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羊の三題噺。

【三題噺】ひそやかに壊れていくもの。

作者: シュレディンガーの羊





ひそやかに、

けれど確実に壊れてゆくもの。





カーテンが風に揺れている。

少女は緩慢に寝台から体を起こした。

開け放たれた窓の外には濃密な黒と、よく肥えたまあるい満月。

病室を淡く照らすそれに無意識に手を伸ばした拍子に、少女は小さく咳込む。

夜風に触れた肌が微かに震えた。

夜を何より愛しているのに、少女の弱い体はそれを拒む。

まるで皮肉だわ、と少女はぼんやりと思う。

白い病室は心を静めてはくれるが、満たしてくれることは決してない。

薄氷の上を歩くのように次第に蝕まれていく危うい心は、どうすれば満たされるのかそれさえもうわからない。


「……にいさま」


知らず知らずに零れた呟きは、夜闇に溶けて消えていく。




六つ上の優しい兄。

聡明で利発なたった一人の少女の家族。

涼しげな眼差しを眩しそうに細めた笑顔が少女は大好きだった。

兄は器用な手つきで果物の皮を剥いては、少女に沢山の話しをしてくれた。

くるくると長く細く切られていく皮を見つめて、少女はそれだけで楽しかった。




「にい、さま……」


瞬いた瞬間に目の縁から雫が落ちた。

涙が頬を伝うたびに心が空虚になっていく。

白い指先が掛布を握りしめる。

何かが零れ落ちていかないように、きつく。

そうしないと、心がばらばら砕けてしまうと思った。




あの日、テディベアの右目が取れたのだ。

黒いボタンを掌に載せて兄は笑っていた。

明日、付け直してあげるね、と。

少女は頷いた。

当たり前の明日がそこには確かに存在していると思っていた。

ポケットにしまわれた黒いボタン。

手を振り病室から出ていく兄の背中。

今でも鮮明に思い出せる、閉まりゆくドア。

そして、永遠に閉ざされたドア。




「にいさま」


絶望が少女の華奢な腕を掴む。

涙が溢れるたびに彼女の瞳は光をなくしていく。


「私を」


塗り固められた漆黒が少女の声に震える。

月の光がカーテン越しに揺らいだ。


「ひとりにしないで」




姿を消したと、戸惑うように告げられた。

少女にそう告げた親戚も困惑していたようだった。

真面目で優しく妹をいつも見舞っていた少年が突然いなくなったのだから当然だった。

捜索はしているから大丈夫だとだけ言って親戚が帰った後、少女は寝台の脇にある机を見た。

机上にあるのは花が活けられた花瓶に、日記がわりの大学ノート、それと片目のテディベア。

その時、なぜかわからないけれど少女は悟った。

縋るように見上げた窓の外は目が痛くなるぐらいに青くて、昨日と変わらないはずなのにどうしようもなく違った。

兄はもう二度とここへは来ない。

少女は悟った。




月に見つめられたままで、少女はひそやかに壊れていく。

兄を失った昼間はどこまでも空虚で、少女はひとりで夜を愛した。

けれど、それさえ彼女を癒しはしなかった。

記憶の中で果物の皮がくるくるとくるくると、床に落ちては朽ちていく。

兄との思い出が朽ちて、消えていく。

カーテンが風に揺れた。


「――――」


紡がれた言葉はもう誰の耳にも届かない。

少女は曖昧な笑みを浮かべた。

月がいくら美しくとも、もう少女は手を伸ばさない。

硝子玉のような瞳にもう涙は流れない。

もう彼女は彼の呼び名を口にしない。

そんな少女を片目のテディベアだけが見つめていた。




ひそやかに

けれど確実に壊れてゆくもの。

それは少女のこころ。

三題噺として書きました。

ボタン、皮、カーテン。

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