あの日
あの日からだ。そうあの日から僕の人生は狂ってしまったのだ。
行き道の事だった。友人と逢う約束をしていたあの日。僕は余計な睡眠を貪り寝坊してしまった。近道をしようと普段は使わない人通りの少ない道を通った。
其れが失敗だったのだろう。
人で賑わう表通りから一つ外れた裏通りは、雑居ビルが建ち並び、同じ世界とは思えない程の静寂を擁していた。表通りの音が遮断され、音の無い空間だった。鳥の囀りも風の音も聞こえはしない。視界に入る景色は薄暗かったが至って普通の景色だった。だが、其れが逆に僕を不安にさせた。巧くは表現出来ないが生気を感じられなかったのだ。生き物の気配がない。その感覚に近い。
此の世に存在してはならない空間なのだと感じた。背筋に悪寒が流れ、自然と足早になる。振り返ってはいけない。振り向いてはいけない。そう意識をすればする程、神経は研ぎ澄まされていった。今まで耳に伝わらなかった【女の啜り泣く聲】が聞こえた気がした。右斜め後ろ。反射的に振り返った。視界に映り込んだのは廃墟と化したビルの屋上から身を乗り出している女の子だった。
その女の子は制服に身を包んでいた。女子高生だった。その女子高生は姿が確認出来たのと同時に身を投げた。正確に云うならば、階段を降りるかの様に足を踏み出し堕ちた。頭から落下するのを無意識に拒絶したのだろう。足は地面を向き、頭は空を向いている姿勢になっている。重力で加速していく体躯。風圧でバサバサと制服が泳いでいた。
「あっ…。」
落ちていく女子高生と眼が合った。黒く長い髪。美人だが蒼白く、幸の薄そうな顔立ち。少し困惑したかの様な表情。知っている女子高生だった。知っているとは云っても、帰宅途中に立ち寄るコンビニで週に数回、顔を合わせている程度で名前は知らないし、会話をした事すらも無いのだけれど…。
【グジャッ】
形容しがたい厭な音が静寂の世界を切り裂いた。五階建てのビルから飛び降りた女子高生は、足から着地したのだ。ソレは瞬間的に地面に突き刺さった十字架の様に見えた。骨は砕かれ、肉片と血飛沫が飛散し、足は歪な形と成り原型を失った。その後、落下した勢いで、うつ伏せに倒れ込み、綺麗な顔は地面に叩きつけられた。肉体はヒクヒクと痙攣を起こし、死んだ眼をした魚の様に、口をパクパクと開けては閉じている。意識があるのか、無意識なのか、其れは解らない。只、僕に何かを訴えているかに見えた。
そう。僕は自殺現場を目撃したのだ。
何とも言えない気持ちが膨張した。その後、事情聴取をされ、僕は友人に逢う事もせず帰路に着いたのである。