第17話 影の記録
──深夜。
ワンルームの部屋は、まるで音が死んだような静けさだった。
壁際のデスクにだけ、小さな明かりが灯っている。
白く光るモニターの前で、霧島悠一は動かず座っていた。まるで時間が止まったかのように。
画面には、奇妙な文字列のフォルダが並んでいた。
observation_001
observation_002
……
observation_057
最初にそれを見つけたのは、二日前の夜だった。
バックアップHDDの整理中。
懐かしさに誘われて、学生時代のメールアーカイブを眺めていたときだ。
“見覚えのない差出人”からのメールが目に留まった。
件名には何も書かれていなかった。ただ、添付ファイルだけがついていた。
最初は迷惑メールだと思った。
だが、添付ファイルを開くと、文字化けしたZIPファイルが現れた。
試しに解凍した瞬間──この57個のフォルダが現れた。
あれから、何度か中身を開こうとした。
だが、どうしても手が止まる。
怖かった。
理由はわからない。だが、“これは知っていいものじゃない”と、本能が告げていた。
今日、ようやくクリックした。
一番新しいフォルダをひとつ。たったひとつ、開けただけだった。
なのに──
彼の手は今、震えていた。
霧島はゆっくりと息を吸った。
そして、独りごとのように呟いた。
「……なんなんだよ、これ」
霧島はマウスを動かし、ren_004.log にカーソルを合わせた。
ほんの少しの間、ためらいが滲む。
けれど、次の瞬間にはクリック音が静かに響いていた。
画面にテキストファイルが開く。
内容は、思いのほか簡潔だった。
【観測ログ - 057】
秋月 蓮:第4回送信記録
送信日:2032年10月12日
受信日:2028年6月20日
観測対象:秋月 蓮/朝比奈 紗季/秋月 天音
結果:軽微な変化あり。構造的因果は維持。
備考:天音に関する記録、欠損。名称のみログ上に残存。
霧島の眉が、わずかに動く。
“秋月蓮”。
“朝比奈紗季”。
そして──“天音”。
スクロールする指が止まった。
何かのいたずらかと思った。だが、それにしては出来すぎている。
送信日:2032年──未来。
記憶送信……観測対象……構造的因果?
理解が追いつかない。
けれど、直感だけははっきりと訴えていた。
これは現実だ。
何かが“本当に起きている”。
霧島は背筋を伸ばしたまま、再びモニターに目を戻す。
視界の端が少しだけ揺れる。
手のひらが、じっとりと汗ばみ始めていた。
「……なぜ蓮と紗季が……?」
ファイルを閉じることもできず、霧島はしばらく画面を見つめていた。
思考は渦巻き、整理が追いつかない。
だが──もうひとつ、開くべきファイルがある。
observer_memo.txt
霧島は静かにマウスを移動させた。
この中に、もっと決定的な“何か”がある。
なぜかそんな確信がある。
マウスのポインターが、observer_memo.txt の上で止まる。
タップするたび、心音がひとつ増えるような感覚があった。
何を見せられることになるのか──
クリック。
テキストエディタが開き、白い背景に黒い文字が、淡々と現れていく。
観測開始:リープ実行日よりプラス95日
霧島は息を吸うのを忘れていた。
このログは、何かを“観測している”。
誰かが──あるいは……
そしてリープとはいったい……
観測19日目:微細な同一性乖離を確認。
発話パターン・行動ルートに前回との不整合あり。
外見的特徴は一致するが、反応傾向が統計域を逸脱。
人格特性のズレか、観測側のバイアスか、検証中。
「前回……?」
声にならない呟きが漏れた。
前回とは──何だ。
“繰り返している”ということか。誰が? なぜ?
観測24日目:観測対象に微弱な可視情報の乱れを検出。
静止画像にてごく一部に処理落ちが確認されるも、機材側要因との切り分けは未完了。
状況継続中につき、次観測にて追跡予定。
モニターの光が、霧島の顔色を際立たせる。
青ざめた肌。じっとりと濡れる額。
マウスを握る手のひらが、汗で滑りそうになっていた。
意味がわからない。
けれど、何か良くないことが起こっているのは分かる。
少なくとも、この“誰かが記録した記憶”は、本物だ。
観測30日目:記録対象、確認不能。
呼称の出現なし。反応も消失。
主要データ、途切れたまま再接続されず。
結果、構造変化なし。観測終了。
霧島は、ログの末尾を見つめたまま、しばらく動けなかった。
構造変化なし。観測終了。
──つまり、それは、何も変えられなかった、ということだ。
手が震えていた。
どうしてこんなものが、ここにある?
なぜ自分のPCに、こんな記録が……?
「……誰だよ、お前」
画面の端に記された、記録者欄。
名前は書かれていない。ただ、無機質なIDの羅列。
何も知らない自分が、ここでこのファイルを開いた──
それは、偶然だったのか?
それとも……もう、定められていたことだったのか。
理解が追いつかないまま、画面を見つめていた。
ただ、なにか大きなものを、取り返しのつかないものを、
“目撃してしまった”という実感だけが、残った。
背後で、冷蔵庫のモーターが唸る音がする。
現実の生活音が、やけに遠くに感じられた。
「……観測、ね」
乾いた声が漏れる。
まるで、自分が“観測される側”だったかのような、不快な感覚。
だが、違う。これは──
“これから観測する者”のための記録だ。
霧島は、息を深く吐いた。
そして、ゆっくりと、正面のモニターに向き直る。
瞳に映るのは、真っ黒な画面。
だがその奥に、まだ開かれていない56個のフォルダが、
こちらを見つめ返しているように思えた。