眠りの森の魔術師殿
フィーは足音を忍ばせ、そうっと草を踏んだ。小さな体をより一層縮めて、こわごわと覗き込むのは仰向けに横たわる大男。
おそらくフィーの三倍、いや、五倍くらいにはなるかもしれない巨体からは、ゴオオ、ゴオオ、と凄まじいイビキの音が絶えず聞こえていた。あまりの勢いに、フィーの蜂蜜色の長い髪がふわふわとそよぐほどだ。
――さっさとなさいよ、怖がりのフィー。
――そうよそうよ、姉様の言いつけを守れなかった罰なんだから、早くおし!
くすくすと、忍び笑いを交えて届けられるのは囁き声。近いようで遠い、不思議な距離から声だけで伝えられる命令は、『森の乙女』ウィリたちからのものである。
結婚をせずに亡くなった、娘たちの妖精。その最も下っ端であるフィーは、潤んだ薄紫の瞳で、近づくも恐ろしい大男――魔術師ヒラリオンを見下ろす。眠りは深く、目を覚ます気配はなかった。こうなれば、一刻も早く済ませて帰りたい。嗚咽を必死で堪えながら、フィーは一気に顔を近づけた。
眠るヒラリオンの、唯一あらわになっている顔。といっても、黒い大きな帽子を載せているせいで、下半分しか見えていないそこへと。
まさに勇気を振り絞って、頬にしようとした口づけはなんと、ヒラリオンが突然寝返りを打ったことでその場所を大幅に変えてしまったのだ。
「……っ!!」
これ以上は無理、というぐらいまで溜まっていた涙の玉は、フィーの声なき絶叫を吸い取り、朝露のようにころりと流れ落ちた。
*
思えば生前も、ツキというものには見放された人生だった。だからこそ未婚の――いや、十二という幼い身空で天に召され、こうしてウィリとなっていつまでも森をさ迷うはめになっているのだ。といっても、普段は仲間と歌ったり踊ったり、楽しんで暮らせている。そう、昨日のようなことがなければ。
(昨日の……)
どんよりと深い沼に沈み込んでいく錯覚を覚え、俯いた時だった。
「あーら、怖がりのフィー。こんなところで何をやってるの?」
「そうそう、ぼんやりしちゃって。そんなことでは、また失敗しちゃうわよ? みそっかすのフィー」
薄く小ぶりな羽をひらひらとはためかせながら、少女たちが優雅に近づいてくる。もちろんウィリだ。昨日、彼女たちより先輩格のウィリに言いつけられた用事を忘れたことを、フィーに頼んだのにと押し付けた二人組だった。
自由気まま、やりたいことをやって暮らす。仲間よりも自分を愛するウィリとしての性質を、わかりやすく有する二人は笑った。
「今日こそ、ミール草の綿毛を取ってくるんでしょう?」
「そうそう、昨日のお詫びに、シャリカも積んで大きな花束をこしらえてくるのよ? ミルタ様に差し上げるんだから」
よりによって、取ってくるのが困難な場所に生えているものばかりを選んで、言いつける。体のいい嫌がらせに気づいていながらも、フィーには頷くことしかできなかった。
「はい、お姉様方――仰せの通りに」
怖がりでみそっかすのフィーの決まり文句。いつもの答えを口にして、フィーは駆け出した。眠りの森の、奥深くへと――。
『そして王子様はお姫様に口づけをし、幸せな結婚をしましたとさ』
ウィリとなり、女王ミルタに今の名を頂き、過去の全てを忘れたフィー。それでも時折、記憶の断片を思い出す時がある。
昔、こんな絵物語が大好きだったこと。そんな未来を夢見ていたこと。幼い自分の、淡い憧れ――。
「初めて口づけを交わした人と、永遠に結ばれる……はずだったのに」
しょんぼり呟いて、唇を噛みしめる。
(泣いちゃだめ。日暮れまでに言うとおり戻って来なかったら、今度は何をさせられるか)
自分がやってもないことで、与えられた罰。怖いもの知らずのウィリたちでさえ恐れ慄く森の魔術師、ヒラリオン。あの巨体と不気味な風貌、それに謎だらけの生活から、彼に近づこうとする者はいない。そんなヒラリオンに、寝ている時とはいえ『口づけをしてくること』だなんて。
(お姉様たちの意地悪……ひどいわ)
せかせかと草を踏み、枝や木の根を避けてフィーは歩く。背中に申し訳程度にくっついている羽は、フィーにはまだうまく使いこなせないのだ。
