視えるモノ
帰宅してからの事だ。慣れ親しんだ部屋の光景を眼にし、溜め息を吐く。眼鏡を外し汗ばんだ服を脱ぎ捨て、朝に浴び損ねたシャワーを浴びる。今日の記憶も汗と共に流してしまいたかったからだ。
眼鏡を外した視界は霧がかった世界を映し出す。強度近視の自分が見える世界は曖昧だ。何もかもがボヤけて見える。
トランクスだけを履き、ベッドに横たわり、僕は煙草に火を点けた。口からスルスルと昇る蒼白い煙草の煙を見つめる。
『ん?』
僕から視て、右の視界に煙とは違う【何か】が揺らめいていた。視線を移す。すると、煙とは違う【何か】も同時に移動していった。焦点を合わせて確認する事は出来ない。
煙草の火が消え、煙が消失しても尚、常に僕の視界の右隅にユラユラと【何か】が蠢いている。
『疲れているのだろうか…。』
目頭を押さえ、幾度と無く瞬きをする。
『ん?』
僕は気付いてしまった。ユラユラと蠢く【何か】は瞬きする度に、焦点に合う位置に少しずつ移動している。
パチパチ。
パチパチパチパチ。
パチパチパチパチパチパチ。
其れはユックリと確実に、僕の視界に映り込んでくる。
『うわぁぁぁぁぁ。』
叫び声と同時に、体躯は後退った。
ユラユラと蠢く【何か】が形を成していく。魚の様な虚ろな眼。金魚の様にパクパクと動く唇。生々しく蠢く肉瘤。血液を噴き出しながら、疵跡を露出している下半身。
蘭鋳だ…。
嗚呼…。
其れは…。
紛れもなく…。
自殺をした女の姿だったのだ。