偽物だと言ったのは、貴方の方ですよ?
私、クラリス・アンカーソンは小さな村で質素な暮らしをしていました。
母と二人暮らし、男手のない生活では大変なことも多かったけれど私にとってはこの幼少の暮らしこそが最も幸せな時間でした。
しかし私の幸福は、母が亡くなると同時に全て失われます。
母が亡くなる時のことは十年と少しが経った今でも、鮮明に覚えています。
私の誕生日プレゼントとして用意してくれていた小さな懐中時計。それを握らせながら母は涙に顔を濡らして、沢山の謝罪と、一つの「愛してる」をくれました。
流行り病によって母が亡くなり、それから程なくして私の父だという人物が現れました。
それがアンカーソン伯爵。
母と大層似た顔立ちをしていた彼のお眼鏡に適ったらしく、私は愛人の子としてアンカーソン伯爵邸に移り住む事となりました。
しかし環境は最悪。義母と義姉はどちらも私を汚らわしい存在として扱いました。
彼女達の中で私の印象が最底辺にあることは仕方のない事だったと思います。
けれど彼女たちの手によって日常的に行われる陰湿ないじめの数々は徐々に、私の心を蝕んでいきました。
この家庭環境を作り上げたアンカーソン伯爵はそんな現状を見て見ぬフリしていた為、家に私の居場所はありませんでした。
そんな私の唯一の心の拠り所となったのは婚約者、バーナード・モットレイという伯爵家の令息です。
年は私の一つ上の十七歳。社交界のパーティーで着飾った私に一目惚れしたという彼は家族に相談して婚約を取り付けてくれたのだそう。
自分の居場所を失った私にとって、私を花のように愛で、私のことを一番に考えてくれるような人物は世界中で彼一人でした。
私が彼に惹かれていくのも時間の問題で、気が付けば私はバーナード様に恋焦がれるようになりました。
例え過酷な環境に身を置いているのだとしても、彼がいてくれるだけで乗り越えられると、本当にそう思っていたのです。
さて。
私は義家族には勿論、バーナード様にすら話していなかった秘密があります。
私には夢見の力と、他者を癒す力がありました。
これをバーナード様にも話せていなかったのは、母との言いつけがあったからです。
私の力は神様から愛された証で、とても特別な物。けれどそれ故に、誰かに知られてしまえば命を狙われるような危険すらあると。
バーナード様を信用していなかった訳ではありません。しかし、大きくなり、伯爵家で教養を積んだ私は、母の忠告は尤もなものであると考えたのです。
今はまだ暮らしを共にしていない婚約者という関係。
しかしいつか、婚姻を結び、彼が私をあの家から連れ出してくれた時――人生で最大の幸せが訪れた時に、彼にだけ打ち明けようと思っていました。
しかしそれは叶いませんでした。
それどころか、私の秘密を知るたった一人の立場を手に入れたのは……義姉であるグレンダでした。
私はある日、庭の隅の木の下で怪我をした子猫を見つけました。
足が折れ、上手く歩けなくなったその子を助けたいと思った私は軽率にも癒しの力を使ってしまい、それを偶然、グレンダが見つけたのです。
グレンダは私の力を利用して高い地位を手に入れる算段をつけました。
彼女は私がアンカーソン伯爵邸へやって来た際、唯一持っていた宝物――母から与えられた懐中時計を奪い取り、私を脅しました。
それから私は、特別な力を持つ存在『聖女』として振る舞う彼女に協力する日々を送ります。
怪我をした騎士や使用人に癒しの力を使うふりをしたり、街へ繰りだして怪我をした方々を見つけては同様のことをしたり。
怪我人へ手を翳すだけのグレンダがあたかも特別な力を持っているかのように見せるべく、私は物陰に身を潜めて、遠くから癒しの力を使っていました。
しかしグレンダはいつまで経っても私の懐中時計を返してはくれませんでした。
そして……その日がやって来ます。
これ以上グレンダの命令を聞き続けてもきっと宝物は返ってこない。
そう判断した私はバーナード様に助けを求めることにしました。
私はバーナード様に真実を打ち明けました。
自分は聖女と呼ばれる人間であり、グレンダに脅されて力を使い続けているのだと。
この時までの私は、ずっと自分を味方してくれていた彼ならば、現状を打破する方法を共に考えてくれるのではないかと彼を信じていました。
……けれど、結果はそうならなかった。
彼は軽蔑の眼差しで私を睨み付けると、私を国へ通報しました。
聖女は世界で一人しかいない、神聖で特別な存在。