ともすれば昨日の衝撃を思い起こしてしまう頭をぶんぶん振って、フィーは先を急いだ。
不幸中の幸い、とでもいうべきか。あの時、叫ぶことすらできなかったのがフィーにとってはよかったのかもしれない。
(起きなかったのだもの。きっと、あの恐ろしい魔術師は知らないはず)
自分の恐怖も驚愕も、この悲哀すらも知りはしない。ならば、もう二度と失敗を繰り返さないようにすればいいのだ。姉様たちに怒られないように、頑張ればいい。そう思うことでフィーは必死に気持ちを切り替え、前方を見やった。
人間たちがアークランドと呼ぶこの地方、緑豊かな森の国には、彼らすら足を踏み入れない深い深い特別な森がある。それはただ、あまりに広大すぎて迷ってしまうからだとか、ウィリを始めとする妖精やその他の悪戯者に引っ張り込まれ、帰って来れなくなるからだとかいう色々な伝承と相まって、いつの頃からかこう呼ばれるようになった。
木々すら眠る、『眠りの森』。実直で、信心深い素朴なアークランドの人々に守られて、ここは不思議と謎に満ち溢れた聖地であり続けているのだ。
「えっと、『嘆きの丘』がここだから……『千里の樹』のとこを右に曲がって――ひゃあああっ!」
ウィリたちが用いる呼び名で、頭の中の地図と比較していたフィーは、振り向いたところで思いきり叫んだ。叫ぶしかなかった。
「ま、ま、ま……ヒッ、ヒッ、ヒッ……!」
魔術師のヒラリオン。まさに彼でしかあり得ない巨体が、ぬぼっと背後に突っ立っていたのだ。まぶしい太陽の光さえも遮られるほど長身の、黒一色の帽子やマントで顔の下半分以外全てを覆い隠した人物を見とめて、フィーはその名すらまともに呼べず、尻餅を付いてしまう。薄緑色の愛らしいエプロンドレスが汚れることなど、もちろん頭に浮かばなかった。
どうして。なぜここに。
フィーが言葉を失ったのも無理はないだろう。まだ陽光明るい日中に彼が眠らず、こうして姿を見せたことなど今まで皆無だったのだから。
闇の親友、ヒラリオン。そんな別名は決して褒め称えるためのものではない。闇しか親友を持たない――そういう意味なのだ。昼中、眠りの森の奥深くにある彼の山小屋付近で眠って過ごし、夜の帳が下りてからようやく動き始める。怪しげな呪術を施しているのだとか、魔物と取引しているのだとか、ウィリの仲間たちは悪し様に言っていた。
(も、もうだめ……私、食べられてしまうのだわ!)
起きているヒラリオンと出会った者、特に清い乙女揃いのウィリは彼の魔術のため、生贄にされるのだとか、生き胆を食われてしまうのだとか。恐ろしげな噂の数々が頭をかすめ、フィーは震える瞼をぎゅうっと閉じた。今ばかりは、例え『怖がりのフィー』でなくとも震え上がったことだろう。
(ウィリとなってまで死んでしまうなんて、本当に惨めな私――!)
やはり、どんなに罵られようと罰を受け入れるのではなかったのだ。弱すぎる自分の心と昨日の行動をまたも責めていたフィーは、いつまで待っても何も起こらないことでおそるおそる目を開けた。
「ひっ」
やっぱりヒラリオンは目の前に立っている。帽子を目深に被っているから表情も目つきもわからないけれど、何か物言いたげに見えなくもないような――。
「あ、あ、あの……ご、ご、ご、ごめんなさい、私……っ」
無礼とも取れる行動をせめて詫びてみるべく、必死で口を開いた。が、涙の滲んだフィーの顔も言葉も気にしない様子で、ヒラリオンが先に発言したのである。
「……ミール」
「――は、はい?」
ぼそっと、低く呟かれた声音は聞き取り辛く、フィーは首を傾げる。しばしの沈黙があってから、再びヒラリオンが言った。
「ミール……綿毛、シャリカ……花束」
聞き覚えのある単語の羅列は、確かに自分が探しに来たはずのものを示していて。
「も、もしかして……知っていたんです、か?」
ウィリたちの悪戯。からかい半分の罰。そして、フィーの行動と今日の顛末。
どれに対するものか限定しないまま、ヒラリオンは小さく頷く。
(そんな……!)
