ラッキーデーの残滓Ⅱ
「ねえ。真相を話す前に聞かせて。どんな噂になってるの?」
自分の知らないところで話のネタになっていることなど、想像もしていなかった。苦い出来事は消してしまいたいところだったのに。
「そうねえ。わたしが聞いたところでは、第一会議室に遅れてやってきた女性新入社員が、髪を振り乱して血を滴らせながら、血だらけで部屋に入ってきて、それを見た女性社員があまりの恐怖に気を失ったとか。それから会議室がパニック状態になったって、会議どころじゃなくなったとか?」
沙羅が楽しげに話してくれた。
大袈裟な感が無きにしも非ずだけど大筋では合ってる。煽り文句が凄かったから、どんなデマが飛んでるかと心配してたけど。
「教えてくれてありがと」
「どういたしまして。で、真相はどうなのよ?」
やっぱり、聞きたいわけね。沙羅の瞳が興味津々にキラキラしてる。
「分かったわよ。話すから」
「うん、うん」
沙羅は身を乗り出すように聞いている。なんか、こんなところもかわいいんだよね。無邪気な表情がまた魅力的。仕事では才色兼備なしっかり者の彼女しか見ないから、こんな一面もあるなんて思いもしなかったけど。プライベートでは普通のかわいい女性って感じ。
美人過ぎるから男性社員達も声をかけにくいらしい。こういう人を高嶺の花っていうんだろうな。ホント、綺麗だもんね。
「ちょっと、何、ぼけっとしてんの? 話はどうしたの。真相を話してくれるんでしょう?」
「ごめん。そうそう」
ぼけっとって……わたし、今沙羅に見惚れてたんだけど? よほど間抜けに見えたんだろうか。それはそれで、落ち込むな。まっ、いいか。
「あの日は朝一の会議があって、会社に来るまですっかり忘れてて、急いで会議室に向かっていたら、ちょっと人とぶつかって、その拍子にピアスが取れちゃって、でも、急いでいたし、怪我してたことなんて全然気づかなくて、会議室に着いたときには会議が始まる寸前で、先輩達が資料を配ってたんだよね」
わたしはそこまで言って一息ついた。
「それから?」
「全員揃ってて、一斉に注目よ。恥ずかしいとか思って、静かに入ろうとしたら、まさか、耳から出血してるなんて思わないじゃない? 一番近くにいた先輩が突然、ぎゃあとかって凄い悲鳴をあげちゃて、ホントに気を失っちゃって倒れるし。すぐに医務室に運ばれたんだけど。男性社員の中にも具合悪くなったやつもいたりして、大騒ぎになるし、もちろん会議どころじゃないし。わたしは何が何だかわからなくて、きょろきょろしてたら、みんながわたしを見てるじゃない? 何だろうって思ってたら」
「それで、それで」
「一人の先輩にどこか怪我してるんじゃないの? 服すごいことになってるわよって言われて見てみたら、スーツに血が点々とついていて」
「うあ。それって見様によっては、どんな事件に巻き込まれたのって、もしくは何をやらかしたの? って感じよね」
沙羅はその場面を想像したのか、とんでもないことを言い出した。
いやいや、わたしは事件に巻き込まれてもいないし、何もしてないし、ただ怪我をしたなんだけど? さっき、彼女はわたしが聞いたところって言ってたけど、他にとんでもない噂が広まっていたら? いやだー。想像したくなーい。
とにかくここで打ち消しておかなきゃ。
「沙羅。変な想像はしないでね。ほら、見て?」
証拠に真っ白いガーゼに包まれた耳を見せた。傷口は縫うほどまではなかったけれど、思っていたよりひどかった。それにまだ痛みは完全には消えていなくて、思い出したように時々痛む。当分病院通いだし。
「ホントね。痛々しい」
沙羅が心配そうにわたしの耳を覗き込んだ。
