わたくし、まだやれますわ
雨上がりの夕方、アパートの廊下はしっとりと濡れていて、エレナの靴音がやけに大きく響いておりましたわ。
ここに越してきたばかりの頃は、この音すら落ち着かなくて、早足で部屋に逃げ込んでいたというのに。
「ただいま、ですわ……」
返事のない部屋にそう言って、鍵を閉める。
ワンルームの室内は相変わらず狭く、天井も低い。
けれど、不思議と息苦しさはありませんでした。
制服をハンガーに掛け、鞄を床に置く。
机の上には、学校から配られたプリント、バイト先のシフト表、そして几帳面に書き込まれた家計ノート。
「今月の仕送り……十万円」
指でなぞるように数字を確認します。
家賃、光熱費、通信費、食費。
最初の頃は見ただけで頭が痛くなっていた項目も、今では自然と計算できるようになっておりました。
そこに、少しだけ加わるバイト代。
「……黒字、ですわね」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちました。
誇らしいというより、静かな安心。
「やりくりできた」という事実が、確かにエレナを支えておりました。
コンロに火をつけ、特売で買った野菜を洗います。
包丁を握る手は、まだどこかぎこちない。
それでも、以前のように手を止めて溜息をつくことはありませんでした。
「にんじんは……こう、でしたわね」
切り口は不揃い。
けれど、鍋に入れてしまえば分かりませんわ。
ぐつぐつと煮える音を聞きながら、エレナはふと今日の出来事を思い返します。
学校では、提出物の期限をうっかり勘違いしていて、先生に呼び止められました。
以前なら、恥ずかしさで俯いていた場面です。
けれど今日は違いました。
「申し訳ありません。すぐに提出いたしますわ」
そう言って頭を下げた自分を、少しだけ誇らしく思います。
――大家さんの顔が浮かびました。
「困ったら、ちゃんと声に出すんだよ」
――バイト先の山田さんの、少し不器用な笑顔も。
「最初から完璧な人なんていないんだからさ」
助けられている。
それを受け入れることが、ようやく怖くなくなってきたのですわ。
「わたくし、一人暮らしをしているからといって……
本当に一人で生きているわけではありませんのね」
鍋の火を弱め、深く息を吐く。
胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ溶けていく感覚がありました。
強くあらねば。
完璧であらねば。
そう思い込んでいた日々は、確かにエレナを支えていました。
けれど同時に、縛ってもいたのですわ。
食卓に並んだ、質素な夕食。
豪華なフルコースでも、専属の料理人の味でもありません。
それでも。
「……美味しいですわ」
一人で作って、一人で食べる。
その行為自体が、今は確かな手応えでした。
明日は学校。
明後日はバイト。
忙しくて、少し眠くて、それでも回っていく日常。
「大丈夫ですわ」
背筋を伸ばし、エレナは静かに微笑みます。
「失敗しても、助けてもらっても、
わたくしは、ちゃんと前に進んでおりますもの」
狭いワンルームに、夜の気配が満ちていく。
その中心で、エレナは確かに立っていました。
「ええ……」
小さく、けれどはっきりと。
「わたくし、まだやれますわ」




