思わぬ波紋
「やっぱり、血ではないかしら?」
赤い染みを確かめるように見ていた橘部長の声。
そうかもしれない。しかし怪我をしてるわけでもないのに、どこで付いたんだろう?
まさか。ふと握り込んでいた手を広げて、ピアスに目を落した。
よく見てみると、金色の細い針の部分に赤い跡がある。これはもしかして血?
ぶつかった拍子にピアスが取れて、血まで流してしまったということか。傷は大丈夫だろうか。痛みは? たいしたことなければいい。
急いでいたようだったから、焦っていた気持ちもわからないこともないが、そそっかしい人間だ。
「よかったら、染み抜きしますよ」
橘部長の声が聞こえた。
「染み抜きですか?」
「はい。時間が経つと血は落しにくくなりますから。それに、染み抜き剤も持っていますから」
さすが。気配りが行き届いている。
「ありがとうございます。クリーニングに出しますから、お気遣いなく」
いくらなんでもそこまで世話をかけるわけにはいかない。
「そうですか」
橘部長はそれ以上無理強いすることはなく、あっさりと引いてくれた。助かった。ごり押しされても困るだけだ。私は彼女の去ったところをもう一度見つめた。人騒がせな女。
「どうかしましたか?」
「いえ。ただ、不躾な女性だったなと思って」
私の言葉に橘部長も同じ方に目を向けた。
「そう思われるのでしたら、白河課長、あなたのそばで躾け直されたらどうです?」
今、何を言われたんだろう?
「えっ、それはどういう……」
言葉が続かなかった。躾け直す? はあ? 私は目をこれでもかってくらい、目を見開いて彼女を見た。それはどういう意味なんだろう?
「ですから、不躾だと思われたのでしょう? だったらあなたが教育してあげたらいいと思いますよ。役職は違いますが同じ新人同士ですし、教えられるばかりより教える立場にも立てば、また気持ちも違うでしょう」
どういう発想をすればそんな言葉が出てくるのか。訳が分からない。言葉の意味をどうとればいいのか。どんな真意で言ったのか、彼女の表情を探るように見てみたが、何も見いだせない。
顏にも目にも不思議なくらい、感情が見えない穏やかな表情しかなかった。見習いたいぐらいの完璧さだった。
断る理由を探した。
「部署が違いますから」
たぶん、これが一番適切な理由だろう。
教育と言っても私は営業課、彼女は経理課、業務内容が全然違う。それに、一度配属が決まったものを変えるというのも難しいだろう。人事異動は終わっている。
「それでしたら、彼女を営業に回せば済むことですから。すぐにでもできますよ。あなたが望みさえすれば、わたしの権限でどうとでもなります」
平然と、まるで私利私欲で権力を使うことなど、当たり前のような言葉に
目を剥いた。そこまでして彼女が欲しいわけではない。
何がこの人を焚き付けたんだろうか。言っていることがめちゃくちゃだ。
「それはどうかと思いますが、人事異動は慎重にしなくては、周りが混乱するだけでしょう」
人事部を統括しているからこそ、一番言ってはいけない言葉だろう。
「そうですね。それもありますね。けれど相手は新入社員ですから、どこの部署が合ってるかなんて、すぐすぐにわかるわけではありませんので、あの子も経理課にいますが、案外、営業が合うかもしれませんよ」
「……」
一理ある。そう認めてしまった時点で負けている。反論できない。
時期外れの人事異動も彼女なら、皆を納得させ何の違和感もなく成立させるのだろう。
それにしても、私の些細な一言が、人事異動にまで発展するとは思いもしなかった。私は一体何をしたんだろう? どこがいけなかったのだろうか? 恐ろしい。彼女の前ではもっと慎重に言葉を選ばなくては。
彼女の真意はわからないが、今の立場では色々抱え込むだけの余裕はない。仕事を覚えるだけで精いっぱいだ。教えられることばかりだが、今はそれでいいと思っている。
だから、教わりながら人にも教えるという芸当は出来そうにない。ましてや、相手が女性なら、なおさらだ。
厄介なものだと、わかっているものを引き受けることは出来ない。
「お言葉はわかりますが、お断りさせていただきます。私にはまだそのような器はありませんので。申し訳ありません」
頭を下げると、
「そう、残念ですね。いいアイディアだと思ったのですけど」
大袈裟なくらい肩を落とされてしまった。
そこまでがっかりすることだろうか。こういう時はちゃんと表情が出る。状況を見ながら変えているのだろうか、それとも私が試されているのか、或いは両方か。
これも無理強いされることはなかったのでホッとしたのだが、結局ピアスは持ったまま部署へと戻った。
しかし、捨てるにも捨てられず、迷った末に机の引き出しの中にしまった。