報復に来たのかと息を呑むフィーだったが、対するヒラリオンはと言うと、ただぼんやりと立ち尽くしているだけだった。
「怒って……いないんですか?」
これまた、こっくり頷くヒラリオン。帽子からはみ出たもじゃもじゃの黒髪も、鼻の下のひげも、薄汚れた黒尽くめの格好も、得体の知れない雰囲気を変わらず醸し出してはいる。けれど、なぜだか皆が噂するほど恐ろしい人物には見えないような気がした。
「ミール、シャリカ、あっち」
訥々とした、どこか幼い印象を与える喋り方で、ヒラリオンがフィーの左側を指差した。
「あっち……? あ、でも、えっと、姉様たちはこっちに咲いてるって……」
「あっち。ミール、シャリカ、たくさん」
ビュウビュウと、時折誰かが泣いているような風の音がするここ、『嘆きの丘』からまだまだ先の、『救いの崖』。思わず救いを求めたくなるほどの断崖絶壁に程近い場所を目指していたフィーは、大きな瞳をぱちくりさせる。もしかしてヒラリオンは、もっと良い場所を知っているのだろうか。月夜に森を徘徊しているという噂の彼ならば、そうであってもおかしくないのでは。
「……あっち」
もう一度指差してから、まだ迷っているフィーにくるりと背を向け、まるで先導するかのようにゆっくり歩き出した。そんなヒラリオンを瞳をまん丸にして見つめていたフィーは、おずおずと問いかける。
「も、もしかして……案内、してくれるんですか?」
小さな小さな声に、それでもヒラリオンは立ち止まった。顔は前方を向いたままで、首を縦に振る。
(まさか――そんな、闇の親友ヒラリオンが!)
驚きだけに支配されていた心に、徐々に、水が染みこむように違う感情が生まれていく。当惑、困惑、一抹の疑惑。最後のそれがようやく消えたのは、遠慮気味に距離を取り、後を付いていった先でのことだった。
「うわあ……!」
一面の、黄金色の綿毛が揺れる光景。しかもそのそばには、純白の香り高い花々があつらえたかのように咲き誇っている。
(ミールが、あんなに……これほど大きなシャリカの花も見たことないわ!)
澄んだ空気と心地良い風。眠りの森のどこにでも存在する二つとは別に、純粋な力の素ともいうべきか――不思議で優しい森の現象全てを司る、『気』が集まっていないところには咲かない両者が、フィーの視界を埋め尽くしているのだ。感動するなというほうが無理だった。
「ありがとう……ありがとう魔術師さん!」
喜びのままに頭を下げる。と、かっちり固まって動かなかったヒラリオンの唇が、かすかに緩んだように見えた。
(もしかして、笑ってる?)
かなり遅れて気づいた変化は、フィーから怯えも不安も少しずつ取り除いていく。
「おやおや、ご無沙汰のお客かと思ったら――随分と珍しい相手に会えたもんだ。新月のヒラリオンが昼のさなかに歩き回っているとは、一体どういう風の吹き回しだい?」
面白がるような女の声が、突如風に乗って届いた。振り向いたところにきらきらと光を反射する、深い青の湖水を見つけたフィーは、叫びそうになるのを必死で堪えた。
(夜の女王、ワジャーラ……そうだわ、ここは!)
通ったことのない道と方角で、察するべきだった。ヒラリオンとの遭遇と予想外の事態に驚きすぎていたから、正常な判断能力を失ってしまっていた。
ウィリの天敵、乙女嫌いのワジャーラが治めるこの『夜の湖』に来てしまうなんて!
震え上がるばかりの小さなフィーは、今度こそおしまいだと、集めかけていたミールもシャリカも取り落とした。しかしそんなフィーに、またも思いがけぬ展開が待っていた。無表情に突っ立っているばかりに見えたヒラリオンが、まるでかばうように立ちはだかってくれたのだ。
(魔術師さん……?)