それを騙るだけですら大罪に値します。
彼は私の言葉を信じるどころか、私を大罪人と見做しました。
後から知った話なのですが、私が裏切ることを想定したグレンダが先に根回しをしていたようです。
『クラリスは聖女を騙り、真の聖女であるグレンダを罪人に仕立て上げようとしている』という噂は私が知らぬ間に大きく広まっていたようです。
私は知らない間に、その出鱈目な噂を証明するような発言をしてしまったようでした。
この時、聖女の力を使ってみせればよかったのでしょう。
しかし唯一の味方だと思っていた相手から見放された私の絶望は深く、正常な思考は働きませんでした。
私はみっともなくバーナード様に縋りつき、泣きじゃくりながら言葉だけの否定を繰り返す事しかできません。
やがて私は国が管理する牢獄へ閉じ込められることになりました。
***
「その後、謂れのない罪がどんどん重ねられ……その娘は死罪となりました」
「へぇ」
小さな出店が立ち並ぶ噴水広場。
その一角に腰を下ろす青年へ私は話す。
帽子を深く被った、庶民らしい質素な服の青年は、暗く重い空気の話を聞いていたとは思えない程、暢気な相槌を打った。
「それが事実だとすれば、君はもう死んでいる……謂わば幽霊ということだ」
「最近、死罪にされた娘の話など聞きましたか?」
「いいや? 聞いたのは十日程先で一人の娘が首を刎ねられるという事だけだね」
そんな訳がないとわかりながら吐いた冗談だったのだろう。
呆れながら問うた私の言葉に青年は悪戯っぽい笑みを返した。
「まあ俺は聖職者ではないから人の魂など見る事はできないしな。……とはいえ、君の体が透けていて、俺以外の人には見えていないという事も事実だ」
そう話す青年の視線は正面や真横ではなく、頭上――浮遊する私へと向けられていた。
私は小さく溜息を吐く。
「夢見の力は眠っている最中に、望む場所へ魂を飛ばすことが出来ます」
「なるほど。君は今、魂だけの状態という事だね。えーっと、聖女様?」
「……信じていませんよね」
「まさか!」
半笑いになっている青年を私は睨み付ける。
彼は慌てて両手を上げるが、その顔にはやはりにやけ面が刻まれていた。
「まあ、別にいいですけど。今更誰かに信じて貰えたところで何も変わりはしませんから」
「拗ねないでくれよ」
投獄されてからというもの、私は最期の時まで、せめて美しい景色をその瞳に留めておこうと思った。
そこで夢見の力を使って様々な場所を彷徨い歩いていたのだが、そこで彼に呼び止められたのだった。
「そもそも今まで、この状態の時に誰かに気付かれる事なんてなかったのに」
「そうなんだ。運命かな」
「勘弁してください」
「酷いなぁ」
年が近そうだという事もあってか、変に身構えて話す事もなかった。
それに処刑までの間に、自分に嫌悪を見せないような相手と話せる機会があるとも思っていなかった。
正直少し楽しいと思っていたのだ。
だから私は素っ気ない態度を装いながらも彼の会話を切り上げるような事はしなかった。
「まあ冗談はさておき。君の話が事実だとすれば、大問題だね。聖女を殺してしまった国なんて肩書きは最悪だ」
「いい気味よ」
「冷たいねぇ」
「どうせあと一週間で死ぬのだし。私がいなくなった後の世界がどうなろうと、関係ないでしょう」
「随分諦めがいいね。自分の命なのに」
青年はくつくつと喉奥で笑う。
そしてふいに立ち上がると、私の顔を覗き込んだ。
「まだ生きられるとしたら、生きたいと願うかい?」
突然距離を詰められた私は思わず身を退く。
金色の前髪の下、長い睫毛を添えた青の瞳が私を映していた。
「当たり前でしょう」
投獄される前であればこの美しい顔を見て胸を高鳴らせるようなこともあったかもしれない。
だが生憎、あと一週間しかない命でありながら「まだ生きたいか」などという問いは嫌味や皮肉の類としか捉えられない。
私は腹立たしさを覚えながら答えた。
私の返答は勿論相手も呼んでいたのだろう。彼は頷きを一つ返した。
「手伝ってあげようか?」
「庶民の貴方が? 一体何ができるというの」
「俺の趣味は悪戯でね。その為なら何だってできる」
美しい顔を歪めながら、彼は顔に似合わぬ最悪な言葉を吐いていた。
「最高の悪戯を思いついたんだ」
***
一週間後。
両手を縄で括られた私は断頭台に上がった。
剣を持った騎士の隣で跪き、首を垂れる。
離れた場所で断罪の瞬間を見守っている国王が、死刑執行の時を告げた。
