第三章 十字路のミストストーム ‐mist storm in the crossroad‐ ・3-1
前回より随分と間が開いてしまい申し訳ありません(汗
誤字脱字など教えていただけると助かります。
※後書きで用語説明
3-1
椿と姫の二人が階段を駆け下りようとすると、ふと階段下の廊下に白い影が現れた。
椿がその正体を認識するよりも早く、目の前の白い影は二人に向かって激しく猛りたった。
「――犬!? なんでこんな所に犬がいんのよ!?」
姫がヒステリックに苛立ちの声を上げている間に足元の犬は二匹に増えて、更に「こっちにも居るぞ」の声と共に幾つかの足音が近づいてくる。
「静かに戻って」
と、椿。
「でもまどか先輩と乙葉ちゃんはどうするの!?」
「まどか先輩がいるから心配ない」
「確かにそうね。わかった」
姫は赤ん坊を抱いたまま静かに階段を上がっていく。それに続くようにして椿が二頭の犬から一時も目を離さずに姫の後に続いた。
二頭の白い犬は激しい鳴き声に反して椿たちに襲い掛かるようなことはなく、階段の踊り場でぐるぐると回りながら吠え続けているだけだ。二頭とも同じ犬種のようで白い短毛に覆われていて、腰高の胴体は細く足はすらりと長い。特徴的なのは細長い顔から左右に垂れ下がっている両耳で、その部分だけが長毛で覆われている為にまるでツインテールをしているように見える。
椿はその特徴的な外見に見覚えがあった。
幼い時に夜な夜な兄とベッドの上で頭から毛布を被って二人だけで過ごした日々。脆くて壊れやすくそれでも美しさに満ちていた二人だけの小さな世界。椿という人格の奥底にしっかりと沈殿している大切でかけがえのない記憶の数々。その時に見た動物図鑑の中に載っていたのをはっきりと覚えている。
名はサルーキ。オオカミから枝分かれした最初の犬種の一つと言われ、中東の砂漠で数千年もの間人類と共に歩んできた狩猟犬だ。しかも砂漠やサバンナを時速七十キロで走るガゼルの脚力をも上回り、現存する狩猟犬の中でもっとも俊敏と言われている脚を持つ狩猟犬。
それがこのサルーキだ。
サルーキは相変わらず階段前の廊下で吠え続けている。ということはこの二頭は「標的を狩る」ことが役目ではなく、索敵が与えられた役割なのかもしれない。
「二階の防火扉を閉めてどこかの教室に身を隠して」
椿が猟犬たちから目を離さずに姫に呼びかける。姫は何か言おうとしたが言葉を呑み込むと「あんたの事だから心配はしないわよ!」と、足早に階段を駆け上がっていき防火扉を閉めた。
それとほぼ同時に一階には数人の人影が現れた。皆黒ずくめでヘルメットやゴーグルを装着している。しかも手には全員ボウガンを持っている。ただの暴漢の類いとは思わない方が良さそうだ。
椿は即座に踵を返すと階段を駆け上がった。
猟犬二頭に加えて全員が飛び道具を持った相手となると個々に対処した方が確実だ。階段の壁には闇夜を切り裂いて、次々とボウガンの矢が鈍い音と共に当たって床に散らばっていく。
「――おい、今の女だったろ!?」
「待て待て、撃つなストップストップ!」
と、男たちの喚き声が響き渡る。そして「ラン・アフター!ゴーゴーッ!」の掛け声が聞こえたかと思うと、サルーキの爪の音と激しい息遣いが猛然と階段を駆け上がってくる。
椿は二階、三階と階段を駆け上がっていき四階まで一気に上がると、目の前の教室へと飛び込んだ。
滑りやすいリノリウムの床はサルーキのスピードを殺すことに役立ち、運動靴を履き妹の力で身体能力が増している椿との距離を縮めることを許しくれなかった。
サルーキとの距離を二メートル以上保ったまま、椿は教室を駆け抜けて窓際へと突進していく。
そして走りながら傍らの椅子を掴んで前方に投げつけて窓ガラスを叩き割ると、そのまま窓枠を飛び越えてベランダへ着地すると、一気に手すりを駆け上り大きく垂直に飛び上がった。勢い余ったサルーキは手摺りに激突しながらも、戦意は一向に衰えることなく激しく吠えながらその場で跳躍を繰り返している。
