紅い林檎と彼女の言葉。
「頭の中だけにですか?」
「そうだ。頭の中だけに存在している。あたし達は見聞きした事。触れて感じる事。その他総ての事を【脳】で認識している。要するに、総ては【脳】が決定しているんだ。脳は生命が個々に所有するモノだ。どれ一つとして同じモノは無い。そうだな…」
彼女はそう云って、鞄から雑誌を取り出し、頁をめくる。雑誌を机の上で広げ、ある頁を指差しながら、これは何だ?と訊いた。其処には美味しそうな紅い林檎の写真が掲載されている。
僕は視た儘に紅い林檎です。と言った。
「ほぅ。お前には、此が紅い林檎に見えるのか?」
彼女は不思議そうな顔で僕を観る。
『紅い林檎だよな?』
僕が困惑の表情を浮かべると、彼女はクスクスと笑い、そうだ。紅い林檎だ。と言った。
「また、からかったんですか?冗談は止めて下さい。」
「いや…。からかってはいないよ。この紅い林檎を完全に【同じ映像】として、見ているのかは誰にも解らないんだ。人によっては色が違うのかも知れない。形が違うのかも知れない。もしかしたら、見えてはいるのに認識出来ないのかも知れない。逆に存在していないモノが見えてしまうかも知れない…。」
「ちょっと待って下さい。どういう事ですか?意味が解らないんですけど…。」
「あたしの目は左右で見える光の加減が違う。右目は鮮明に色を見る事が出来るが、左目は色褪せた色を見る。この林檎で例えるのなら、右目だと新鮮な色の林檎と認識するが、左目だと腐りかけた色の林檎だと認識する。」
そう言いながら、雑誌の林檎を一定のリズムを刻み、指で叩いた。
「遠くに林檎が在るとしよう。遠くにある林檎を視力の有る人が見たのなら、鮮明な形が見え、視力の無い人が見たのなら、林檎の輪郭はボヤケて見える。」
そう言って、先程よりも少し速いリズムで雑誌の林檎を指で叩いた。
「意識を集中しながら林檎を見たのなら、細部までハッキリと見え、意識が他に集中していたら、林檎は見えていたとしても認識されない。左右で見られる光の加減の違いが、左右で見られる映像を変え、有りはしない影を捉えてしまう。」
言い終わると指の動きを止めた。
「林檎を一つ見ると云う事ですら、完全に自分と同じとは言えないんだ。つまり、世界は自分自身の中でしか存在しない。あたしにはあたしの、お前にはお前のだ。あたしの認識する世界を、お前は完全に知る事は出来ないし、お前の認識する世界を、あたしは完全に知る事は出来ない。だから…。幽霊を知覚する事でさえ、個人個人の【脳】が決める事だ。」
と続けた。
きっと、彼女の言った言葉に間違いは無い。誰もが【同じ世界に生きてはいない】のだ。そして、意識するにせよ、しないにせよ、誰もが理解出来ない事を恐れるが故に、思い込みながら生きているのだろう…。
【同じ世界で生きている】と…。
僕の信じていた世界は音を立てて崩れ始めた。眩暈に似た何かが僕を襲う。パキッと頭の中で何かが壊れる音がした。