顕わになった項の上に剣が持ち上げられる。
――その時だ。
「待て!」
良く通った声が処刑場に響き渡る。
国王や騎士、死刑執行を見守っていた市民らが一斉にそちらを見やった。
煌びやかな衣装に身を包んだ一人の青年が処刑場の真ん中へと躍り出る。
私も少しだけ頭を持ち上げ、視線だけをそちらへ向ける。
金髪に青い瞳を持つ美しい青年。
「お、王太子殿下……!」
誰かがそう叫ぶと同時、場が騒然とする。
「……エルヴィス。何の騒ぎだ」
「父上、恐れながら申し上げます」
青年――エルヴィスは国王へ頭を下げると私へと振り返り、不敵な笑みを浮かべた。
遅い、と私は内心で恨み言を一つ吐く。
「クラリス・アンカーソン――彼女こそ、真の聖女でございます!」
「な……っ」
一同が息を呑む。
数えきれない程の視線が一度私へ集中し……そしてすぐに別の場所へ向けられる。
そこには処刑を見守っていたグレンダ、そして彼女と腕を組んでいるバーナード様……いえ、バーナードがいた。
「ご存じの通り、私は神が生み出した宝剣――聖剣に選ばれた立場。神の寵愛を受けた私はつい先程啓示を受けました」
仰々しく声を張り、自分がいかに優れた存在であるかを話すエルヴィス。
その振る舞いを窺いながら、私は思わず吹き出しそうになった笑いを何とか留めた。
神の声を聞いたなどという話が大嘘である事を、私だけが知っていた。
しかし王太子殿下が聖剣に選ばれた立場のお方であるという事に関しては、誰もが知る事実。
だからこそ彼の言葉を笑い飛ばせる者はいなかった。
「そ、そんな……っ! 私は本物ですわ、王太子殿下! これまでだって沢山の人を救ってきましたの」
「ええ、私もこの目で見ました。そして、彼女が、グレンダの立場に嫉妬して陥れようとしていた事も!」
聖女を騙ったグレンダも、私を処刑へ追い詰めたバーナードも必死で弁明する。
取り乱すその様はとても滑稽だった。
そしてそれを心の中で笑える事実に気付いた時、私はバーナードに抱いていた恋心も未練も完全に消えていた事を悟る。
「ええ。貴女はそう仰ることしかできないでしょう。そしてまた、私が偽りを話している可能性を拭いきれないのも事実」
偽りを話しているのは事実なのだが、とここでも私はいらないツッコミを内心でしてしまう。
「ですからこうしましょう、グレンダ嬢!」
そう言った彼は腰に携えていた剣を抜き、自身の腕を深く切りつける。
周りで悲鳴が上がる中、エルヴィスだけが笑みを浮かべたまま、傷口をグレンダへ向けます。
「どうか貴女のお力で、私の傷を癒していただきたい!」
「ヒ……ッ」
グレンダは引き攣った声を漏らし、一歩後退る。
しかしそれ以上の速度でエルヴィスは彼女へ近づいた。
その様子を見ている国王はというと何かを察したのか、呆れた様に額を抑えて俯いている。
彼の教育は大変そうだと、私はこっそり国王に同情した。
「貴女が癒してくださらないのであれば、私は後ろの彼女に頼むほかなくなってしまいます。本物の聖女であると……義妹が大罪人であると証明する機会は今この瞬間しかありません」
「お、王太子殿下……お、おおおちついて、ください……っ」
グレンダは更に下がろうとするが、生憎、今日の処刑を見に来た者の数は相当なものだ。
後方に並ぶ者達の壁に阻まれ、彼女は逃げ道を失ってしまう。
「ぐ、グレンダ……? 何をしているんだ? ただ力を使うだけでいいんだぞ!?」
何故グレンダが癒しの力を使わないのか。
それが理解できないバーナードは困惑と焦りの入り混じった声を出した。
哀れで愚かな人だ、と私は思った。
「……そうか」
エルヴィスは癒しの力を使う様子を見せないグレンダを冷ややかに見た。
そしてまたまた大袈裟に、肩を落とす。
混乱と絶望が無数に交差するこの空間で、彼だけが喜劇を演じているようであった。
「貴女は使用人や、見知らぬ子供達の擦り傷にすら慈悲を与えてくれるというのに、王太子である私の大怪我は見てくださらないというのですね」
「ち、違います殿下! どうか、お話を――」
「もう良い」
エルヴィスはグレンダの声を遮ると、今度は私へ振り返って歩み出す。
そして断頭台を上がると、処刑を任されていた騎士に少し下がるよう命じる。
彼は私の前に膝を突いた。
「顔を上げよ、クラリス嬢」
静かに頭を持ち上げる。
そんな私の顔を見たエルヴィスは目を丸くすると少し顔を赤らめて苦く笑った。
「ちょっと、こら」
王太子としての彼の振る舞いが初めて出会った時とはまるで違う様子に、私は笑いを堪えきれていなかったのだ。