「フン、心配しなくたって取って食いやしないよ。元はと言えば、あんたたちウィリが先にケンカをふっかけたんだからね。小生意気にもこのあたしを舐めてかかるから、多少痛い目に合わせてやっただけさ。それを勝手に言いふらして回って、挙句の果てに人を化け物みたいに仕立て上げるんだから」
だからうるさいガキどもは嫌いなのさ。忌々しげに締めくくった女――夜の女王ワジャーラはしかし、噂とはまるで異なる、信じられぬほどの美女だった。
さらさらと背中まで流れる水色の髪と、揺れる湖水のような同色の双眸、それにすらりとした肢体までも、全てが完璧といえるほどに。
「お前――まだ新入りだね? ウィリには珍しい『気』を持ってる。ああ、だからミルタが情けをかけたってわけだ」
くつくつと、長い指を顎に当てて笑うワジャーラ。濡れてはりつく水色の髪の合間から、衣服を身につけない素肌が艶かしかった。
「さて……時は満ち、月もまた同じこと。せいぜい頑張るこったね、新月のヒラリオン」
先と同様の、フィーが初めて聞く呼び名で呼んでみせて、ひらひらと片手を振る。ワジャーラの言葉を無言で聞いていたヒラリオンは、彼女が水の中に姿を消すと同時に、踵を返した。
「あ……っ、ま、待って! 待ってください、魔術師さん!」
あわてて後を追いかける。一応いなくなったとはいえ、ワジャーラの湖に取り残されるのはまだ怖かったのだ。噂よりも、随分と親しみやすい女性に見えはしたけれど。
躓きそうになりながら駆けてくるフィーに、くるりとヒラリオンの巨体が振り返った。その手に、大きな花束を持って。ふわり、と黄金の綿毛の一つが風に揺れ、種子の一部を飛ばした。
高い鈴の音のような、子供の愛らしい笑い声のような、楽しげな音色が生まれる。
ミール――喜び、という名の付けられた理由である現象によりも、その束を摘んでくれたのがヒラリオンだという意外な出来事にこそ、フィーは驚いていた。
差し出される花束からは、甘いお菓子のような独特の芳香が漂う。こちらは、シャリカと呼ばれる白く可憐な花がもたらすものだ。
「……ありがとう、魔術師さん」
長い間、口をあんぐり開けていたフィーがようやく言っても、ヒラリオンは帽子の下からわずかに覗いていた唇を小さく震わせただけだった。それでも、それが彼なりの笑顔であるらしいことが、フィーにはわかっていたのだ。
(怖く、ない……)
驚くべき発見は、花束がもたらす軽やかな音色と良い香りと共に、フィーの胸中に染み渡っていく。
フィーは大きな背中に声をかけた。気づけば、そうしていたのだ。
「あの……魔術師さん!」
呼び止めると、ヒラリオンはのろのろと振り向く。
「お礼を――何か、お礼をさせてくれませんか?」
おずおずと、まだかすかに残る不安を抑えながらフィーが提案する。無愛想な返答が得られたのは、かなり長い間待った後だった。
「……探し物、指輪」
単語だけで言われて、フィーは想像をめぐらせる。
「指輪――探してるんですね? ああ……もしかして、それでいつも月夜に森中歩き回っていたのかしら」
「……太陽、まぶしい……」
(だから昼間は寝ているの?)
首を傾げ、フィーはこの不器用な会話を続けようと努力する。
「あの……ワジャーラが言っていたことは?」
何かが解けるとか、月がどうとか。
しかし、そこまでの説明は無理だったらしい。ヒラリオンは黙り込んだ。その姿が余計に可哀相に思えて、フィーは決意した。
「いいわ。とにかく私、あなたのお手伝いをします。一緒に、その指輪を探しましょう!」
その日から、フィーとヒラリオンの指輪探しが始まった。昼間、起きはするもののやはり眠っていることの多いヒラリオンの小屋に、フィーは訪ねていく。茸や山菜を届けたり、スープやパンを作って食べたり、繕い物をしたり。
とかく甲斐甲斐しく世話を始めたフィーのことを、ウィリたちはとってつけたように様々な噂話の種にした。特にあの日、戻るなり早速言いつけどおり――いや、むしろそれ以上の大きな花束を渡した二人組の反応は、両極端なものだった。
最初は驚き、小さなフィーのそばにぬっと突っ立ったままのヒラリオンに怯え、震えて大騒ぎをして、次にはとってつけたように感謝を述べる。そして偽りの謝意は、次第に見当違いの恨みとねたみに変わった。彼女たちの企みなどお見通しのミルタが、フィーの花束に喜び、直接キスまで送った様子を見たからだった。
「あーら、フィー。今日もお出かけ? 忙しそうねえ」
嫌みったらしい語調でわざと問われ、フィーは素直に頷いた。咄嗟に肩を縮めてしまうところも、以前と何ら変わりない反応である。
それでも二人組は、フィーをあっさり解放してはくれなかった。
「そんなに怖がらなくたって、何にもしやしないわよう。ねえ?」
「そうそう、第一、怖いのはあたしたちだわ」