あの後、わたしも医務室に行ったんだけど、通路を見てびっくりした。床って白っぽいから汚れって目立つんだよね。所々血がついていたってことは、言わない方が賢明だよね。髪が血を吸って滴って走ってきた勢いで、服にも通路にも飛び散ったというのが真相なんだろうけど、もしかして、これも噂の要因の一つだったりして。
今、思い返しても最悪の一日だよね。憂鬱になってきた。また落ち込みそう。
「とにかくわかったから、元気出して?」
わたしの大仰なため息を聞いて肩を抱いて慰めてくれた。彼女の優しい笑顔は癒しよね。怪我が落ち着いたら飲みに誘おうかな。
「きゃー」
突然、どこからか女子社員の黄色い悲鳴が聞こえた。
「御曹司のお出まし?」
沙羅が声に素早く反応した。立ち上がると通路へと小走りに走っていく。
はやっ。わたしも呆れながら彼女の後に続いた。
通路側は吹き抜けになっていて階下の様子がよくわかる。
見ると、例の御曹司が外回りから帰ってきたのか、ロビーへと姿を現したところだった。立ち止まって男性社員達と話をしているみたいだった。
「かっこいいわね」
沙羅は手すりからのりださんばかりに見惚れてうっとりとしている。
「そう?」
「そうよ。あの、クールな感じがいいのよね。何にも動じませんって、ポーカーフェイスがたまらないのよ」
だめだわ。沙羅の目がハートマークになってる。沙羅って御曹司が好きなのよね。
あんな無表情の男より、喜怒哀楽がはっきりしている人の方がいいけどね。
わたしは未だ興奮の冷めやらぬ下を眺めた。その時、話が終わったのか男性社員が彼から離れていった。それから何を思ったのか御曹司が通路の方を見上げた。ジッと、見つめた視線の先は……
えっ! 目が合った? まさかね。ここは五階で、距離もあるし。まさかね。顔だってはっきりわかるわけじゃないし。それはそこ何秒か、御曹司はエレベーターへと消えた。
「ねえ。今こっちを見なかった?」
沙羅が喜々とした表情でわたしを揺さぶった。その言葉にああ、やっぱりこっちを見たんだ。勘違いではなかったのかもしれない。だからといって、沙羅もいるし、わたしを見たわけでもないだろうし……自意識過剰だよね。
「さあ? わたしには分からなかったけど」
「そう。こっちを見たんだと思ったんだけどね。わたしの勘違いか」
残念そうに呟く沙羅。見るだけで幸せ。こっちを見てくれただけで幸せって。高嶺の花は更に高嶺の花に恋してる。
「さて、そろそろ帰らないと」
わたしの言葉に沙羅も思い出したように時計を見た。
「わたしも、買い物を頼まれていたのよ」
「大丈夫なの?」
「余裕を持って出てきてるから、でもそれにも限界はあるものね」
わたし達はまたねっと手を軽く上げてそれぞれ歩き出した。
「あっ、そうだ。一つ聞いてもいい?」
沙羅が振り向いて思い出したように声をかけた。
「何?」
「誰にぶつかったの? 男性?」
唐突に何を聞くのかと思ったら、そこ大事なところ? わたしは首を傾げたけど、
「男性だったけど、さあ? 顔はよく見なかったから、わからない」
こういう場合、御曹司なんて言ったら、まずい気がする。
「そうなんだ」
なぜかがっかりする沙羅。
「意味が分かんないんだけど?」
「だって、男性とぶつかってなんて、もしかしたら、恋が生まれるチャンスかもしれないじゃない?」
わくわくと何かを期待をするような沙羅の表情。
沙羅ってロマンチスト? あの場面で恋が生まれるなんてあるわけない。第一、わたしの好みじゃないし。それに……
「沙羅、言っとくけど。わたしには彼がいるんだからね。間違ってもそういうことにはならないし、なるつもりもないから」
はっきりというと、そうだったって彼女が軽く舌を出した。まったく、もう。沙羅ってば何考えてるんだろ。
「じゃあね」
わたし達は今度こそ別れた。
やっぱり、御曹司のこと言わなくて正解だったかもね。よほどのことでもない限り、接点はないだろうから。
高嶺の花は高嶺の花のままで。
早く、忘れよう。