私の間抜けなにやけ面につられて笑みを深めながら、彼は私にだけ聞こえるように囁いた。
「笑顔はまだ取っておいてくれ」
私は小さく頷くと彼の傷口に触れる。
そして念じた。
私の無罪を証明する為に付けられたこの傷が、一切残らないようにと。
すると淡い光が彼の腕を包み込み――やがて傷は、最初から存在していなかったかのように彼の腕から消えた。
エルヴィスは完治した腕を掲げる。
周囲に再び、どよめきが走った。
「これこそが真実だ! クラリス・アンカーソンは聖女である!」
どよめきは時間を掛けて歓声へと変わる。
「……グレンダ嬢を捕らえよ」
やがて国王の命と共に、グレンダは騎士に押さえつけられる。
「そんな……っ、嘘、嘘よ……クラリス!」
ひっ捕らえられたグレンダはあろう事か、私に助けを求めて手を伸ばした。
私は鼻で笑いながら彼女へ近づく。
そして、彼女の体に触れ……隠し持っていた懐中時計を奪い返す。
「これは返してもらいます、お姉様。……さようなら」
私はその場を去ろうとする。
その時だ。
「……く、クラリス!」
聞き慣れた声に呼び止められる。バーナードだ。
彼は顔を青くさせ、酷く引き攣らせながら首を横に振った。
「ち、違うんだ、クラリス。俺は、グレンダに騙されて……っ、本当は、本当は君を――」
「バーナード様」
私はボロボロの罪人服を身に纏ったまま、恭しいお辞儀をする。
そして彼を見据えながら嘲笑混じりにこう言ってやる。
「――偽物だと言ったのは、貴方の方ですよ?」
***
私はエルヴィスと同じ馬車に乗って、王宮へと向かっていた。
馬車の中には大笑いをする二つの声が響いている。
「計画通りとはまさにこの事だ! ああ、父上のあの間抜けな顔と言ったら!」
「全く、貴方ったら、いちいち芝居がわざと過ぎるわ。笑いを堪えるのが大変だったんだから!」
「堪えられてなかっただろう、あれは!」
一頻り笑った後、エルヴィスは自分が着ていたジャケットを私の肩に掛けてくれる。
ボロ布を纏っただけのような格好に気を遣ってくれたのだろう。
「夢見の力というのは本当に便利だな。お陰で誰も俺と君に面識があるとは思わなかった」
「それはそうだけど……そもそも、護衛も付けずお忍びで街に下りているなんて、どうかしているわ」
「でも、お陰で出会えたんだろう」
私たちはこの一週間、どうやって冤罪を晴らそうかという策をエルヴィスの執務室で行っていた。
私が訪れる度、彼が人避けを行った為、私たちが処刑日より前から繋がっている事は誰も知らなかった。
お陰で本当にスムーズに、冤罪を晴らすことが出来たという訳だ。
「それでなんだけど、クラリス」
「何?」
「どうせ家には帰りたくないだろう」
一先ずは王宮で詫びや特別待遇の接待を受けることになっているが、父や義母との繋がりが断たれたわけではない。
寧ろこれからは私の聖女の地位を利用しようと考えるはずだ。
そこまで考え、億劫になった私が口籠った時。
「婚約しないか、俺と」
「は?」
予想外の言葉に、私は目を瞬かせてエルヴィスを見る。
エルヴィスは微笑みを私に向けている。
「俺なら色々とこじつけて君が家に帰らない理由も作りやすいし、王宮にはどうせ部屋が有り余ってる。住んでしまえばいい。どうせ例の元婚約者との未練もないんだろう?」
「そ、そんな。急すぎるわ!」
「こういうのは急いだ方が良い。でなければ……聖女の君はすぐに他の男に言い寄られてしまうだろうからね」
あまりに都合が良すぎる話だ。
私はエルヴィスの顔色を窺う。
彼は相変わらず腹の底が見えない、甘い微笑を浮かべている。
「……本音は?」
「君とする悪戯が楽しそう」
そんな事だろうと思った、と私は呆れながら笑う。
こんな落ち着きのない男が未来の国王であっていいのだろうか。
そう思ったものの、人前に立った時の彼の堂々たる振る舞いや、私の前に膝を突いた時の姿を思い出して、そんな疑念を払い除ける。
「利害の一致という事ね」
「そうだね。一先ずは」
この時の彼の言葉の真意に私は気付いていなかった。
私は小首を傾げてから手を差しだす。
そして目を瞬かせるエルヴィスの顔を覗き込む。
「どうぞよろしく。未来の旦那様?」
エルヴィスは子供のような無邪気な笑いを漏らしながら私の手を握った。
「ああ。一生涯を懸けて、最高の悪戯をしよう。未来の奥さん?」
最悪なプロポーズだ、と私は声を上げて笑うのだった。