きょとんとするフィー。無邪気で無垢な存在に追い討ちをかけるように、二人のウィリは笑い合う。
「近寄らないほうがいいわよ。気味の悪い魔術師にあたしたちまで取り込まれちゃうかも」
まったくだわ、とニンマリ頷く少女を見ていたフィーは、まだ続いていた嘲笑のさなか、ぎゅっと両手を握り締めていた。
「……違います!」
ついに、決意したように言い返したフィーの眼差し――確かにそこに宿る怒りの色に、二人組はあきらかに狼狽した。
今までどれほどからかっても、いいようにこき使っても、文句一つ言えず従ってきた『怖がりのフィー』の、初めての反抗だったからだ。
「魔術師さんは、気味が悪くなんかありません。本当は……!」
昼寝中にリスやうさぎが邪魔をしても、這い登っても、されるがままになっている。足元に見つけた名もない雑草の花を、踏みつけないよう避けて歩く。先によそってあげても、必ずフィーが食卓に付くまで食べずに待っている。
(そんな、とっても優しい人なのに――)
明かしたかった真実は、突然彼女たちが悲鳴を上げて飛び去ってしまったことで、フィーの心中だけに留まった。
振り向くと、いつものように無表情の無愛想なヒラリオンがそこにいた。
十を数える日数、そばで過ごしたフィーにとって、もう怖くはない。むしろ、彼を見たフィーの心はほっと和んだ。
「もう夕暮れ? 行きましょう。今夜こそ見つかるといいですね」
にっこりと微笑んで、フィーは歩き出す。昼間に会って、休息を挟んで夜も指輪を探す。それが最近のフィーとヒラリオンの、暗黙の了解のようにもなっていたから、疑うこともしなかった。ところがヒラリオンは、静かに首を横に振ってみせたのだ。
「フィー、悲しい……指輪、いらない」
告げられた言葉の内容をようやく飲み込んだ時には、ヒラリオンはもう背を向けていた。
(そうよ、あの人は――他の誰もがしてくれなかったことを、私のためにしてくれるの)
心配、気遣い、思いやり。『森の乙女』たちからはもらえなかったものを、誰よりも無口でぶっきらぼうなヒラリオンがくれたのだ。
「待って、魔術師さん……ヒラリオン!」
初めて名前を呼んだ、その瞬間だった。
いつのまにか夕闇が訪れ、静かな月明かりが周囲を照らしている。ふと視線を下げたフィーは、自身の手に、信じられないものを見つけた。
「指、輪――?」
広大な森のあちらこちらを、どれほど探しても見つけられなかったもの。それが細く華奢なフィーの薬指にはまっている。まるで、月光をそのまま流し固めたような銀の、不思議な輝きを持つ輪。
一目見ただけで、これこそが『探し物』だとわかった。心が感じた。フィーが喜び勇んで顔を上げた、その時。
「ヒラリオン!?」
ぐらり、と大きな体が傾いだ。立派な古木が倒れるかのように、ヒラリオンは草地に沈む。咄嗟に伸ばしたフィーの両手は、途中で止まった。なぜなら、ヒラリオンの全身から、命の熱が消えていくことが感じられたからだった。
ウィリやその他の妖精とは異なり、魔術師は人外の者とは限らない。つまり――死の後に存在している自分とは違うのだ。
「そ、んな……どうして?」
消え入りそうなフィーの声を合図としたかのように、月明かりまでもが揺らいだ。雲に隠れたのかと思ったフィーは、呆然とした顔を上に向け、そのまま瞳を見開いた。
月が――先ほどまで美しい満月だったものが、どんどん欠けていく。否、白銀の月光が一直線にフィーの指輪へ集まり、注がれているのだ。同時に月は半分に、弓状に、最後は完全に消えうせてしまった。代わりのように、指輪はまぶしいほどの光を放った。
――ほーら、結局こんなことに。
――どうせろくな二人じゃないのだもの。ろくな結果は生まないのだわ。
――でも、拍子抜けだったわね。あの魔術師があっさり死ぬなんて。
姿を隠して見ていたらしいウィリたちの声。それも今のフィーには気にならなかった。いや、気にすることもできなかったのだ。
「なんだ。あるいは、と思ったが……失敗したようだねえ」
「……ワジャーラ……?」
倒れたヒラリオンの前で放心状態になっていたフィーは、突如現れた女王の姿にやっと目線を上げる。
「この男にはね、呪いがかかっていたのさ。いつか、本当の自分を見てくれる娘が現れるまで、決して解けない呪いがねえ」
そう言って、ワジャーラが語り始めた。ある時、禁を破ってこの『眠りの森』の奥深く、聖地にまで入り込んでしまった男の話だった。それだけでも許されない行動だったのに、男は更に先へと進んだ。森の魔女から、秘伝の魔法薬をもらうために。
しかし、結果は失敗で、彼は呪いをかけられた姿のまま森をさ迷うこととなる。唯一の鍵、月の魔力で作られた指輪を探し求めて。なのにヒラリオンは、別の願いを抱いてしまった。だから――!