闇夜に浮かび上がった椿は空中で身体を反転させて校舎側を振り向くと、落下と同時に手摺りに両手を掛けて落下スピードを殺して、そのまま体操選手のように華麗な動作で三階、二階とベランダ伝いに階を降りていく。
そして二階のベランダに音もなく着地すると、窓の下で息を殺して身を屈めていた姫と偶然鉢合わせしてしまい、
「た、たった今上にあがって行ったばかりじゃないのよ! なのになんで突然上から降ってくるのよ!」
と、ひどく驚かせてしまう。
そんな姫の驚きように反して彼女の腕の中の赤ん坊は、突然現れた椿の姿にご機嫌のようで両手を振り回してきゃっきゃっと喜んでいる。
「猟犬を四階まで引き連れていった。今のうちに下の集団を各個撃破する」
椿はいつもの調子でそれだけを淡々と説明すると、一旦教室の中へ入ってカーテンを引きちぎると、それをロープ代わりとして手摺りに縛り付けた。
「向こうには猟犬が二頭。ここに隠れていてもいつかは見つかるから、もしもの時はこれで」
「わ、わかった」
そう姫が頷くのを確認すると、椿は今しがた自分で縛ったカーテンには目もくれずに軽々と手摺りを飛び越えて、三メートルほど下の地面へ音もなく着地した。
着地と同時に椿は校舎の外壁に沿って先ほどの渡り廊下を目指した。
闇夜と霧に紛れて音もなく俊敏に移動する様は、獲物を狙う猛禽類そのものだった。
そして渡り廊下から校舎へ侵入すると一気に階段を駆け上がっていく。
階段の踊り場でボウガンを構えて上の階の様子を伺っていた三人の男たちは背後から急接近してきた椿の存在に気付くことなく、最初の一人は延髄を、続く二人は鳩尾をそれぞれサバイバルナイフの柄尻を電光石火で叩き込まれて足元から崩れ落ちた。
敢えて気絶させる方法を選んだのは、妹の力を手に入れて進化系ゾンビと死闘を繰り広げた今の椿でも、やはり生身の人間の生命を奪うことには抵抗があったからだった。
たとえこの素性の知れない男たちがモラルを失い狂気と暴力の快楽に溺れてしまった人間だとしてもだ。
椿が足元の男たちが手にしているクロスボウを奪って次々と空撃ちしてリム(弓)を破損させていると、上の階からサルーキが階段を駆け下りてくる音が聞こえてきたので残りの一丁と予備の矢を数本鷲掴みにして立ち上がった。
すると先ほど四階へ引き連れていった二頭のサルーキが激しい息遣いとともに戻ってきたので、先頭のサルーキの姿が見えた瞬間に椿は躊躇することなく引き金を引いた。クロスボウの矢は先頭のサルーキの細い胴体に突き刺さり、その芸術的なまでに美しい肢体は短い鳴き声とともに床に崩れ落ちた。
そして二頭目がそれを飛び越えて襲い掛かってくるが、椿は階段の手摺りを蹴って飛び上がると空中で身体を反転させてサルーキを交わし、その瞬間に手にしていた予備の矢をサルーキの脇腹に叩き込む。
二頭のサルーキは床の上で横になりながらも牙を剥いて見せていたが、椿はクロスボウに矢を装填しながら少し距離を置いて片膝をつくと、じっと無言でサルーキを凝視した。
獰猛性は備えているもののそれは猟犬として持って生まれた本質であり、またよく訓練されている。このように飼い主に従順ということはこのサルーキは紛れもなく「まだ生きている」状態だと考えられる。
そしてこの黒ずくめの武装した飼い主たちがこの終末世界でサルーキたちを利用しているのは今の状況が示すように人間を対象とした狩り(ハンティング)の目的もある筈だが、もう一つ犬の優れた嗅覚を利用した自衛にも活用していると考えるのが筋だ。
ただそこで一つの疑問が椿の小さな胸の内に浮かび上がる。
当然サルーキたちは視界の悪い霧のなかでもゾンビの接近を正確に伝えてくれるだろう。しかしサルーキを単なるセンサー代わりとしてだけ利用すると考えるよりも、ゾンビの接近に気付くと同時に攻撃を仕掛けるよう命令を下していると考えたほうがいろいろと合点がいく。
では今目の前に倒れたまま自分に牙を剥いているサルーキはどこか異常だろうか?
