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恋の種  作者: きさらぎ
萌え出ずる若葉を待ちわびて
1/6

種の元

春花秋月に収録しているものを再掲載しました。

 例えば、それは生まれるはずのない種で、どこを探しても見つかるはずのないものだった。

 例えば、それはほんの些細な偶然がもたらしたもので、見逃してもおかしくはないものだった。

 気づくはずのない種は、知らないうちに深いところまで根を張り、育ち、芽吹く瞬間を待っていた。



「どうですか? 職場には慣れましたか?」


 社員通路を二人で歩きながら、部長が私に聞いてくる。

 橘亜沙子たちばなあさこ。社内では初の女性部長だ。

 昔から知っている顔だが、その態度には、旧知の馴れ馴れしさも媚びるような卑下た浅ましさもなかった。張りつめた糸のような程よい緊張感と清廉なまなざしを持ったこの女性は、社長である父の片腕でもあり、社員からは女帝と言われていた。

 彼女の一言で会社が動くとまで言われ、影響力は絶大だ。


 うちは百貨店経営が主であるが、不動産関係など複数の会社も手掛けているため、父も一つのところに落ち着いているわけにはいかない。

 いずれは私が百貨店を継ぐことになっているが、今年大学院を卒業し会社に入社したばかりだ。

 社長子息とはいえ、ベテランの社員から見れば、世間知らずなお坊ちゃんに過ぎない。当然見る目も厳しい。次期社長としてどれほどの手腕を持っているのか、品定めされている感は拭えない。この中をこれから、上手に渡り合っていかなくてはならない。

 全てが敵とは言わないが、全てが味方ともいえない。中には腰低くしっぽを振りながら、おもねって来る社員も多少はいる、何故か中間管理職の人間に多いが。


「そうですね。少しは」


 話を続けようとしていた時に、


 どんっ。


 突然、猪でも突進してきたかのような、かなりの衝撃を肩のあたりに受けた。

 不意打ちとはいえ、その衝撃で後ろによろけてしまった。ジムで鍛えているはずなのに、男としてちょっと情けなかった。

 と同時に、


「いたーい」


 私の目の前で痛みを訴えるように叫ぶ女性の声が聞こえた。

 見ると、私以上に衝撃があったんだろう、床に手をついて転んでいる彼女の姿があった。


 床に倒れ込んでしまった彼女は、


「いたたたっ」


 転んだ拍子に打ち付けてしまったのか、腰のあたりをさすっていた。声の調子ではひどくはなさそうだったが、彼女のそばでは手提げバックから書類やファイルが飛び出していた。


 なぜ、ぶつかってしまったのか。


 社員通路はわりと広い。大の大人が四、五人はゆうに歩ける広さだ。私と橘部長は右の端を歩いていて、通路の半分はあいていたはずだった。それに私の姿を見た社員は、必ずと言っていいほど通路の端に寄り会釈をして通っていく。それなのに、避けるどころかぶつかってくるとは。


 話をしながら歩いていたとはいえ、彼女の存在には全く気づかなかった。かなりの勢いで走ってきたのかもしれない。どんな理由にせよ、ぶつかるとは考えにくい。どこに目をつけていたんだろう。


「大丈夫? 芳村よしむらさん」 


 呆れて彼女を見ていた私の横から、橘部長が心配そうに声をかける。

 やっと、上半身を起こした彼女が私達を見上げた。


「あっ。橘部長」

 

 驚いたように声をあげた彼女は、


「すみません」


 ぺこりと頭を下げて、急いで起き上がろうとした。


「大丈夫か?」


 私は彼女の目の前に手を差し出した。突進というに相応しいぶつかり方だったから、もしも怪我をしていたら大変だ。 

 どこからか降ってわいた声のように聞こえたのか、彼女はびっくりしたように私の手をじっと見つめ、それから顔を見た。

 見開いた茶色の瞳が私を捉える。ほんのり上気した頬。きゅっと引き結んだ唇。艶やかに輝く長い髪。ピンク系のパンツスーツ姿。店内の制服姿でないところを見ると内勤者なのだろう。


「はい、すみません。もしかして、ぶつかってしまいましたか?」


 ぶつかった時の体の感触を思えば、橘部長でないことはわかったのだろう。 

 

「ああ、私の方は大丈夫だ。君は?」


「わたしも大丈夫です」


 私の言葉にほっとしたのか、微かに笑みを浮かべて一人ですくっと立ち上がった。


 思いもしなかった彼女の行動に目が点になってしまった。

 ここは恥じらいながらでも手を取るところだろう。それなのにあっさりと私を拒むとは。

 差し出した右手は宙に浮いたまま。

 どうすればいいのか。自分がものすごい間抜けに見える。

 仕方なく手を下げ、こぶしを握りしめる。


 彼女の体を心配して手を差し伸べてあげたのに。私の手はしっかりと彼女の視界に入ったはずなのに、見事に無視されてしまった。好意を無下にされてしまった時ほど、虚しいものはない。この気持ちをどこに持っていけばいいのか。さらにこぶしに力が入る。


 一人で元気に立ち上がった彼女は洋服の埃を軽く払い、書類などをバッグにおさめると、はっとしたように腕時計に目を向けた。


「あっ! 時間。遅刻する」


 焦った声をあげ、急いで走り出そうとした。


「芳村さん、通路は走らないのよ」 


 橘部長の中学生並みの注意に足を止め、振り返ると、


「すみませーん。会議に遅れそうなんです。今日だけ見逃してくださーい」


 ありふれた言い訳を悪びれず大きな声で言ったかと思うと、踵を返して言葉通り走り去ってしまった。

 


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