それは、優雅な朝でしたのに
その朝、九条院エレナは紅茶の香りに包まれて目を覚ましましたわ。
白磁のティーカップ。
磨き上げられた長机。
カーテン越しに差し込む、少しだけ気取った朝日。
いつもと何一つ変わらない、優雅な朝でしたの。
違ったのは、向かいに座る母の表情だけ。
「エレナ」
その一言で、空気が一段階、冷えましたわ。
「あなた、もう十五歳ですわね」
「ええ、そうですわ」
年齢を聞かれて否定する理由などありませんもの。
母は紅茶を一口含み、静かにカップを置きました。
「そろそろ、自立なさいませ」
エレナは瞬きを一つ。
「……ですわ?」
「一人暮らしですわ」
「……は?」
思わず、ですわが抜けましたの。失礼。
「冗談ですわよね?」
「いいえ」
母の声は、あまりにも落ち着いていました。
「あなたには、庶民の生活を学ぶ必要がありますわ」
「庶民……?」
その単語を口にした瞬間、エレナの脳裏にはぼんやりとした映像が浮かびましたわ。
何かこう、ざわざわしていて、値札が付いていて、床が少し冷たい感じの場所。
「ご安心なさい。仕送りは出しますわ」
「それは、ありがたいですわね」
正直に言えば、ここで話は終わったと思いましたわ。
母は一枚の紙を差し出します。
「毎月、十万円ですわ」
エレナは紙を見て、にっこり微笑みましたの。
「まあ。十分ですわね?」
母が一瞬、言葉に詰まりました。
「……そう思いますの?」
「ええ。十万円もありますのに、なぜ困る必要がありますの?」
このときのエレナは、まだ知りませんでしたの。
十万円という数字が、
どれほど軽く、そして重たいものなのかを。
その日の午後。
エレナは、家を出ましたわ。
送迎の車ではなく、電車で。
切符を買うところから、すでに一苦労でしたの。
「ここにお金を入れるんですのね……?」
駅員さんに微妙な顔をされつつも、なんとか乗車。
揺れる車内で、エレナは窓の外を眺めました。
「冒険ですわね」
到着したのは、都心から少し外れた場所。
立派とは言えないけれど、崩れてもいない建物。
その名も
「サンハイツ佐藤」
「……ハイツ、ですの?」
アパートという言葉を、エレナはまだ知りませんでしたわ。
出迎えたのは、少し腰の曲がった男性。
「えーっと……九条院、さん?」
「はい。九条院エレナですわ」
「……あの、ご両親は?」
「いらっしゃいませんわ」
佐藤さんは、一瞬、空を見上げました。
「……そうですか」
こうして、
超お嬢様の一人暮らしは、
あまりにも静かに始まったのでした。




