの…イリーナ! どうしてお前はいつもいつも、一度で来訪者を迎えないのだ!?」
「うわー出たよ、森のくまさんだ」
「誰が森の熊かああッ!!」
騒がしいなあと眉間に皺を寄せて、イリーナは来訪者に対して歓迎の様子をまったく見せようとしなかった。それよりむしろ、早く帰れといわんばかりに手を払って「しっしっ」なんてやっている。それを受けた来訪者―――ヴァン・イフリートは、真っ黒なブーツが響かせる音を気にも留めず、ばさりとマントを踊らせて、玄関の方にまっすぐ腕を伸ばした。
「我らの師である、マカラム様がいらっしゃったのだぞ!」
ヴァンの伸びた腕の先、ひょっこり顔を出したのは、蒲萄畑で染め上げたような紫色をしたフード付きローブで全身を覆った老人だった。フードの下に隠れていた真っ白な眉毛、幾重にも刻まれた皺と、イリーナに向けられた悪戯の成功した子どものような顔に、イリーナはくすくす笑った。
「あらほんと。やだもう、じぃじってば気配消してたでしょー?」
「ほっほっほ、すまんなぁイリーナ。ちょっとお茶目したかったんじゃ」
ぱちん、と出来ているのかどうか怪しいウィンクを飛ばされ、イリーナもお返しにと片目を瞑った。
「うふふ、いいわよじぃじなら。イリーナ許しちゃうから」
「猫なで声で言うな、気色悪い」
ヴァンに一蹴され、イリーナは唇を尖らせながら二人を部屋の中央…普段ほとんど使わない椅子とテーブルのある場所…に案内する。造作なく積み重ねられた本や紙を纏めて一旦床に置き、まだ食器棚に奇跡的に残っていたグラスをふたつ取り出して、水で溶けるローズティーを作った。男二人に出すような内容ではないと勿論分かっているが仕方ない、残っている茶がそれしかなかったのだ。
ヴァンが腰に差した剣をテーブルに立てかける。握り部分に一筋の銀色に輝く線と、親指大の真っ赤なルビーがはめ込まれているそれは、ヴァンが正当なイフリートの守護を受け継いでいる証だった。イリーナは横目でそれを見たあと、すぐに視線をマカラムに投げる。
「…それで?二人揃ってこんな所まで赴いてくるなんて、一体なんの用?」
「白々しいな…俺とマカラム様がこうして何度も足を運んでいるというのに」
躊躇うことなく舌打ちするヴァンに、マカラムは朗らかに笑っている。
「ってことはまたあの件できたの?もういい加減諦めなさいよー、何度来ても結果は変わらないわ」
「だから、それを考えて欲しいと言っているんだろうが」
苛立ちを拡散させようとでもしているのか、ヴァンは指先で机を叩いている。しかしイリーナはそんなヴァンのあからさまな苛立ちもさらりと流すように、マカラムに向き直った。
「じぃじ、…いえ、師匠。あなたの頼みであったとしても、わたしはもうこの小屋を出ることはないわ。もう決めたことで、変わらないことなの。…分かって欲しい」
イリーナは長い睫に雨の粒をつけたように瞳を濡らしながら、マカラムを見つめた。唇からこぼれでる声は、ため息の温度も乗せている。手を組み、まるで神に許しを乞うかのようなその仕草は、彼女を初めて見た人物であれば、きっと庇護欲を駆られるのだろうが…
「ほっほ、相変わらずイリーナは演技が上手いのぉ」
細い目をさらに細めたこの老人、マカラムには通用しなかった。
「ワシが見込んだ通りじゃ、女優の線もなかなかイケると思うんじゃがな…」
「えぇ~、でも収入不安定なのは困っちゃうしなぁ」
「何を言うか、今でも安定という訳ではなかろうに」
イリーナとマカラムが小づきあいながら冗談を言い合っていると、勢いよくテーブルが叩かれ、座っていたヴァンが見事な速度で立ち上がっていた。
ぎらり、イリーナを見下ろすと、額に手を当てながら大げさにため息をつく。
「マカラム様!あんまりこいつを甘やかしてはなりません!!…それとイリーナ、その体勢と衣服をなんとかしないか!」
言われ、イリーナは自分の格好を見直す。肩に羽織っただけのガウンは今は椅子の背もたれに垂れていて、その下は下着が見え隠れするような薄いシフォンのワンピースだった。可愛らしい紐リボンが、豊かな胸の前で揺れている。椅子にあぐらをかいた状態で座っていたイリーナだったが、どうやらヴァンからはいろいろ気になるものが見えてしまったらしい。
「べっつにいいじゃない、こんなの初めて見る訳じゃないんだし、減らないし」
「目に見えないものが減るわ!…というか、なんで俺の方が気を遣わねばならんのだ、いい加減自分の性を自覚しないか!」
「そんな大げさな…ねえ、じぃじ~」
「そうじゃなあ、イリーナ。ヴァンも昔はイリーナとよく風呂に…」
「マカラム様おやめください!!」