いや。決してゾンビ化が進行して凶暴化していると言った素振りは見受けられない。あくまで普通の猟犬としての獰猛さにしか見えない。
椿の脳裏にさくら寮で不良たちと演じた死闘の記憶が甦る。
進化したゾンビに噛まれた不良たちは目の前で瞬く間に同じようにゾンビと化した。しかも進化した度合いをそのまま引き継ぐという驚愕の事実とともに。
そのような経緯もあって生活環境壊滅的超広域視程障害と呼ばれる謎の霧の中にはゾンビ化を促すウイルス――ウイルスというのもあくまで推測に過ぎないが――が含まれていて、一度それを体内へ取り込んでしまったならば病死だろうが、事故死だろうが自然死だろうがゾンビ化してしまい、一方でゾンビ化した者から攻撃を受けた時には経口感染によっても感染(もしくは既に体内に存在するゾンビ化因子が活性化)するというのが椿たちの認識だった。
しかし目の前で臥せっているこれまで飼い主を守るために何度もゾンビに噛み付いたであろうサルーキは、明らかにゾンビ化の気配など微塵もなく生きている。
それではこの地球規模の異変は人間と言う種のみに起きた限定的なものなのだろうか。
――結局、私たちはまだこの終末世界について何もわかっていないんだ……
椿は胃がきりきりと痛むような不安と重圧を噛み締めていると、階段の下の方から更にサルーキの鳴き声と人の足音が聞こえてきたので音も無くその場を離れると、姫が隠れている二階のベランダへと向かった。
椿が音もなく教室の窓を飛び越えてきたので姫はまたしても驚きの声を上げそうになっていたが、悲鳴は何とか喉の奥に押し留めることが出来たようだ。
「――あ、あ、あんたはもう少し普通に登場しなさいってば! いつか私はショック死しちゃうわよ!」
そう姫は文句を言ってみたものの、そんな悠長なことを言っている場合でないことは階下から聞こえてくる男の怒声と犬たちの鳴き声でいやでもわかる。
飼い主らしい男性の声は犬たちの名前を呼びながら泣き叫び、怒りを周囲の物へ当たり散らかしていて、その様子から相当に怒り心頭になっていることが窺えた。
そして「ブロークンアローだ。ブロークンアローだと伝えろ」とまくし立てている。
「殺したの……?」
「動けなくしただけ」
「まあ自業自得ってやつね。でもいったい犬は何匹いるっての。あの鳴き声耳障りだわ、ねえ赤ちゃん」
と、姫は自分の鼻を赤ん坊の鼻にこすり付けてご機嫌をとる。幸いなことに赤ん坊は愚図る気配がなく機嫌はいいようだ。
「とにかく今の暗号みたいなので増援が来ても厄介だから、今のうちにまどか先輩たちと合流してここから離れましょ」
「そうね。異議無し」
そう言って二人は立ち上がると、声がする方とは反対側の階段へと向かった。
※用語補足
今回久しぶりに生活環境壊滅的超広域視程障害-スーパーディストラクションデスモッグという用語が出てきましたが、このデスモッグというのはデス+スモッグということで脱字ではありません
火山の噴煙被害を表す際にヴォルケーノ+スモッグでヴォッグという用語が海外で使用されていると知って参考にしました。
ほんとは本文中で説明する筈でしたが忘れていましたw