(自分よりも、私を選んでくれたというの?)
「だめ……だめよそんなの!」
もう一度死んだら、今度こそウィリですらいられなくなる。完全な無に消えてしまう。
それでもいい、とフィーは大粒の涙を流した。たった一人、自分に優しくしてくれたヒラリオンが助かるのならば、と。澄んだ雫はフィーの頬をつたい、ぽたりとヒラリオンの体に落ちた。後から後から流れ続ける涙は、不思議なことに、光を放ち始めたのだ。
「お前の願い、しかと聞き入れましたよ。可愛いフィー、いいえ、月の乙女ラフィーリア」
優しく穏やかな声音が、そう呼んだ。涙に濡れた顔を上げ、振り向く。そこにいたのは、銀色に輝く杖を持った、美しく高貴な至高の存在――ウィリたちの女王、ミルタだった。波打つ淡い白銀の長髪と神秘的な眼差しは、誰をも圧倒する気品を感じさせる。
「姉様」
笑いかけたのは、対照的ともいえる艶やかさを持つワジャーラだった。フィーを含む、ウィリたちでさえ驚いた。
「夜の女王である貴女にはもうわかっていたのでしょう? ワジャーラ、我が妹よ。指輪の力はこの娘の純粋な想いと口づけに従い、呪いは解かれた。さあ、目覚めるのです。闇の友……いいえ、月の乙女を守護する者よ。辛く悲しい過去から解放され、新たな役目に生きるがよい」
ミルタのきらめく杖が触れた途端、倒れていたヒラリオンの体が金銀のまばゆい粉に包まれた。ただただ驚きに目を瞠るフィーの前で起き上がった時、ヒラリオンはもう元の彼ではなかった。
「初めまして、フィー……見事月に選ばれたウィリ、ラフィーリア」
同じ黒尽くめの衣装に長身ではあっても、見上げるような巨体から、あくまで普通の青年の域に入る背丈に変わったヒラリオンは言った。黒い帽子を取り、お辞儀する仕草でさらさらと銀の長髪が流れ落ちる。瞳にも宿る淡い色彩は、彼が生まれ変わったことを示していた。
記憶が、封じ込められていた過去の全てがぽろぽろと剥がれ落ちるように蘇る。ラフィーリア。そう呼ばれていた貧しくも幸せな時代と悲しい死、そして家族たちの嘆きとミルタの慈しみ。遺された者たちの愛と、恨みを知らない清らかな心が、ウィリの中でも一握りしかなることのできない『月の乙女』と変えたのだ。
立ち上がったラフィーリアの目線は、ほんの少し前までと大幅に違っていた。肩の下まであった髪は背中の半ばまで伸び、蜂蜜色から濃い金に。愛らしかったエプロンドレスは裾の長い、輝く白銀のドレスとなって。ウィリとして過ごした年月、止まっていた分の成長が戻ったことを示している。
その名の通り乙女となったラフィーリアに、ヒラリオンはまだどこか不器用な微笑を浮かべた。ひげも消えたその顔がひどく端正で美しいのに、慣れていない様子だった。
魔術師。そんな不名誉な呼称で彼が呼ばれることはもうなく、『怖がり』で『みそっかす』のフィーもここにはいない。新月と闇にのみ愛されていると、皮肉られた呪いも――。
生まれたばかりの想いを重ね合わせるように、二人はそうっとお互いを抱擁した。
月に選ばれ、認められた彼らはさながら、生涯を共に歩む夫婦となったも同じこと。
ウィリの、静かで穏やかな結婚式は、夜と森、双方の女王に祝福され、いつまでも続いた。
二人だけの優しい世界に嫉妬する他のウィリたちを、ミルタは慈愛に満ちたキスで慰めた。
――いつか、全てのウィリが幸せな乙女となれるように。
夜風に舞い上がった幸福の綿毛が、どこかでリンと澄んだ音色を鳴らし、丸い形を取り戻した月へと飛んでいった。
了
読んでくださり、ありがとうございました。
短編小説新人賞に初挑戦し、選外となった作品です。
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