朱に染まる顔を隠せないまま、ヴァンはぶんぶん頭を振った。本当に毎度のことながらこんなにくどくどうるさいお説教を続けていて、ヴァンはよく疲れないなあ、とイリーナは暢気に茶をすすった。甘やかで酸味も伴う味と香りに、ふうと一息つく。
「まあ話は逸れちゃったけど…とにかく、何度来ても同じ。わたしは行かない。…教師だなんて、柄じゃ無いわ」
音を立てずにグラスを置いて、イリーナはきっぱりと言い放つ。反論は認めない、と言わんばかりの態度に、ヴァンは再度腰を下ろして、しかし、と食い下がる。
「他に適任者がいないのだ。頼めるのはイリーナだけで…」
「世界の隅々まで探し回ってその台詞を吐いてるの?そんな訳ないわよね、他なんて探す気ないものね?わたしは嫌よ、そんな面倒なことに巻き込まれるの」
頑なに首を振ろうとしないイリーナに、ヴァンは怒りも冷め切って、どうしたらよいものかと思案する。しかし決定打になるような事柄も言い回しも思い浮かばず、視線をさまよわせてマカラムを頼る。それはこうしてイリーナの家に尋ねる度に起こる何度目かの光景だった。ヴァンはイリーナに最終的には強引に押しつけるという選択をせず、マカラムに委ねていた。
イリーナに持ちかけている話…それは、ルシアーノ国立魔術学園で教師となること。
しかもただの教師ではなく、とある一部の生徒にのみ指導を行うといった専任教師である。
給与面や福利厚生等々、待遇や条件はイリーナの希望を最大限に聞く。勿論休暇だってとれる。学園のある地に住めば商人だって店だって溢れているし生活に不自由はない。教師という仕事を請け負ってくれさえすれば利益などいくらでもあるのに…というのがヴァンの思いだった。
これまでずっとひとりで研究に没頭していたイリーナを、急に人の多い場所に連れて行くのは少々気が引けたが、今回の案はなにしろ師であり恩人であるマカラムのものだった。大切な師の願いだ、なんとかして叶えたい…しかし事はそう簡単にまとまらなかった。
今でも覚えている、イリーナが小屋に籠もり始めてしばらく経った頃、マカラムから一通の手紙を預けられたヴァンは、意気揚々とイリーナのもとを尋ねた。我らが師の願いである、と前置きして出した手紙は開けられることもなく灰になって消えた。このあと舌戦が繰り広げられたが、イリーナの方が先に飽きてしまい、戦いは未消化で終わった。
その次もその次の時も、どんなにヴァンが説得し頼み込んだところでイリーナは決して首を縦に振らなかった。あるときはイチゴジャムを混ぜたソーダ水をずるずる飲みながら読書を始められ、あるときはシャワー浴びるからと言い出して突然脱ぎ始めた為に撤退を余儀なくされたこともある。彼女の答えはいつも決まっていた。
「何度頼んでも無駄よ。じぃじのお願いでも、よっぽどのメリットがないと無理」
頭を押さえて師のもとに戻れば、そうだろうなあ、なんて良いながら髭を撫でている。それがいつもの流れだった。
だからきっと今日も肯首は得られないだろう、今回も無駄足だったか…そう肩を落としそうになった時、マカラムは困ったようにたくわえた髭を撫でた。
「そうかそうか…ううむ、惜しいことじゃが、仕方ない。ここまで頼まれつづけて、断るのも辛かろうて」
「じぃじ…分かってくれたのね」
「ああもちろんだとも。…ただ、新しく入学してきた生徒が、ワシの気に入りのはちみつを作る養蜂場を取り仕切る一家の子息で、彼に頼めばいつでも好きなだけはちみつ食べ放題なんじゃがな…もちろんイリーナもその恩恵を受けられるのじゃが……いやはや、残念なことこの上ないのう…それではこの話はやはりなかったことに…」
マカラムがそう言いかけた時、被せるようにイリーナが叫んだ。
「イリーナ・フォルワント、新米教師、頑張りまっす!」
―――すがすがしいほどの即答だった。
ヴァンがあんぐりと口を開けているあいだに、イリーナとマカラムは学園においての規則やスケジュール、持ち込み可能な機材や部屋の間取りなど、あらゆる話を展開していった。わなわな震えながら二人の会話を聞いていたヴァンが、やっと言葉を発したのはマカラムが最後の一滴まで茶をすすってからだった。
「…そんな、そんな単純な理由で首を振るのか、お前は……」
「じぃじの好きなはちみつは、つまりわたしの命の源だからねぇ」
こちらも茶を飲みきって、晴れやかな笑顔を見せるイリーナ。げんなりしたヴァンをなぐさめるようにイリーナは肩を叩いてやり、マカラムに微笑む。
「それじゃあ、明日の朝、学園に向かえばいいのね?」
「ああ、待っておるぞ。まずははちみつ樽でお祝いじゃな」
「もう、じぃじってば!でも楽しみにしてる」
頭痛がしてくるヴァンをよそに、イリーナとマカラムは花を舞い散らすようにそれは楽しそうに手を取り合っていた。